俺の娘を嫁にもらってくれないか

春風秋雄

今日も親父さんがいた

いつもの小料理屋に行くと、藤城の親父さんが座敷で仕事仲間数人と飲んでいたので、嫌な予感がしていた。案の定、適度に酔いが回ってきた頃に、藤城の親父さんは仕事仲間と飲んでいた席からカウンターに座っていた俺の隣の席に移ってきて、いつもの話をしだした。

「なぁ、俊平ちゃん、前から言っているけど、そろそろうちの娘の香奈枝のこと、真剣に考えてもらえないか。親の俺から言うのも何だけど、本当に器量はいいんだ」

藤城の親父さんと会うといつもこの話になる。俺は娘さんの香奈枝さんにはまだ会ったことがない。

「確かに今年30歳で、薹が立っているけど、俊平ちゃんも33歳だろ?年齢的には釣り合うじゃないか。一度会ってやってくれないか」

もう1年以上も同じ話を何度もされている。

「あいつを見ていると、不憫でならないんだ。うちのカミさんが病で逝ってから10年、あいつは弟たちのために母親役に徹して、自分の幸せを犠牲にしてきたんだ。もうそろそろ母親役は卒業して、ひとりの女として幸せになってほしいんだ。だから頼むよ俊平ちゃん。一度でいいから会ってやってくれよ。それで俊平ちゃんが気に入らなければ諦めるから」

藤城の親父さんも、何度も何度も同じ話をしているので、最近では一字一句違わず同じ言葉を繋いでいる。そして、俺も最近では同じ対応をしている。ただ何も言わず、黙っているだけだ。


俺の名前は友長俊平。医療機器メーカーの営業をしている。住んでいるマンションがこの小料理屋の近所なので、夕食がてら、よくこの店には来る。藤城の親父さんと知り合ったのもこの店だ。というより、この店以外で藤城の親父さんと会ったことはない。小さな工務店を経営していると言っていたが、職人さんと思われる人たちと、よくこの店に来ている。1年半くらい前に俺は転勤でこの街にきた。この店に通うようになって2か月くらいした時、カウンターで飲んでいると、その日一人で来ていた藤城の親父さんが隣に座っていた。俺が女将さんと話していると、横から藤城の親父さんが話しかけてきた。

「お兄さんは、独り身なのかい?」

「ええ、だからこの店は食事も美味しいので助かります」

それから何の仕事をしているのかとか、年はいくつだとか、色々と聞いてきた。名前は藤城と名乗ったが、女将さんは親父さんと呼んでいる。よくよく聞くと工務店の大将で、従業員からは親父さんと呼ばれているので、この店では藤城の親父さんということで通っているということだった。

それから藤城の親父さんは自分の身の上話をし出した。

奥さんは10年ほど前に病気で他界されたそうだ。お子さんは29歳の長女を頭に、大学2年生の長男、高校2年生の二男、中学3年生の三男の4人で、奥さんが亡くなったときに、長女の香奈枝さんは大学を辞めて就職し、弟3人の面倒を見るために仕事が終ったら真っ直ぐ家に帰り、家事一切を引き受けてくれたそうだ。

「俺に甲斐性がないばかりに、長女の香奈枝だけのときは何とかやっていけたけど、長男、二男、三男と立て続けに子供が出来たら、さすがに俺だけの稼ぎではどうしようもなくなって、カミさんも働きに出るようになってね。仕事をしながら小さい子供の面倒を見てと、苦労かけてしまったものだから、とうとう倒れてしまった。それを今度は香奈枝がやっているものだから、また香奈枝まで倒れるのではないかとヒヤヒヤしていたのだが、じゃあ、他に誰が下の子の面倒を見るのだと言えば他に方法はなくて、それで今まで香奈枝に甘えっぱなしになってしまったというわけなんだ。だから、弟たちに手がかからなくなった今からでも、自分の幸せをつかんでほしいとおもっているわけよ」

藤城の親父さんはそう言ったあと、ジッと俺を見て、香奈枝をもらってやってくれないかと言ってきたのが始まりだった。

一度、どうして俺なんですか?と聞いたことがある。すると、娘さんが大ファンの俳優に似ているからだと、予想外の回答が返ってきた。今まで娘さんに結婚しろと何度も進めたらしいが、そんな気はない、一生独身でいいと言い切ったそうだ。だから、大好きな俳優に似ている人であれば心が動くのではないかと思ったということだった。

決して悪い人ではないのだが、昭和の親父さんといった感じで、思いこんだら、他のことは考えられないタイプなのだろう。俺は鏡を見ても、その俳優に似ていると思わないし、いまだかつて、誰からも似ていると言われたことはない。


「なあ俊平ちゃん、本当は誰か心に決めた人がいるんじゃないのか?それならそうと言ってくれよ」

「いや、そんな人はいないですよ」

確かにいない。頭の中では一人の女性の顔が浮かんだが、付き合っているどころか、俺はその人の名前すら知らない。たまに仕事で話をする程度の相手だ。相手も俺のことは業者の人という認識でしかないだろう。またその女性は年齢的にも既婚者である可能性が高い。だから、たまに仕事で顔を見る程度で俺は充分だった。


その日は、藤城の親父さんはカウンターで、一人で飲んでいた。何か仕事で嫌な事でもあったのだろう、女将さんを相手に愚痴をこぼしていた。俺が来た時には、結構出来上がっていて、俺が席をひとつ離して座っても、チラッと見ただけで、今日はいつもの話をしてこようとはしなかった。今日はゆっくり飲めるなと思った俺は女将さんに何点か料理を注文した。藤城の親父さんは、ずっと女将さんを相手に同じ愚痴を繰り返していたが、段々呂律が回らなくなったかと思うと、とうとうカウンターにうつぶして、寝てしまった。女将さんが声をかけるが、起きようとしない。女将さんは「仕方ない、香奈枝ちゃんに連絡するしかないね」と言って電話をかけ始めた。

「あ、香奈枝ちゃん?親父さん、また寝てしまったのよ。誰か迎えによこしてくれない?」

どうやら藤城の親父さんが寝てしまうことは度々あるようで、家には何度も電話をかけているようだった。

「あら、今日は香奈枝ちゃんが来てくれるの?じゃあ、待っているからお願いね」

女将さんはそう言って電話を切った。

香奈枝さんが来る?これはまずい。

「女将さん、俺そろそろ帰るわ」

「何言っているのよ、鮭雑炊、今作っているんだから、ちゃんと食べてから帰ってよ」

そうだった。鮭雑炊を頼んでいた。作る前ならキャンセルできただろうが、作り始めているのであれば、いらないと言うのは申し訳ない。俺はもう少しここにいるしかない。

しばらくすると、ガラガラと戸を開けて誰かが入って来た。

「女将さん、いつも申し訳ないです」

「いいのよ。それより一人で親父さん連れて帰れる?」

「大丈夫です。ちゃんと起こしますから」

俺は顔を背けて、存在を気づかれないようにしていた。香奈枝さんは女将さんから冷たいお絞りをもらい、親父さんの顔に押し当てているようだ。親父さんが呻いた。そろそろ起きるかもしれない。起きたら起きたで、面倒なことになりそうだ。そう思っていたら、女将さんが俺に言った。

「俊平ちゃん、悪いけど香奈枝ちゃんと一緒に親父さんを家まで連れて行ってもらえない?」

「僕がですか?でも雑炊が・・・」

そこで初めて藤城親子の方を見た。そして、俺の頭は一瞬でフリーズした。

「あれ?友長さん?」

香奈枝さんが俺を見てそう言う。

「ひょっとして、浅野総合病院の?」

「はい、浅野総合病院で働いている藤城です」

俺が密かに気になっていた営業先の医療事務の女性だった。病院へ営業に行った際は、事務の受付で会社名と名前を名乗って事務長さんにつないでもらっていたので、相手は俺の名前を知っていたのだ。

「あら、おふたりは知り合いだったの?」

女将さんが驚いたように言ったあと、急にニヤニヤと笑い出した。

「香奈枝ちゃん、俊平ちゃんが親父さんを連れて帰るのを手伝ってくれるから、俊平ちゃんが雑炊食べ終わるまで、そこに座って待っていて」

女将さんは楽しそうにそう言って、雑炊の準備を始めた。なんだ、まだ作ってなかったのか。


「あなたが藤城の親父さんの娘さんだったんですね」

「父はここで私の話をしているのですか?」

「ええ、何度も聞かされています」

「どうせ、口うるさい“いかず後家”とか言っているのでしょう?」

「そんなことないです。亡くなったお母さんの代わりに弟さんの面倒を見てもらって、申し訳ないといつも言っていますよ」

「だって、この親父だから、再婚してくれる奇特な人がいるわけじゃないので、私がやるしかないのですから」

それから弟さんのこととか、色々話してもらった。一番下の弟さんが大学を卒業するまでは自分のことは考えず、母親役に徹するのだと言っていた。苦労しているだろうに、とても明るい人だった。俺は雑炊を食べながらその話を聞いていた。

雑炊を食べ終わり、じゃあ親父さんを家まで連れて行きましょうということになった途端に、親父さんがむくっと起き上がり、俺に言った。

「どうだ俊平ちゃん、なかなか器量の良い娘だろ?」

「お父さん、起きていたの?」

「さっき起きたところだ。俊平ちゃん、香奈枝の顔も見たことだし、例の件、一度考えてくれないか」

「例の件って、何よ?」

「お前を嫁さんにもらってくれと俊平ちゃんに頼んでいるんだよ」

「何勝手なこと言っているのよ」

「だって、俊平ちゃん、香奈枝の好きなあの俳優に似ているだろ?」

そう言われて香奈枝さんはジッと俺の顔を見た。そして、ぽつりと言った。

「全然似ていない」


あれからすぐに浅野総合病院に行く用事があった。受付で「すみません」と声をかけると、他の事務員が立ち上がる前に香奈枝さんが対応に来てくれた。

「この前はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

香奈枝さんが丁寧に謝った。

「全然気にしていませんよ。私は結構楽しかったです」

「本当に、あんな父親で申し訳ないです。これからも父のこと、よろしくお願いします。あ、事務長ですよね?ちょっとお待ちください」

香奈枝さんはそう言って事務長さんにつないでくれた。

事務長さんとの話が終り、周りに人がいないことを確認して香奈枝さんに話しかけた。

「今度、お食事でもいかがですか?」

一瞬香奈枝さんは黙り込んだ。そして静かに言った。

「申し訳ありません。夜は弟たちの食事を作らなければいけないので、外食ができないのです」

そうか、家事を全部やっているのだから、夕食に誘うのは無理だった。

「でも、少しお茶を飲む程度なら・・・」

香奈枝さんがはにかみながら言った。

「じゃあ、仕事が終ってから、少しだけお茶しましょう」

俺たちは連絡先を交換した。


香奈枝さんの仕事が終る時間に合わせて俺は病院へ迎えに行き、少し離れた喫茶店に入った。1時間足らずの時間だったが、楽しかった。最初はぎこちなく、会話が進まなかったが、弟さんの話をはじめてからの香奈枝さんは楽しそうに弟たちのことを話してくれた。長男が勇一くん、二男が勇太くん、三男が勇気くんといい、「ゆうちゃん」と呼ぶと三人が返事をするので、長男は「いっちゃん」、二男は「ター坊」、三男は「キーちゃん」と呼んでいるらしい。そういう話をしている香奈枝さんは明るく、とても可愛い顔をしていた。

別れ際にまた誘ってもいいかと聞くと、これくらいの時間なら大丈夫なので、いつでも誘って下さいと言ってくれた。


本当は毎日でも誘って会いたかったが、それでは香奈枝さんが迷惑だろうし、何より香奈枝さんの仕事終わりの時間は、俺は本来まだ仕事中の時間で、遠くへ営業に行っている時は、その時間に浅野総合病院へ行くのは無理だった。だから香奈枝さんと会うのは、週に1回くらいのペースだった。

4~5回会ったところで、俺は思い切ってデートに誘ってみた。

「お休みの日に映画でも観に行きませんか?」

香奈枝さんはしばらく考えていた。

「日曜日は家のことで色々と忙しいですが、土曜日は午前中で仕事が終りますので、午後から夕方までなら大丈夫です」

「じゃあ、今度の土曜日に行きましょう」

浅野総合病院の休みは、日曜祝日と土曜日の午後だった。それ以外に職員の方々はシフトを組んで平日に休みを取っているということだったが、平日は俺の方が仕事なので無理だった。


土曜日の昼過ぎに病院まで迎えに行き、ランチを食べてから映画に行った。映画を観終わるとまだ4時だったので、少しコーヒーを飲む時間があった。

「これから毎週土曜日に誘ってもいいですか?」

「毎週映画を観るのですか?」

「映画はたまにでいいので、ドライブに行ったり、世間一般のカップルがするようなデートをしたいなと思うのですが」

「私は、大学時代に少しだけお付き合いした人がいましたが、それ以来デートなんかしたことないです。デートがどういうものかも忘れてしまいました」

「僕も何年も彼女はいないですよ。だから、香奈枝さんとこうしていることが楽しいです。香奈枝さん、僕と正式にお付き合いしてもらえませんか?」

香奈枝さんは一瞬驚いた顔をした。そしてしばらくしてから口を開いた。

「大変嬉しい申し出ですけど、お付き合いすることはできません。出来たら今のままの関係で、ときどき会ってくれたら嬉しいです」

「香奈枝さんにとって、僕のような男では物足りないですか?」

「そんなことはないです。俊平さんは、とても良い人だと思います」

「じゃあ、好きな俳優に似てなかったからですか?」

香奈枝さんは笑いながら違いますと言った。

「私があの俳優が好きだと言っているのは、演技が好きということで、好みのタイプというわけではないです。俊平さんは、あの俳優には似ていませんけど、充分イケメンだと思いますよ」

「だったら、どうして?」

「お付き合いを始めたら、その先のことを考えるようになるでしょ?お互いにそういう年ですし。でも、私は三男のキーちゃんが大学を卒業するまでは、そういうことは考えられないのです。だから、いまのままがいいのです」


週に1回、香奈枝さんの仕事終わりに喫茶店で平日に会うのと、毎週土曜日の午後のデートで、週に2回会うようになった。土曜日のデートは、それなりに時間はあるが、夕方までには帰ってこなければならないので遠くまで行くことはできない。なおかつ、ときどき弟さんから電話が入ってくるので、落ち着いた雰囲気になれなかった。俺は、思い切って平日の休みに会わないかと提案してみた。

「平日はお仕事でしょ?」

「有給休暇がたまっているので、休みを取ることは可能です」

平日であれば、香奈枝さんの弟さんも学校へ行っているので、昼食の準備をする必要もない。朝から夕方まで一緒にいられることになる。

「本当にお休みとって、お仕事の方は大丈夫ですか?」

「大丈夫です」


風邪をひいたときくらいしか有給休暇をとったことがなかったので、平日に遊びにいくのは後ろめたい気分だったが、香奈枝さんの嬉しそうな顔を見たら、そんな気分は吹っ飛んでしまった。せっかく1日遊べるのだからと、遊園地へ行くことにした。平日なら人が少ないだろうと思っていたのに、意外に人は多かった。二人ともこういうところへ来るのは本当に久しぶりで、あっという間に時間は過ぎていった。

帰りの車の中で、香奈枝さんは「楽しかった、本当にありがとう」を何回も繰り返した。渋滞があってはいけないと、早めに遊園地を出たが、道路は空いており、かなり早く着きそうだった。

「かなり早く着きそうですけど、どうします?」

「俊平さんにお任せします。好きなところへ連れて行ってください」

「そんなこと言ったら、ホテルへ行ってしまいますよ」

俺が冗談で言うと、香奈枝さんは真顔で「いいですよ」と言った。

「本当にいいのですか?」

「あくまでも、友達としてですけど」

友達としてというのは、どこまでそういう行為をしていいということなのだ?


ホテルのベッドに入れば、友達としてと言っても、する行為は恋人とかわらない。余韻に浸る香奈枝さんの裸の肩を抱きながら俺は聞いた。

「あくまでも友達としてと言っていたのは、こういう関係になっても結婚はないよということですよね」

「そのつもりで言いました」

「どうしてもキーちゃんが大学を卒業するまでは結婚しないつもりなのですか?」

「そのつもりです」

「キーちゃんは高校1年生でしょ?大学卒業まであと7年もあるじゃないですか。そのとき香奈枝さんは37歳ですよ?」

「仕方ないですよ」

「香奈枝さんがいなければ、弟さん達でなんとかやるのではないですか?」

「お母さんが入院した時、私はまだ大学生だったのですが、家事を私一人でやってみたのです。買い物に行って、皆の食事を作って、食べ終わった食器を洗って、全員分の洗濯をして、乾いた洗濯物を畳んで、それだけでも本当に大変でした。私は学生でしたから、まだ時間に余裕はあったけど、お母さんは働きながらこれをやっていたのかと思うと、どれだけ大変だったんだろうと思いました。お見舞に行ったとき、お母さんに言ったのです。今まで大変だったでしょ。辛かったでしょうって。そしたらお母さん、可愛いあなたたちの面倒をみるのに、辛いわけないじゃない。私の作った料理を美味しい美味しいと食べてくれるあなたたちの顔を見ていたら、こんな最高のご褒美はないと思ってやっていたわよって言うんです。私は泣けてきました。小さい弟たちと一緒になって、みんなお母さんに任せて楽ちんな生活をしていたのが、本当に申し訳なくて、少しでもお母さんを手伝ってあげればよかった、そうすればお母さんは病気にならなかったかもしれないと本当に後悔したのです。だから、お母さんがいなくなったあとは、それまで何も出来なかった分、私がお母さんの代わりに弟たちの面倒をみようと決めたのです」

そうだったのか。話を聞く限り、香奈枝さんが弟さんたちの面倒を見るのをやめることはないだろう。

「だったら、結婚したあとも弟さんたちの面倒を見ることができれば、結婚も可能ということですよね?」

「まさか、結婚後はうちに同居すると言うつもりではないでしょうね?うちは狭いですから荷物を置くところもないですし、襖一枚隔てた隣の部屋には弟が寝ているのですよ。そんなところでは、こんなこともできないですよ」

確かに。昭和の家事情ではそんなこともあったのだろうが、今の時代で襖一枚隔てた部屋に年頃の弟さんが寝ていると思ったら、とてもじゃないが夜の夫婦生活をする勇気はない。やはり同居は無理のようだ。あとは、すぐ近所に二人で住めるマンションかアパートを探すしかない。ただ、あの街は、古い住宅と商店が立ち並ぶ街で、単身用のマンションが数件あるだけで、家族用のマンションは見たことがない。果たして見つかるだろうか。しかし、見つけないと、あと7年待たなければ香奈枝さんとは結婚できないということになる。


一度体の関係をもってしまうと、そういう行為をすることが自然な流れになってしまった。土曜日の午後からは、ランチをしてからホテルへ行くというのがデートのパターンになってしまった。しかし、二人の関係は、あくまでも友達という関係で、将来のことは何も考えないという関係のままだった。

不動産屋を何件も回ったが、やはりこの近辺では家族用のマンションはなく、少し離れた場所にあった家族用のマンションも今は空き部屋はないということだった。


いつもの小料理屋で飲んでいると、久しぶりに藤城の親父さんが隣に座ってきた。

「俊平ちゃん、香奈枝とはどうなっているんだよ?もう付き合っているんだろ?」

「付き合っているわけではないのですが、それなりの関係にはなっています」

「それなら、とっとと結婚しちまいなよ」

「それがそうもいかないのです」

俺は香奈枝さんが病室でお母さんと話した内容も含めて事情を説明した。

「そうか、香奈枝と良枝がそんな話をしていたのか。それで勇気が大学を卒業するまでは結婚しないと言っていたのか。うちの家を増築できればいいんだけど、庭は狭いし、古い家だから本格的なリノベーションをしないと無理なんだ。かといって、そんな金はないしな。困ったなあ。この辺りに新婚さんが住めるようなマンションはないしなあ」

良枝さんという名前は初めて出てきたが、どうやら香奈枝さんのお母さんの名前のようだ。

「あのー、」

いきなり女将さんが言いにくそうに口を挟んできた。

「香奈枝ちゃん夫婦が住むところならあるんだけど」

「どういうことだ?」

驚いて親父さんが聞き返す。

「良枝さんが亡くなる前に、私呼ばれて病院へ見舞いに行ったことあったじゃない?」

「そう言えば、良枝が女将さんに話しがあるから呼んできてほしいと言って、俺が連れて行ったんだったよな」

「良枝さんが言うには、香奈枝ちゃんは弟の世話をしなければならないから結婚しないというはず。でも将来は必ず良い人が現れる。その時は、夫婦で家の近くに住んで、通いで弟の世話をするようにいってほしい。でもこの辺りには、夫婦で住むようなマンションもアパートもないから、その夫婦の住む場所として、この店の2階を貸してやってほしいというのよ。親父さんも知っているように、この店が出来た時は、私は2階で生活していたけど、その時にはもう、私はマンションを買って、2階は使っていなかったから、そのことを知っていた良枝さんがそう頼んできたの。それで、その時の敷金と礼金だと言って、50万円渡してくれた。もし2階を貸す必要がなくなったら、この50万円はどうするのよって聞いたら、その時は親父さんがお金ないときに、そのお金で飲ませてやってほしいと言っていた。親父さんは飲み代をちゃんと払ってくれていたから、50万円は手つかずで置いてあるけどね」

俺と親父さんは、あっけにとられ、茫然としていた。しばらくすると、親父さんはお絞りで、目をゴシゴシ拭いだした。


引越しが終り、今日から俺と香奈枝さんは小料理屋の2階で生活することになった。聞くと、20年くらい前にこの小料理屋を建てたのは、藤城工務店だったらしい。親父さんのアドバイスで仕事とプライベートを切り離すように、2階への出入りは店の外からするように設計したということだった。おかげで俺たちは店を通らなくても住居に入ることができる。

引越しの日の夜は、小料理屋の表に「貸し切り」の札をかけ、香奈枝さんの弟さん達をはじめ、親父さんの会社の人や、身近な人たちが集まって結婚式も新婚旅行もしない俺たちを祝ってくれた。親父さんはバージンロードを香奈枝さんと歩きたかったと、しきりにボヤいている。

しばらくすると、親父さんが俺の隣に座ってきた。見るからに、かなり酔っている。

「俊平ちゃん、ありがとうな。本当に香奈枝をもらってくれて、嬉しいよ。これであいつも、やっと幸せになれる」

「必ず幸せにします」

「でも、良枝は言っていたんだろ?可愛い子供たちの嬉しそうな顔をみていると、こんな最高のご褒美はないと。だったら、香奈枝にもそんなご褒美を見せてあげたいな。なあ、子供はいつ頃までに作る予定なんだ?」

「それはコウノトリさんのご機嫌しだいということで」

「なに悠長なこと言ってんだよ。香奈枝は30歳だよ。早く作らないとダメだよ。もうこの場はいいから、二人で2階に上がって子作りに励めよ」

この親父さんは、今度は会うたびにこの話をしてきそうだ。

しかし、それはそれで幸せな時間だと俺は思った。

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