最終話


 ホームセンターで段ボールを買った。通常のレジ袋ではなく、専用の袋を特別に購入して、それらを持ち帰ることになった。そこまで嵩むようなものではなかったけれど、それでも袋なしで持ち運べるものではなかったから、きっとこれでいいのかもしれない。


 夕焼け空はとうに死んでいて、暗闇が世界を占有しようとしている。空の端にある青色のすべてと、乾いて冷たくなり始めている風の雰囲気で、やはり本当に秋がやってくるのだな、とかそんなことを考えていた。


 道中、いろいろな人とすれ違った。


 仕事帰りらしいサラリーマンが駅のほうから歩いているのを見かけた。高校の帰り道なのか、学生鞄を自転車の籠に入れて、友人らしき人と会話をしながら帰っている姿を見かけた。忙しそうな表情をしながらも、朗らかな笑顔を浮かべて子供たちと手をつないでいる主婦らしき人も見かけた。特に目的もなく歩いている腰の曲がった老婆の姿を見かけた。


 今、私はその群衆の中に紛れることができているのだろうか、とか、唐突にそんなことを考えた。社会生活を過ごしている人たちの中に、私は確かに存在しているのか、とか、途方もないことを考えてしまった。





 父は私に優しさを与えてくれた。いつだって欠かすことのないように、私に声をかけてくれていた。そのひとつひとつは思い出すことはできないけれど、その言葉かけに私は生かされていたと思う。


 毎日は灰色だった。学校での一日に鮮明な彩を見出すことはできなかった。周囲の大人が言うように、薔薇色と言えるような高校生活なんて、自分の中では探すことなんてできやしなかった。


 いつからか感情の起伏は大人しくなった。自重というものを覚えたのかもしれない。今思えば、その自重というものは、幼いころから無意識に律していたものだったように思う。


 わがままを言うことは少なかった。私には母がいないのだから、父に負担をかけたくはなかった。父がいるだけで、私にはそれだけでよかったから、わがままを言うということさえ頭の中にはなかった。


 それでも、そのせいで感情の動きは鈍くなっていった。


 人の言うことだけを聞いて生きていればよかった。学校で求められる時に求められる姿でいれば、それで許されることを子どものうちから知っていた。父に不満があったわけではないけれど、それでも大人が暗黙の了解として敷いているルールを子どものうちから理解せざるを得なかった。


 そんな理解をしたうえで生活を送っていた。毎日を過ごしていた。そんな毎日のせいで、自分の存在も不確かになっていった。苦しさなどもなく、楽しさもない。虚無のような毎日を送っていた。それでも、私に不足はなかった。不満はなかった。いつも通りでしかなかった。


 でも、今の私はどうだろう。


 父がいなくなって、そうして自分だけが取り残された世界の中で、自分がその中に紛れることができているのか、不安に思ってしまった。自分らしさを見出すことができない自身に対して、どこか苦しさを覚えてしまっている。


 父がいたおかげで、今までそれに気づかなかった。気づいていても知らぬ振りをすることができていた。それが父の与えてくれた幸せであり、私が生きることのできていた一つの理由であった。


 そんな、ゼロのような私は、本当に今生きることができているのだろうか。


 空白でしかない私が、世界に生きることができているのだろう。社会に紛れることができているのだろうか。


 頭が、おかしくなる。


 よく、わからなくなる。


 人間らしい生活が、どこにもないように思えてしまった。





 家に帰ってから、ずっと片手で抱えていた段ボール箱を開放して、出かける前と同じように畳の上で横になった。少し散らかってしまったように感じる部屋の中で、それらを整理する気にはならなかった。


 何かをしなければいけない。何かをしなければいけないけれど、何かをするための気力がそもそも湧き上がってこない。行動をするための体力は持ち合わせているのに、その体力をどこに行使するべきなのかがわからないままで、無為に時間を過ごすことしか、今の私にはすることができない。


 片付けなければいけない。整理しなければいけない。そんなことはわかっているけれど、横になってしまった体勢を動かす気力はない。身体は脱力しきっていて、重力だけが妙にのしかかってくるように感じてしまう。


 このままで、いいのだろうか。


 このままでいいんじゃないだろうか。


 そんなことを考えてしまう。


 何もしないまま、ただ意識を暗闇にさらしてしまえば、それでいつかは何とかなるのではないか。何か行動をする必要なんてないのではないか。息をするのも躊躇ってしまうほどに、未だに虚脱感が自分の中にあるのに、それでも行動するのは良くないことなのではないか。


 ここにきて、ようやく自分がつかれていることを認識した。


 昨日まで、いや、今日まで慌ただしい日々を送っていたような気がする。


 父が数日前に亡くなって、すぐにいろいろなことに対処がされた。父の死を実感する間もなく、父は煙になって、そうして高いところへとのぼっていった。息をつく暇もなかったような気がする。


 親類の前ではいつものように振舞った。特に何も感じなかったから、いつも通りでいられた。だが、それは単純な強がりだったのではないか。強がる気持ちがなかったとしても、自然とそんな振る舞いをしていたのではないだろうか。


 


 何も、したくない。




 そんな気持ちが、衝動が心の中を占有していく。


 気力がないのだから、その衝動に身をゆだねてしまえばいい。部屋の中は散らかっているけれど、気にせずそのまま横になり続けていればいい。


 ここには私しかいない。私を責め立てるものもいないし、私を許容してくれるものも自分しかいない。


 もう、このまま眠ってしまおう。


 私は、目を閉じようとした。


 閉じようとして、その一瞬に紛れ込むように視界の中に入ったものに、結局またすぐに目を開けた。




 ああ、まだ残っていたっけ。




 私は、脱力しきっていた体に力を入れた。





「もう秋になるからねぇ」と父は言った。


 その日の気温はまだ高くて、秋という季節が来るには早いのではないか、そんなことを私は父に伝えた。


「もう十月だから」


 父は苦笑しながら夕飯の準備をしていた。


 父がそんな風に季節の話をしていたのは、その時に準備していたのが秋の味覚のひとつである、栗のご飯だったからだと思う。


「炊き込みだから夕飯が遅くなるけれど、それでもいいかい?」


 私は父の言葉にうなずいた。特に空腹感も覚えていなかったし、時間がずれたところで問題はなかった。


 それから父は下ごしらえをした後、炊飯器の電子音を鳴らした。しばらく他愛のない雑談を父は広げた後で、ようやくというべきか食べごろを報せるように二度目の電子音を炊飯器は響かせる。


「お待ちかねだぁ」


 父がニコニコとしながら、そうして夕飯の支度をしたことを、そんな時に思い出した。





 結構な量を炊飯していたせいで、未だに取り残されている栗ご飯が冷凍庫の中にはあった。


 きちんと食べる量を考えて炊飯すればいいのに、とか、そんなことを翌日くらいにぼやいた気がする。父はそれに苦笑だけを返した。


 冷蔵庫、冷凍庫の中を覗いてみて、だいたいのものが空白を示しているのに対して、その虚を埋めるように、ラップにくるまった栗ご飯が視界に入る。


 食欲はない。そもそも空腹ではない。けれど、それでも今、父が作ってくれたものを食べたい、という気持ちになって、私はそれらのうちから一つを手に取って、電子レンジを使う。


 小気味いい電子音が温めが終わったことを知らせると、私はそれをちゃぶ台の上にのせて、食べるための支度を整える。


 視界に入るのは、下ごしらえが雑にしか見えない渋皮があったり、栗の大きさが不揃いだったり。大きな栗の部分に対して、小さな栗の部分は本当に欠片のように小さかったり、父らしいな、という気持ちが沸き上がる。


 ごろごろとしている栗と、ご飯を合わせて箸でつついて、そうして口に運ぶ。


「……ふふ」


 塩味が強すぎる。


 そんな文句を、また父につけたくなったから。


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