転覆
川沿いに二人の男が横並んで座っている。
夕暮れ、辺りはすでに薄暗く、夜闇がすぐそこまで迫っていた。人通りの少ない道だ。川はぽつんと頼りなくひとつだけある街灯の光を滲ませ、穏やかな様子であったが、その実想像以上に深く、冷たく、渦を巻き、静かに激しく流れているのであった。足を滑らせれば溺れてしまうのは周知である。溺れるときは静かに溺れるものだ。声を出す間もなく、気づいたときには川底に沈んでしまう。だからこそこの川には暗くなってからはなおさら、誰も近づかないのであった。
俺さ、彼女と別れたんだよ。と男――航が言った。
「お前と偶然会った日があったよな、そのすぐあとのことだった。自分が全部悪いんだと、色の失せた顔で告げられた。いつものことだ、俺が誰にでも優しいから寂しかっただとか、他に好きなひとができただとか。俺に好きだと言ってきたのは向こうなのにな、どうしてだと思う」
「さてね、おれにも分からないな。おれは一途だから」
「へえ、長くつるんでるけどお前から恋愛の話が出たことなんてなかったから、知らなかったな」
「ああ、そうだったかな」
「……でも、これは分かるだろ。あの子からお前の匂いがしたのはどうしてだよ、凪野」
俺はあの匂いがする男を、お前意外に知らない。たとえ偶然だったとして、お前と初めて会ったはずの彼女の様子は明らかにおかしかった。
問いかけられた男――凪野は、ぼんやりと川を見つめたままジッと黙っている。その表情は前髪に隠れて読めなかった。
「彼女に別れたいと言われたとき、俺は理由を聞こうともしなかった。別に、構わないと思ったからだ。ちゃんと、まあ、好きではあったけど、どうやら執着するほどのものじゃなかったらしい」
薄情な男だろう。
「俺は彼女にもお前にも怒っているわけじゃない。まあそれもどうかとは思うけどさ。ただ、俺は知りたいだけなんだ」
どうしてお前の匂いが彼女にべったりと纏わりついたのかを。
「ああ……。ははは」
しくじったな。
「彼女に惚れたのか」
「いいや、違うね」
「俺に恋人ができたのが気に入らなかった?」
「そんなわけ、ないだろう」
「俺が恋人を失って、嬉しかったか。それとも愉快だった?」
「まさか! お前の恋路を……人生を邪魔したいわけじゃない。お前が不幸になることなんて、これっぽちも望んじゃいない。これだけはほんとうだ、信じられないとは思うけれどね」
ほんとうなんだよ。
「それならどうして」
「おれの罪にお前は関係ないよ」
「どいつもこいつも、そればかりだな」
身勝手だろう、あまりにも。
悪い、裏切って。と凪野は自嘲するような薄笑いを浮かべた。ゾッとするような氷の冷たさだった。
「おれはおれの気持ち以外に無関心なんだ。あの子に対しても、お前に対してもだ。おれは自分のことしか考えていないんだよ」
「ほんとうに、そうだな」
……なあ、それなのに。
「どうしてだろうな。俺はまだお前のこと、親友だと思ってるんだ」
「……ははは、まだそう呼んでくれるのか」
まだ。親友と。
「お前の恋人だから、あの子に手を出した。そう言ってもか」
おれはお前から恋人も、親友も奪ったんだぜ。と、凪野は笑った。
ように見えた。
「お前は今ここでおれを突き落とし、三途の川に送ったっていいんだ。けしてお前に手は伸ばさない。助けを求めることも引き摺り込むこともしないから、おれが波に呑まれて渦に巻き込まれ、川底で水屑になる滑稽な姿を、すぐそこで、特等席で! ……いや、見ていなくたって構わないから」
なんてな。
立ち上がった凪野を、航は呆然と見つめている。
「ああ、……悪かった。二度と、お前に関わらないから。ほんとうは、もっと早くこうするべきだった。分かっていたんだけれど、離れがたくてさ。お前と一緒にいたかったんだ、なんて」
お前にとったら気味が悪いよな。
そう言って去ろうとした凪野の手を咄嗟に掴んで、航は「待てよ」と小さく言った。言ったというより、零れ落ちたようだった。
こいつのなかに、こんな激流があるだなんて知らなかった、と航は狼狽する。思考がぼやけてまとまらない。咄嗟に掴んだ手に力がこもる。何かを言わなければいけないと思うが、何を言ったらいいのかが分からなかった。彼女に惚れたわけでも、俺を嫌っているわけでもない。それでいて、俺と一緒にいたかったと、そう言う理由。
水面が揺れた。水面がふくらんだ。
なにかを吞み込んだような、とぷん、という音がした。
凪野の顔をふと見上げる。
眉根を寄せて、何かに耐えるかのような表情が見えた。目尻が赤く染まっていた。
「な」
――凪野。
呼びかけると、目が合った。
観念したと、息を吐いた。藻掻く男の肺に残っていた最後の空気のようだった。
「……ここでお前に突き落とされなくたって、ほんとうは、とっくに溺れているんだよ。おれは。マア波の底でも住めば都だ」
それなのに。
「お前に手を伸ばすつもりもないのに、お前の手の温度を、お前が愛しいものにどう触れるのかを、知りたがった。そうしてそれを抱えておれはおれをひとり、慰めようとした。愚かだろう。おれも欲深い男なんだよ」
お前にずっと、執着しているんだ。
沈黙の間を抜けたツンとした夜風は、頬の熱を冷ますどころか、すぐに温くなって溶けてしまった。
掴む手が、酷く熱かった。
沈溺 蔦田 @2ta_da
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