沈溺
蔦田
浮舟
釣った魚に餌をくれないってこと? と男は尋ねた。
「……彼があたしを釣ったんじゃなくて、あたしが彼の舟に飛び込んだんです」
「大事にしてくれてるってことじゃないのかい」
「そうですね、大事にしてくれてるんだと思います」
「優しい男だからね」
頬杖をつきながら女を横目で見る男の、少し長めの黒髪から覗く透明な瞳と見透かしたような物言いに女はどきりと胸が騒いで手元の酒をまたひと口煽った。氷のように美しく冷たい雰囲気のある男であったが、しかし存外あどけない表情で微笑んでいた。ごくりと呑み込む音が厭に耳に障る。机にグラスを戻すと小皿に触れて、ざらりと甲高い小さな悲鳴が不快だった。
「ええ、みんなに優しいひとなの」
「不満?」
「いいえ、まさか。あたし、あのひとの優しいところが好きになったのよ」
「それならいいじゃないか」
男は呆れたように幽かに首を傾げた。
「だけど、特別扱いはしてほしいの」
「恋人なんだから特別だろう」
「そうです、わかっているの。だけどあのひとは優しいから、あたしの告白を断らなかっただけなんじゃないかって」
たまに思ってしまうんです。と女は恥じるような妬むような声で言った。
「あたしのこと好き? とでも聞いてみなよ、そいつはきっと嘘はつかないだろう」
「聞きました、そうするとウンとかわいく頷くの。だけど好きとは言ってくれないのよ」
「ははは。マ、男ってのは照れ屋だからね」
あなたもですか?
おれもだよ。
ふふふ、と擽るような笑いが漏れた。周りの席の喧騒が嘘のように遠く、まるでここにふたりきりのような錯覚さえ覚えた。店の賑わいそのものの薄橙色の明かりが、煙のように掴みどころのない目の前の男をこの世に浮き上がらせている。
「それで拗ねてひとりで吞みに来たの? 金曜の夜だってのに」
「ほんとうは彼と来る予定だったんです。友達とよく来る店だって前に言ってたから、あたしも連れて行って、ってお願いしたの。でも、彼、今夜も残業になっちゃったから」
「だから寂しそうだったんだ」
「寂しそうでした?」
「おれみたいなのが話しかける程度には」
優しいんですね、と女はからりと笑った。
君の恋人には負けるさ、と男はわざとらしく肩をすくめた。
「でも君の寂しさは、それだけじゃないように見受けられたけれど」
相手は行きずりの男だ、
名前も知らないのに、あたしのこと、なんでもお見通しみたい。女はグラスを空けた。
この間、ようやく、彼と初めて夜を過ごしたんです。
「愛されてるって安心したくて」
あたしが強請ったのよ。ウンと頷いてくれたわ。
「あたしの身体があのひとと溶け合うどころか、抱きしめられることでむしろその輪郭が浮き彫りになってしまったみたいだった。あのひとはどんなときでも優しいんです。それが嬉しくて寂しくて愛おしくて憎らしいの。欲深い女なの、あたし」
「好きなんて感情は、要は執着だ。惚れている、慕っている、焦がれている、なんて耳障りの良い言葉を並べたって。結局自分の欲でしかないんだよ」
でも……そうだね、と息で笑った男は、するりと女に近寄って、「おれに教えてよ」と囁いた。ふっと息を吹きかければ掻き消えてしまうほど小さく、しかし直接脳髄をぐわんぐわんと揺らすようだった。先までは軽やかだった声は蕩けるように重い。近づいた男の首元からシガーの燻りと重い甘さが混ぜ込まれた、まどろむような香りがした。甘美な気配は男の纏う香水だったのか、男本人の魔性だったのか、女には分かりかねた。酔いが回ったように頭がくらくらする。歪んだのは視界か世界か。ずきずきと脈打つ痛みは未知への期待か警鐘か。
「え、っと」
「どんなふうに触られたのか、おれに教えてはくれないかい」
女は自分を見る男の目の奥に、静かに烈しく揺らめく炎を見た。それは恋人から向けられることを願っていたものに似た熱であった。女はそれに戸惑って、胸が高鳴って、熱に浮かされて。
「なんて、ごめんね。冗談だよ」
笑って去ろうとする男の袖を華奢な指が引き留めた。
*
女が身動ぎするたびに粗い布地が引き攣り、さざ波のように広がっていく。疚しさも罪悪感も寄せては返す波に攫われ、背徳的な悦びだけがそこに残り、しかしそれすらも浮かんでは消えていく。渦に呑まれ溺れたように浅い呼吸。藻掻くように震える腿の肉、呻き声、半ばひらいた唇とのたうつ舌の閃き。縋るように伸ばした腕が空を掻いた。……。
恥じらう女に恋人の仕草を問い詰める低い声、痕跡を隅々まで探るように身体を撫ぜる男の冷えた硬い指の腹、柔らかな髪の感触、肌触り、……そういったものは女にとってもはや重要ではなかった。ただ、夜闇の中で濡れたようにひかる硝子の瞳が、橙色の明かりの下よりももっと烈しい炎の片鱗を見せたことが女の心を満たしていた。月のように冴え冴えとした美貌がその薄い唇だけをうっすらと歪めて、ただジッと見つめていることが女を歓喜させた。優越感にも似た高揚が女の穴を埋めたのだった。
シガーとスパイス、それからウッディのドライさと、バニラの芳醇さが深く混ざり、渋さと甘さが複雑に絡んだラストノート。男の中から溢れたように色濃く香る倒錯的なそれが、このままあたしの身体に染み込んでしまえばいいのに。あたしの隙間に這入り込んで、そのまま満たしてくれたなら……。
*
女が目を覚ましたとき、男はすでにいなかった。
酔いが醒め、馬鹿なことをしてしまったと悔やむと同時に最初に脳裏思い浮かべたのは恋人ではなく、名前も連絡先も知らないあの男の顔だった。うつむき、頭を抱えたまま溜息をつくようにゆっくり息を吐きだすと、男の残り香が鼻腔を擽った。ああ、ほんとうになんて馬鹿なことをしたのだろう。あまりに簡単に、単純に、夢のように、男は女の中に這入り込んでしまったのだ。
*
月曜日の午後三時。人のいない給湯室。雨が降っている。すこし寒い。
幽かに痛むこめかみを指先で解しながら女は珈琲を淹れた。廊下を行き交う足音も、鳴る電話のコール音も、人々の騒めきも、扉ひとつ隔てただけで嘘のように遠い。煙った曇り空が広がり、雨音だけが聞こえるここが別世界のようだった。
ノック音に目を向けると、入ってきたのは女の恋人――航であった。ドアが音を立てて閉まる。
「おつかれさま」
「おつかれさまです」
「あれ、もしかして体調悪い?」
「あ、ううん。すこし頭が痛かったの……ほら、低気圧で」
「ああ、なるほど」
無理はしないでね。と言った航はふと首を傾げて鼻を鳴らした。
「どうかしました?」
「いや、なんかいい匂いがして。……。俺も珈琲飲もうかな」
航の広い背中をぼんやり見つめながら、隠れるように女は自分の服の匂いをそうっと嗅いだ。香水の類をつけているわけでもなく、仄かに柔軟剤の匂いがする程度だったが、なにか、そう例えば――女の罪を嗅ぎつけられたように思われて。なんの匂いかしら、と女は口の中で音に出さず転がした。
「あの、先週はごめんね。残業続きで約束破っちゃって」
「いえ、そんな。忙しそうだったもの、気にしてないですよ」
「ありがとうね。あー、それで、やっとで落ち着いたからさ、今週末空いてたら夕飯一緒にどうかな。約束果たさせてよ」
あのお店で?
「空いてます。嬉しいわ」
「そう、よかった」
穏やかに微笑んだ航は、さっきも言ったけど無理しないように、とだけ言って細く湯気の立つカップを持ったまま立ち去った。
……ああどうせなら、あたしに一切興味がないのなら良かったのに! 付き合っているうちに好きになることだってあるでしょ、と懇願したあの日の自分の舌を恨む。あたしを慮る彼の優しさが好ましくて憎らしい。誘ってもらえて嬉しかった。でもそれ以上に。あのお店に行って、もしかしたらまたあの男に会うかもしれないという考えが脳裏を過って、焦りと罪悪感の裏で仄暗い期待が芽生えた浅ましさといったら!
温くなった珈琲をひと口飲み込むと、いつになく苦さが喉に纏わりついて眉を顰める。女は緩く頭を振って、黒い液体を流しに捨てた。
*
週末、ふたりであの店に行った。
からりと戸を開けて、橙色の照明と賑やかな喧騒の中に足を踏み入れる。
すると対面の席に着いた女の方を見ながら、航は驚いた声をあげた。
「偶然だな、お前も来てたんだ」
女は背後を振り返る。
「はは、こっちの台詞だよ。マ、おれは今出るところだけれどね。……こちらは、彼女さん?」
「ああ、そうだよ。前に写真見せたよな」
航は女に、「こいつ、前に言ってた俺とよくこの店に来る友達」と、男を紹介した。氷のように美しく冷たい雰囲気のある男であったが、しかし存外あどけない表情で微笑んでいた。シガーの燻りと重い甘さが混ぜ込まれた、まどろむような香りがした。
女の鼓動は一瞬死んだように動きを止め、それから酷く激しく拍動した。冷え切った指先の震えを隠すように、強く握りしめる――ちょうど祈るときのような形で。何に祈っているのかも分からないまま。
「初めまして」
航の友人の、凪野と言います。
男は目の前で平然と、緻密な硝子細工のように綺麗に笑った。
女はそれを見て、あんなに焦がれていた男が、得体のしれぬ恐ろしいものに見えた。美しいいきものの皮をかぶった怪物だ。硝子の瞳は女の姿を映しているようで、ただ反射しているだけだったのだ。しかしその瞳が航を映すときだけは柔らかく揺らめいたのを、女だけは気づいた。
ああ、あたし。ほんとうに馬鹿なことをした!
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