ジッポに香水を少しだけ。
千田伊織
タバコ
道路脇の水たまりを車輪が
シャッターを下ろしたたばこ屋の前で、灰皿へ静かに灰を落とした。
「うお、
彼が言うのはジッポからほのかに香る香水の事だろう。
「うるせえ」
タバコを口から離して薄く煙を吐くと彼は横に立ち並んだ。
「あー……ライターないや。ソレ、貸してくれません?」
胸ポケットにしまいかけた愛用のオイルライターを指さされ、仕方なく手を差し出した。彼は見慣れない
しかし彼はすぐにタバコを口から離して眉根を寄せた。
「あまっ。……思ったより甘いすね。先輩の趣味っすか」
煙を吐きながら軽くむせている。
「違う。元カノのいたずらだよ」
「へぇ、執着心強い彼女さんすね」
「元、な」
ジッポの中綿に直接振りかけられた香水の香りは根気よく使って消すしかない。タバコを吸うたびに必然的に思い出されるというわけだ。
後輩が再び口から煙を吐き出そうとして失敗した。慣れた手つきでライターをつけると思ったが、実のところは吸い慣れていなかったのか。
よく考えてみれば、煙草は持っていたがライターを持っていなかったのも不自然だ。喫煙者であれば普通逆だろう。
「おい、無理して吸うな。体に悪い」
「ええ? ヤニ中毒の先輩が言うんですか」
「お前、うるさいぞ」
隣を見ると、中身が全く減っていない煙草の箱を持った後輩がこちらを見上げていた。
「先輩にあげますよ。父からもらったんすけど、どうせ吸わないんで」
くい、と差し出されるようにされて、前に向き直った。
「父さんに返してやれ」
「返せません」
「なんでだ。勘当でもされたか」
ははは、と笑うと後輩も前を向いたのが分かった。そして緩く描いていた口角がすっと一文字になる。
「父さんは刑事だったんです」
副流煙が緩い曲線を描いて天に昇っていく。
「この箱は死んだとき胸ポケットに入ってました」
「……」
「お
冗談交じりの乾いた笑い声が聞こえて後輩を見た。
タバコに似つかわしくない
「結局どうもできませんでしたね。……先輩、もらってください」
無理やり手を掴まれて箱を
「これで焼香を上げろ、ってことか」
「ははは。先輩ならやっちゃえそうすね」
かっこいいです。
そういって後輩は雨宿りは何だったのか、雨の中濡れるのもお構いなしに歩いて行った。少しだけ強くなった雨足に彼の姿はすぐに見えなくなった。
先まで吸っていた煙草の火を消すために灰皿に先を押し付ける。
匂いが薄くなった香水の香りを感じながら見たことのない銘柄のタバコに火をつける。
故人の味はどうしてこうも味わい深いのか。
香水の香りをも感じながら止む気配のない雨を眺めた。
「すんません……俺」
「そういうな。おかげで犯人は捕まっただろう?」
にっこりと笑って見せる。
前にいるであろう
「まさかタバコの匂いで探していたなんて……」
「そう気負うな」
ナイフでつぶされた両目はもう機能していない。奴は振り向きざまに顔へナイフを切りつけてくれた。運が悪かった。
口と鼻さえ生きていればタバコは吸える。そう言えば、後輩は奥歯を食いしばったのが分かった。
犯人はあの変わったタバコの匂いのする人間を探し続けていたらしい。匂いだけを頼りに片っ端から手を掛けていた。どうやら誰かの
父親と同じようにこいつが刺されなかっただけマシだ。若いから未来もある。
「なあ、悪いんだが、俺のジッポに差された香水がどこのやつか調べてくれないか」
やけに敏感になった鼻はどうしてもあの香りを探していた。
「未練があるのは先輩も……すか」
「そうだよ。あいつ、痕跡を残すだけ残して死んだからな」
後輩の息をのむ音に笑いそうになった。
「わかりました」
「頼んだ」
しばらく病院生活の間は愛用のジッポとはお別れだ。禁煙にせいぜい役立ってくれ。
心の中で呟いて、手探りでそばの引き出しの中にあるはずのジッポを取り出し、手渡した。
「お前に貸してやるよ。タバコはもらったけどな」
後輩は小さな声で「はい」とつぶやいて
前を見やる。
きっと自分の目線は一切彼と合ってはいなかったのだろう。
ゆっくりと背中を倒してベッドに体を預けた。
今日も雨が、降っていた。
ジッポに香水を少しだけ。 千田伊織 @seit0kutak0
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