魔法のにんじんカップケーキ

魔法のにんじんカップケーキ

 工業が盛んなガーメニー王国。その中でもリートベルク伯爵領は珍しく酪農が盛んな土地である。

 そんなリートベルク伯爵家では、現在少し困ったことが起こっていた。


 ある日の夕食時、リートベルク伯爵城のダイニングにて。

 今年七歳になる、リートベルク伯爵家末子エリーゼ・ユリアーナ・フォン・リートベルクは、周囲を見渡してバレないようこっそりと皿の隅に寄せる。

「あら、エリーゼ。駄目じゃない。今日もにんじんを残してしまったのね」

 しかし、それはエリーゼの母でありリートベルク伯爵夫人のユリアーナに見つかってしまった。

「だって……」

 エリーゼはシュンと肩を落とす。


 エリーゼの真っ直ぐ伸びたブロンドの髪がハラリと顔にかかったので、彼女は耳にかき上げた。


「エリーゼ、にんじんには貴女にとって必要な栄養素が含まれているのよ。それに、この料理はリートベルク家の料理人達がわたくし達の健康を考えて作ってくれたのよ」

「そうだよ、エリーゼ。それだけではない。この料理は料理人だけでなく、食材を丹精込めて作った農家の人々も関わっている。エリーゼは彼らの思いを無駄にするというのかい?」

 ユリアーナと共に、エリーゼの父でありリートベルク伯爵家当主ディートリヒも真剣にエリーゼを諭す。


 誰も味方になってくれないことが分かり、エリーゼはそのアンバーの目に涙を溜める。

「だってにんじん嫌いなんだもの!」

 エリーゼはそう叫び、ダイニングから逃げ出してしまった。

「待ちなさいエリーゼ、食事中よ」

 ユリアーナはエリーゼを止めようと声をかけるが、エリーゼの足は止まらない。

「旦那様、奥様、エリーゼお嬢様のことは私にお任せください。皆様はゆっくり食事をなさってください」

 そう言い、使用人達はエリーゼを追いかけた。

 そんな中、一人の若いメイドであるハンナは考えていた。

(にんじん嫌いなエリーゼお嬢様の為に私が出来ることは……)






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






 その日の夜遅く。

 エリーゼはダイニングから逃げ出した後、リートベルク伯爵城の自室にこもっていた。

(どうしてにんじんを食べないといけないの? わたくしはにんじんが嫌いなのに……)

 涙を流しながらベッドに潜るエリーゼ。

 しかし、夕食を残したせいでぐぅっとお腹が鳴る。

(……お腹が空いたわ)

 その時、部屋の扉がノックされた。

「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか?」

 扉の外から優しげな女性の声が聞こえ、エリーゼは「良いわよ」と答えた。


 入って来たのは柔らかな癖のある黒褐色の髪を後ろで一つに結った、ブラウンの目の若いメイド。ハンナである。


「ハンナ、どうかしたの?」

 エリーゼは不思議そうにきょとんとしている。

「はい。エリーゼお嬢様はきっとお腹を空かせているだろうと思いまして」

 ハンナはふふっと笑い。お皿に乗ったカップケーキをエリーゼに差し出した。

 カップケーキは全部で二個ある。

「まあ……! わたくしが食べても良いの?」

 カップケーキを前に、エリーゼはアンバーの目をキラキラと輝かせた。

「ええ、お召し上がりください」

 ハンナの言葉を聞いたエリーゼは、早速カップケーキにかぶりつく。


 淑女として褒められた行為ではないが、エリーゼはまだ七歳。これから淑女らしくなっていけば良いのだ。


 エリーゼの口の中に、バターの香りと優しい甘さが広がった。

「これ……美味しいわ! もう一個食べても良いかしら?」

「ええ、もちろんですよ」

 ハンナが頷くと、カップケーキを一個食べ終えたばかりのエリーゼはもう一個カップケーキにかぶりつく。見ていて気持ち良いくらいの食べっぷりだ。夕食時に逃げ出したせいで、かなり空腹だったのだ。

 エリーゼは幸せそうな表情をしている。

「エリーゼお嬢様、お口に食べかすが付着しております」

 ハンナは優しげにブラウンの目を細め、エリーゼの口元を拭いた。

「ありがとう、ハンナ。このカップケーキ、本当にとても美味しくて何個でも食べられるわね」

 エリーゼは満面の笑みである。

「左様でございますか。でしたら、作った甲斐がありました」

「まあ、ハンナが作ったのね」

「ええ。……エリーゼお嬢様、実はですね、このカップケーキ、にんじんが入っているのでございますよ」

「にんじんが……!?」


 エリーゼはアンバーの目を零れ落ちそうな程に大きく見開いた。

 エリーゼが嫌いでたまらないにんじんが、この美味しいカップケーキに入っている事実に驚愕している。


「はい。このカップケーキには、すりおろしたにんじんが入っているのですよ。ですが、お嬢様はちゃんと食べることが出来ましたね」

 ハンナは幼子を見守るかのような表情である。

「……本当ににんじんが入っているの?」

「ええ、左様でございます」

「でもこのカップケーキからは、にんじんの変な甘さはしなかったわ」

 エリーゼはハンナと食べかけのカップケーキを交互に見ていた。

「やはりエリーゼお嬢様はにんじん特有の癖のある甘さが苦手だったのでございますね」

「ええ。……お父様とお母様には理解してもらえないのだけれど」

 エリーゼは俯く。


 その時、ハンナの左手に赤い火傷の跡があることに気付いたエリーゼ。


「ハンナ、貴女火傷をしていたの?」

 エリーゼのアンバーの目は、心配そうにハンナの左手を見ていた。

「ああ、これは……カップケーキを作るときに少しドジをしてしまいまして」

 ハンナは苦笑した。

 その時、エリーゼは両親の言葉を思い出す。


『エリーゼ、にんじんには貴女にとって必要な栄養素が含まれているのよ。それに、この料理はリートベルク家の料理人達がわたくし達の健康を考えて作ってくれたのよ』

『そうだよ、エリーゼ。それだけではない。この料理は料理人だけでなく、食材を丹精込めて作った農家の人々も関わっている。エリーゼは彼らの思いを無駄にするというのかい?』


「じゃあ、リートベルク伯爵家の料理人達も、わたくし達が食べる料理を作るときに火傷をしたり、怪我をしたりしているの?」

 どこか弱々しい声のエリーゼ。

「そういうことも、あるかもしれませんね」

「じゃあ、にんじんを作る農家の人も?」

「ええ、あるでしょうね」

「そう……」

 エリーゼは再び俯いた。

「お嬢様、どうかなさいましたか?」

 心配そうにエリーゼを覗き込むハンナ。

「夕食の時、お父様とお母様が言っていた言葉の意味が分ったわ」

 エリーゼのアンバーの目には涙が溜まっている。

「料理人も農家の人々も一生懸命だったのに、わたくしは……酷いことをしてしまいました。本当に……ごめんなさい……ごめんなさい」

 ついにエリーゼはわんわん泣きじゃくり始めた。

 アンバーの目からは大粒の涙が零れ落ち、顔をくしゃくしゃにして鼻水まで垂らしている。

 そんなエリーゼをハンナは優しく抱きしめる。

「エリーゼお嬢様は、真っ直ぐでお優しい方ですね」


 しばらくすると、エリーゼはようやく泣き止むことが出来た。

 その表情はどこかすっきりとしていて、先程より大人びている。

「ハンナ、貴女が作ったにんじんカップケーキはまるで魔法のようだわ。本当に美味しかった。ありがとう」

「もったいないお言葉でございます、エリーゼお嬢様」

わたくし、食事を残してしまったことや、お行儀が悪かったことを、明日リートベルク伯爵家の料理人達とお父様とお母様に謝るわ。にんじんも……頑張って残さずに食べる。ハンナが作ったにんじんカップケーキを食べることが出来たのだから……きっと食べられるはずよ」

「ご立派でございます」

 ハンナは嬉しそうにブラウンの目を細めた。その表情は柔らかく優しげである。

「エリーゼお嬢様、今日はもう夜遅いです。そろそろお休みになられてはいかがでしょうか?」

「ええ、そうするわ。ハンナ、本当にありがとう」

 エリーゼはまだ幼さが残るが、淑女の笑みだった。

「少しでもお嬢様の為になったのなら、光栄でございます。それではお休みなさいませ」

 ハンナは空になった皿を手にしてエリーゼの部屋を出るのであった。


 翌日、エリーゼは料理人や両親に昨晩のことをしっかりと謝罪し、にんじんも食べるようになったのである。






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 五年の歳月が経過した。

「ハンナ、君の働きにはとても助かっていたよ」

「もったいないお言葉、光栄でございます」

 ハンナはリートベルク伯爵家当主であるディートリヒから手を差し出され、握手をする。

「ハンナ、貴女には残って欲しかったわ」

「奥様、そう仰っていただけて嬉しく存じます」

 リートベルク伯爵夫人ユリアーナから差し出された手を握るハンナ。


 ハンナは結婚に伴い、リートベルク伯爵家を辞めることになった。

 夫の拠点がリートベルク城付近ならば、結婚後も仕事を続けることは可能だった。しかし、ハンナの夫の拠点はリートベルク伯爵領から遥かに離れた場所である。よってハンナは仕事を続けることが難しくなったのだ。


 リートベルク伯爵夫妻や同僚から餞別をもらい、荷物をまとめたハンナ。

 長年勤めたリートベルク伯爵城を振り返る。

(色々あったわね)

 ブラウンの目は懐かしそうであった。

「ハンナ」

 不意に、誰かから呼び止められた。

 驚き、声の方を向くハンナ。


 真っ直ぐ伸びたブロンドの髪に、アンバーの目の少女――エリーゼである。

 若い頃は『琥珀の貴公子』と呼ばれていた父ディートリヒの美貌、母ユリアーナも美形であり、当然ながらエリーゼも精巧な人形のような整った容貌である。

 そしてディートリヒから引き継いだ鼻から頬周りの薄いそばかすは彼女のチャームポイントだ。


「エリーゼお嬢様」

 もう十二歳になるエリーゼは、すっかり淑女の顔になっており、ハンナの胸の中に感慨深いものが込み上げてくる。

「ハンナが辞めてしまうとなると、寂しくなるわね」

 エリーゼの表情には言葉通り、寂しさが含まれていた。

「ねえ、ハンナ、覚えていて? 貴女がわたくしににんじんカップケーキを作ってくれた時のこと」

「ええ、昨日のことのように覚えておりますよ。お嬢様は淑女らしくなりましたが、今も真っ直ぐでお優しいところはお変わりありませんね」

 ハンナは胸に手を当て、真っ直ぐエリーゼを見つめている。

「ありがとう、ハンナ。わたくしは貴女が作ったあの魔法のにんじんカップケーキのお陰で変われたのよ。にんじんも、今ではすっかり食べられるわ」

 エリーゼは自信満々な様子だ。

 その様子を見たハンナは嬉しくなる。

「それでね、ハンナ。この先、貴女に子供が生まれて、その子がもしにんじん嫌いだったのなら、その子ににんじんカップケーキを作ってあげて。あのカップケーキ、本当に美味しかったから、その子のにんじん嫌いもきっと直るはずよ」

 少し悪戯っぽい表情のエリーゼ。

 ハンナは思わず笑ってしまう。

「ええ、そうします」

 するとエリーゼはハンナに抱き付いた。

 淑女としては少しマナー違反な行為である。

「ハンナ、貴女の幸せを祈っているわ」

 まだあどけなさが残るが、品のある優しい声。

 ハンナはエリーゼを優しく抱き返す。


 あの幼かった少女がこんなにも大きくなっていた。

 ハンナは胸がいっぱいになった。

 エリーゼは四年後に成人デビュタントを迎える。

 きっと更に立派な淑女になっているだろうとハンナは感じていた。

「ありがとうございます。私も、エリーゼお嬢様の幸せを祈っておりますよ」

 ハンナは優しく微笑むのであった。

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