第9話 瞬きは速いよどこまでも──

 およそ、まばたきの速さ、ってやつだと思う。気づくと、このデヴァ・メガーメとかいう憲兵小僧が、どこに隠していたか小刀の抜き身を、わたしの咽喉もとに押しあてていた。チリッと針の刺す痛さだ。


「このまま頸動脈を切断すれば、たちまち視界はぼやけ、足からは力が抜ける。廊下のガーランドが異変を察知し飛び込んできても、彼のできることは、壁に飛び散った、貴殿の鮮血を見上げることぐらいだ。さてどうしてほしいですかな秘録筆記者殿」

「武力行使に出たか。んなるほど……だが、考えてみたまえ。わたしが取調べを記録しなくとも、この脅迫されたという事実は記録できるのだぞ。大公爵にもそれは筒抜けになる。それとも、秘録筆記者の任をおまえたちが剥奪するとな。ふへへへ出来るものか」

「そのとき、貴公はこの世にはおりませんよ」

 いやはやとんでもない事態に陥ってしまったぞ。太后妃の取調べは、たしかに、鬼が出るか蛇が出るかだろう。生まれて間もない我が子の顔に、刃物で斬りつけるとは、尋常な精神状態ではない。まして産後の情緒不安定などという、よくある説明ではおぼつかない。悲鳴を上げたくなるような真実が、太后妃の奥底には隠されているのはたしかだ。ああ、その真実とはなんなのだ。知りたい! 尻が痛い!


「なあなあ憲兵のデバちゃんよ、こうしないか。記録はいっさいしないし、他言もしない。秘録筆記者の任も返上し、みんなこの胸の中に押し込めて封緘する。だがわたしは太后の取調べに同席させてもらうってのは、どうだ」

「我が憲兵隊をなめるな」

 蒼く冷たい怒気が一閃した。憲兵の右肘がかすかに動き、わたしの襟首に生暖かいものが流れた。サクッと小刀が皮下組織に喰い込んだのだ。

「時間と命は等価だ。貴殿がここで死体となった理由など、我々は山ほどつくれるんだ。さっさと決めてくれ。頸動脈から噴出する鮮血は、風音を響かせてくれるそうだぞ」

「わかった! わかったからその剣はしまってくれ」

御見逸おみそれしました。さすがに、ヤ=ジウマ殿は伊達に長生きはしてないようですな。では、さっそく──」憲兵の小僧はそう言うと、扉の向こうへ、「ガーランド殿、話しは終わった。入ってくれてもかまわぬぞ」

 とたんに、がたがたと焦るように扉が開き、ガーランドの阿呆が、転げるようにして室内に入ってきた。

 わたしが窓辺に固まったまま立ちつくしているのを見ると、近よりながら憲兵のデヴァ・メガーメを睥睨へいげいした。憲兵は反転して扉に進みながら、

「では自分はこれで退散するが、秘録筆記者殿から警護役のガーランド殿に一言あるそうだ。なっ、ヤ=ジウマ殿」

 憲兵小僧がどす黒くニタニタと笑んだ。わたしの口から、秘録筆記者の辞退の申し出を催促しているのだ。はい、はい、仰せの通りに致しましょうぞ。わたしはかなり芝居がかった調子でガーランドに言った。

「おお、済まないが、わたしはこの任から降りることにしたぞ。秘録筆記者の任を返上するのだ」

「ど、どういうことですか、ヤ=ジウマ殿。ここにきて、その無責任さは合点がゆきませぬぞ」

「貴殿にいちいち合点してもらわなくとも、わたしは生きていけるわい。ではアシカラズ」

 憲兵小僧は扉のすぐ外で、ニヤニヤニタニタと笑い、垂れ下がっていくまなじりをもっと下げて、そのうち顔面をドロドロに溶解させて、わたしとガーランドを眺めておった。

「ヤ=ジウマ殿それは血でありませんか」ガーランドがようやく気づいて、わたしの襟首を指さした。「まさかデヴァ・メガーメが蛮行に及んだのでは!」

 憲兵小僧はそれを聞いて、もうたまらんとばかり、顔面をぐちゃゅぐちゅにして笑い声をあげだした。カッとガーランドの何かが切れる音がした。右手が仔馬の鞭の柄頭つかがしらに飛ぶ。

 

 その鞭には、仕込みがあることぐらいわたしにはわかっておる。抜刀しつつ、振り向きざまに二歩踏み込んで、近衛兵が十八番とする突牙剣とつがけんを撃てば、一撃必殺でデヴァはくずおれ、笑い声だけが虚しく廊下にのこることだろう。


 だが、わたしはガーランドの右手をポンッと叩き、

「ああ、この血か。これはな、さっき垂らした鼻血だわな」わたしは冷静に言った。「だがもう治っておるのでな、心配はいらんな」

 ガーランドはそれが事実かどうか、わたしの首筋だの、後頭部だの調べていたが、どこにも刀傷どころか──驚くなよ──引っかき傷も何もないのだ。ガーランドはあらためてデヴァ・メガーメをめつけた。するとな、ぴたっと憲兵小僧の笑い声が途絶えた。眉根がぎゅるるると盛り上がったんじゃな。

「そう、もう治っているんだ、小僧よ」ケケッと今度はわたしが嗤ってやった。鼻血なんぞはな」

 ケケケケケ。笑いながら首筋をデヴァ・メガーメに見せつけてやった。そう、皺こそあれど傷はなし。デヴァ・メガーメの双眸は、ぐいぐいと見開いて、わたしの皺だらけの首に切創を探すが、ははは、最初からあるはずがない。すべては幻惑の術よ。ざまあみさらせ。

 わたしは廊下に飛び出ると、立ちすくむ憲兵の小僧の肩をぽんぽんと叩き、


「デヴちゃんよ。まだわからんか。我が大脳大空間の住人どもが魔術演舞をおぬしに魅せておったことをよ。素早い並列時間転位は、我がガセネタマジネタ家に伝わる古術じゃがね。はい、おつかれさん」


 憲兵小僧はハナタレ時代にもどったように、わなわなと両眼を見開き、幾度も幾度もわたしの首筋に、自分がつけたはずの刀傷を探していた。

 

 わけがわからない! そういう面だわな。

 

 そういうものだよ小僧君! わけがわからんのだよ。我が大脳大空間が真価を発揮すれば、も呆気にとられてしまうような現象が起こるのだよ。

 今度はガーランドに向かって、わたしは意気揚々と言った。

「ガーランドさんよ、大公爵のところへ行くぞ。御取り次ぎを頼む。デーヴァ・メガーメとの約束は約束だ。わたしは嘘は言わん。わけを話して秘録筆記者を解任してもらう……だが、その代わりに、真秘録筆記者を追加認可してもらおうぞ。ついでに、大脳大空間についての提案説明を滔滔とうとうとお聞かせしましょうぞ。そのまたついでに朝餉をゴチしてもらうのだ、年寄りにひもじさは毒じゃての」

 わたしたちが廊下の角を曲がっても、デーヴァ・メガーメの情けないつぶやき声は止まず響いている。

「あははははは。なんだ、その真秘録筆記者ってのは! そもそも秘録筆記って! なんなのだ」

   

      ※ ※

 

 その後、宮廷内を巡る大小の廻廊を幾度も曲がり、上がり、下がり、行ったり来たりすると、まるで鮭の遡上のごとき人身の群れに出くわしたな。ガーランド曰く、黄金廊下と呼ぶそうな。飛び込むのも気後れしそうな群民の激流じゃが、目をつぶってわたしは流入したぞ。

 ここは宮廷内の官吏や傭人たちが、立身出世のため、与えられた職場に向かうべく、しのぎを削り合っている大廊下である。行き先には黄金の匂いがするとかで、あっちでガツ、こっちでガツツツと、肩や腰を弾かせて、いやでも欲望はたぎっていくよな。よくこれで喧嘩にならないなと感心してしまうほどじゃが、本人たちはいたって冷静でつまらぬ顔してくさる。人いきれのむんむんする屠殺場に近いな。

「ヤ=ジウマ殿、いったいどこへ行くつもりなのですか?」

 ガーランドがつっかかるように訊いてきた。そのとき、どんっと背中を誰かに小突かれて前のめりになる。なんとか転倒を耐えて、くそ野郎の姿を探したが、むろん、もう小突いた奴がどれだか判別はつかない。

「大公爵のところだが、そのまえに近衛兵室に行きたい」

「何の用で?」

 今度は真横から、のしかかってくる奴がいて、なんとか躱しながら、わたしは大声でガーランドに言った。

「さっきの、憲兵小僧な、甘っちょろい憲兵な、あいつな、わたしを殺そうとしたのだな」

「なに! その襟に付いてる血は、やはり──」

 言いつつ、ガーランドはひらりと身を翻す。すると斜め横から無意味に突進してきた中年女が、そこに出来た間隙をツバメのごとく駆け抜けた。なるほどこうやって躱すのか、うまいものだ、が、すぐ右から老爺に邪魔だとばかり向こうずねを蹴られ、おまけに若輩者じゃくはいものに踵を蹴られた。だが、わたしはニヤニヤしながら、首筋の疵痕きずあとを指さして、

「──これはもうよいのだがな、問題は太后様じゃよ。彼奴らは、わたしに取調室に入るなと恐喝し、秘録筆記者の任も返上しろといっておった。その理由を貴公はおわかりか?」

「なんと……!」

 ガーランドは立ち止まった。するとすぐさま、二人の官吏に、つぎつぎと肩を小突かれたが、奴は微動だにしない。沈思黙考というやつだな。考えているあいだ、次々と若い傭人たちに背中を押され、肘打ちされ、腰を蹴られていたが、いっかな答えは浮かばない。あきらめてわたしの後を追いかけてきて、

「ヤ=ジウマ殿はなんと心得る。お答えをお聞かせ願いたい」

「あっ? 答えとな。そんなもん、老頭児ろーとるにわかれば苦労はないわ。太后妃に訊いてみるがよろしかろう」

「はあ……カマをかけたのですね。最初からそう言ってほしいものです」

「カマはかけるものじゃない、掘るものだ。最初からそう言ってなかったか」

「いや、切るものでしょ」 

 

  ※ ※  


 歩いていて気づいた。どうも宮廷は多角形状を成しているらしい。この間抜けガーランドが案内してくれなかったので、大公宮殿の外見がどうなっているのか、今までまったく知らなかったが、正八角形をした総二階建てに間違いはない。それぞれの個室、廊下、窓に扉、すべてに名が付されているようだ。面倒くさいので省略するが、八つの角部の一階には、大廻廊をともなう執務部区域が配置され、二階部分には、小廻廊で連結された居住区域が乗っかっている。だから大廻廊のつぎには小廻廊を歩き、ふたたび大廻廊に出ると、官吏や傭人の群れに出くわし、そこでまた小廻廊に踏み入るという、実にややこしくも、のたくったミミズの穴の案配だ。

 しかし、このどの部分に近衛兵室があり、どの廻廊が大公爵の執務室につながっているのか、これがなかなか見当がつかない。ガーランドを全面的に信用してよいものか不安にはなるが、自分ひとりで宮廷内を逃げるとなると、同じ廻廊を三度は走るだろう。いや、そもそも同じ廻廊かどうかの判断も、余所者には難しいので、ひたすら堂々巡りってことになるだろうな。

 

 そんな不安に首まで浸かって歩いていると、前行くガーランドが廻廊の連結部分で立ち止まった。ここからまた小廻廊にはいって、どこぞの居住区を歩くのだな。徘徊老人の無門無限の世界を垣間見るようだ。と、そこでわたしは気づいたな。そこからの壁面の部材が違っているのだな。今まではそっけないが堅牢な板壁だったが、どう見てもそれは石板だ。青味おびた御影石が濡れ光り、わたしとガーランドを映しとっておるのだ。

 その映された、わたしの姿が、なんやら老いぼれの猫のようになってな、我ながら哀れに思えたな。土嚢袋どのうぶくろでも背負わされたように顎を突き出し、乱れた髪と襟首の乾いた血が、これまた悲哀な独身者チョンガーといった風情がよく出ているのだ。そしてガーランドがまた凄い。こいつは何を喰っているのか、廃墟で見かける陶器の破片をつなぎ合わせたような、廃物利用の最たるものだ。傑作といってもよいだろう。その魔除けじみた顔でガーランドが言った。

「ヤ=ジウマ殿、その扉が近衛兵室の鎧隔壁鉄門です。非常事態が発生した折りには、厚さ二握りの鎧壁が、次々と降りてきて門戸を塞ぎ尊貴族家をお護りします」

 

 はっ! だからなんだ。

 

 じれったい説明どおり、邸内の廻廊には不似合いな、じつに厳めしい鉄門扉がそこにはあった。両開きで、そのうえ天井を突き抜ける高さだ。鎧隔壁というのだから、もともとは屋外にあったものであろう。合戦で受けた刃斬撃だの、破城槌による大きな凹みだの、実に様々な形状をした瘡痕と破毀と腐蝕が鉄柱を覆い尽くしているな。ややこしい重篤の皮膚病患者を看ているようで痛々しい限りだ。蓚酸しゅうさんのような臭いがするが、地下層があるのだろう、えぐい記憶も湧き出てきそうだな。

「お気づきになられたかな。これが、ただの鎧隔壁ではないと」

 またもやガーランドの回りくどい講説がはじまりそうになったので、わたしは流してしまおうととぼけて言った。

「──ということは、太后妃の寝室もこの奥にあるということであろう? 一昨夜、訪ねたときはもっと近かったように感じたがなぁ」

「それはそうだがナ」ガーランドは気色張って続けた。「この壁自体には、別の真の姿が秘められておるのだ。よいか、聞け! その重金属の建造物が、さも溶解したように痘痕あばたになっておるのが認められよう。そう、そのとおり。過去に、この鎧隔壁は溶岩のごとくでろでろに溶けたのだ。ありえんことだろ? 常識をないがしろにしておるだろう。それもたった数名の鬼神たちの手によってだぞ。そう。そう。そうなのだ。これこそが真性斎奇力者の実力なのですよ」

「それはあるていど予想したが、貴殿がその目で見たわけではないでしょう」

「それはそうですが。ともかくこのあたりなぞ……」ガーランドは葡萄の房のように爛れた部分を撫でて、こんな力があたりまえのように撃ち交わされたとは、とても現行の兵力なぞ赤子以下の微力では……」

「微力なのはわかっておるが、この特別な廊下は何所と何所とをつないでおるのかの」

「はあ。宮廷からの遁逃用とんちょうようともなっておりますれば、旧外地に出られるはずですが、むろんのこと出口は完全閉鎖されて安全は保たれております」

「ふんっ。ということは、その開閉については陸軍の管轄ということだゃな」

「近衛兵も無関係ではありませんが」

「あったりまえであろう。いずれにしても容易くはないな」

「何が……」ガーランドは、ガラス玉のような瞳をますます光らせ、異物でも見るようにわたしを見つめた。「まさか……太后妃を……」

「それ以上言葉にしたら、その目玉にひびをいれてやるからな」

「でも、無茶でしょう!」

 わたしは、血相をかえて、詰め寄ってくるガーランドの足を、ゴキブリのように踏みつけ、「憲兵隊の彼奴が、太后妃を取り調べている最中に、最悪、どんな行為をするか想像してみなさい。彼奴の頭の中には、尊貴族家に対する畏敬の念も尊崇の心もありはしないのですぞ」

 ガーランドはしゃがんで、踏まれた足をさすってこちらを睨む。

 わたしもそこでしゃがんで、襟首で乾いている自分の血を指さした。

 これっこれ。

「それはわかります。でもキュマイソン室長はどうするつもりですか。彼は──」

「話せば、わかる」

「でも誰が……」

 むろん、説得するのは、隣国から招致された貴賓ではありえんだろう。

 わたしはガーランドをピタリと指さした。

「貴公が太后妃を思うのであれば、かならずや通じるものぞ」

 わたしはガーランドを立たせ、肩を後ろから押しやって、その頑丈そうな鉄の扉に向かわせた。

 

 一部に青銅のレリーフが施された隔壁鉄門には、通用扉とでもいうのか、人の背丈ほどの潜り戸がある。その上部には覗き小窓があり、実は最前から、門番の冷徹な目ん玉がこちらを監視しているのだった。

「門番! 警護役のガーランド廷臣第六位、元陸軍一級士官だ、ここを開けてもらいたい」

 得意満面というよりガキみたいな笑顔でガーランドは呼ばわった。だが、意に反して、門番の反応は冷たい。

「……御用は何か」

 拍子抜けして、「おいおい、どうしたんです。わたしです、ガーランドですよ、なんでまた締め出しって?」

「上層部からの通達なんだ。乙段階警護体勢がここだけに敷かれたんだ」

「太后が入獄しているからか。仕方ないな。見てのとおり、大公爵の密命にてヤ=ジウマ殿をお連れした。近衛室長と面談したきことあり、早急にお取り次ぎを願いたい」

「はあ、残念ですが、さきほど室長は、憲兵捜査課の来訪を受けて席を外しております」

「それを先に言えよ。では……おっふぉん、ヤ=ジウマ殿も忙しい身なれば、中にてご帰着をお待ちしたいが」

 おそらくいつもならば、馴染みのガーランドなぞ顔パスの門番であろうが、やはり太后がここに幽閉されているとなると、ただごとではないようだ。ここはほぞを固めてあたらねばならぬな。

 門番が、ごそごそと中で手間取っている間、後ろをひっきりなしに流れる人の川に、こっちを注視して立ち止まる者がいた。ただの暇人か、おせっかい焼きだろうと思っていたが、

「 ではこちらへ。入室を許可する」

 門番の声がして、鉄門の通用扉がゆっくりと開くと、さきの怪しい人物が、人波から離れ、するるぅ──とわたしの背後に食いついた。白っぽい服装は見覚えがある。おまえは誰ぞと振りむくと、ぷんと鼻腔をくすぐる甘い匂いだ、はては女官かと思ったとき、

「ご面倒をかけるつもりはありませぬが、どうぞ随伴者として御同行お許しください」

 

 あのヲ・モリーであった。

 

 専医団の一員であり、姫君様の乳母であり、そのうえ太后の異常性を看破した斎奇力の疼く者であり、いちいち出しゃばってきては大きな面する者であり、かと思うと見事な肉体と蠱惑的な面相をさりげなく、おしみなく、てきとうに見せつける者であり……わたしは気づくと、ヲ・モリーの手を握りしめて、鉄門の中へと踏み入っていた。

「おっ、ヲ・モリー殿ではありませんか」

 わたしは、今気づいたふりして、ガーランドと、門番と、いっしょに彼女の名前を呼んだ。一同、みな脂下やにさがったスケベエ面していたが、当人のヲ・モリーは完全無欠の無視、廊下の奥の奥の奥を睨みすえているばかりだ。一瞬、なんとも情けなーい風が吹いたが、ともかくわたしたちは近衛兵室を区切る、薄暗い廊下を進んだ。

 

 乙段階警護体勢と、ものものしい命令が下っているにしては、なんだか手薄の感がした。門番も後をついてくる様子はない。これは意外とうまくいくかもしれない。

 近衛兵室は兵員五十名の小隊が三隊で編成された、総員百五十名の一個中隊である。最高司令官があのマントヒヒ閣下だ。各小隊の詰所が区分通りに並び、完全武装の番兵が塑像のように突っ立っていた。礼拝堂の守護神を思わせるが、新兵なのは、きょときょとと忙しく動く目でわかる。ガーランドが敬礼すると、ご苦労様ですと声を返す。

 この突き当たりにある、昼間っから数十もの角灯を派手に点けて威厳を見せているのが近衛兵宮廷事務所だろう。昼間だというのに、馬鹿みたいに鯨油を焼いて煤と白煙をあげている。事務所というよりは、居酒屋の体だな。日頃は室長キュマイソンやマントヒヒがうろついているのだろうが、こんなときだ、不在であってほしい。ガーランドの説明では、太后の幽閉された独居房は、その右手にある階段を降りた地下層にあるということだった。

「いつもの様子じゃないわね」ようやく視線をガーランドとわたしにむけて、ヲ・モリーが言った。「わたしはあそこで別れて下に行きます。不審がらずに、お二人はそのまま事務所へはいってください」

「ヲ・モリー殿はどうするつもりで……」わたしは大きなお世話で訊いてみた。

「専医団の指示で姫君様の様態を太后妃へお知らせするのです」

「といっても……」

 ガーランドが何か言いかけたが、ふと口をつぐんで耳を澄ました。詰所の中でひしめきあう近衛兵たちの空咳や、軍服のごわごわした衣擦きぬずれや、銃剣の重々しい金属音が、圧迫感をともない廊下に溢れてくるのだ。

 わたしたちは詰所の廊下をひっそりと抜けた。今は礼拝堂じみて深閑としているが、指揮官の号令がかかれば、蜂の巣を突いたように大騒ぎになるはずだ。ぬきあしさしあしで、さて事務所に着いたが、わたしはヲ・モリーのお尻から離れずに、廊下を右に折れた。むろん彼女は怪訝そうに振り向く。以前、わたしが彼女の胸の凸部おっぱいを触ったからであろう、今度は左手で臀部を隠しておったわい。


「ここでわたしは下に行きます。ヤ=ジウマ殿たちはキュマイソン室長にお話がおありなのでは?」

「ない。あるはずがない」

 わたしが言下に否定すると、ヲ・モリーのオレンジ色に照り光る眼球が巨大化した。ゆで卵のようだ。

「ではどのような用件があってここへ参ったので?」

「実は、老頭児は──そこにガーランドが首を突っ込んできた。話しを横取りした。「ああのですね、ヤ=ジウマ殿は、もともと秘録筆記者の特権で、太后のお取り調べも立ち会えるのですが、憲兵捜査官が力づくでそれを阻んだのです」

「そんな……太后妃が密室で取調べなんてありえるんですか? 大公爵は承諾していらっしゃるのですか」

「お忘れですか? 太后妃は隣国の平民出身の血筋を受継いでおります。ですが、ご自身が平民であろうと、ご出産なされた姫君は尊貴族家の嫡子。姫君に手をかけたとなれば、まずは尊貴族家の監護役の内務省が事件捜査にあたります」

「そんな馬鹿な!」

「静かになされよ女官殿」

 そこでわたしは、ヲ・モリーを抜いて先に階段へと向かった。ここで、ごちゃごちゃやっている猶予なぞないのだ。キュマイソンたちが、おそらく憲兵捜査官たちも引き連れてくるであろう、この事務所に、我々はとどまっておられぬのだ。

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封緘宗祀 能生 織成 @tomemono

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