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「先輩は優しすぎるから」と杏奈が言う。「きっと自分の心に最後まで嘘はつけないんでしょうね」
茶色に髪を染めた杏奈ならば、もう僕と付き合ったあとだから、「先輩」なんて呼ぶはずない。これは夢だと僕は判じた。籐夜と寝て夢を見ている。眼を開けばすぐに現実が落ちてくる。杏奈は眠り姫。そして僕の隣にはいけ好かない後輩。
でも――。
「いいんですよ」
杏奈が音も匂いもなく僕の身体をつつむ。夢には柔らかな感触すらなかった。
けれど僕は杏奈に抱きしめられている。
「いいんですよ。貴方が私のすべてを負わなくてもいいんですよ」
僕は杏奈、と呼ぶ。呼ぼうとする。けれど声にならない。喉を絞められたように引きつった声しか出ない。
「私は、貴方を愛していましたよ。満足です」
これは僕の夢でしかない。
願望でしかない。エゴだ。
「だから、貴方は幸せになっていいんですよ、先輩」
エゴだ。
都合の良い夢だ。杏奈がこんなに都合のいいことを言うはずが無いんだ。いつも僕を困らせて、その深刻に困った顔を好きだと言った君が。よりにもよって、そんなことを言うはずが――。
ああ、杏奈。ならこれは僕の欲望なのか。欲望なんだろうな。
僕は言葉にならない言葉を紡ぐ。
杏奈。――ごめん。
夢から覚めると、広い背中がベッドサイドのテーブルで何かを成そうとしている。握られたボールペンは目に見えてブルブル震えていた。白い紙はぐしゃぐしゃに皺が寄っていた。「あの紙」だとすぐに分かった。僕は飛び起きて、籐夜の利き腕をおさえつけ、ボールペンを奪い取った。
「何してる」
酷く静かな気持ちだった。籐夜はみるみるうちに顔をゆがめ、そして片手で目元を覆った。
「ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい、先輩。先輩……杏奈……」
籐夜が杏奈の治療を打ち切ろうとしたのは、同意書の署名欄を見れば明白だった。僕らの名字「門倉」がひどく緊張した面持ちで鎮座していたからだ。彼は、僕に代わって杏奈を殺そうとした。
「ごめ、ごめん、杏奈、杏奈……っうう、うっ」
小さく身体を丸めて泣き出した杏奈の兄は、懺悔するようにつぶやき続ける。
「杏奈ごめん、ごめん、ごめん、好きになってごめん、お前の大事な人、好きになってごめん、ごめんな、ごめんな……」
僕は片手で籐夜の肩を抱き寄せた。そしてベッドサイドの不安定な場所に、紙を押しつけて、署名欄に続きを書いた。不器用そうな僕の名前が、ちぐはぐに並ぶ。
「せ、」
「お前が罪悪感を感じる必要は無い。僕は決めた。僕が決めた」
「先輩、」
「先輩って呼ぶな、籐夜」
僕はささやく。
「もう、振り向かない男を追わなくてもいいんだ」
覆い被さってきた籐夜に唇を許す。もう僕らを隔てるものは何もなかった。何も。
砕けた写真立ての下で、杏奈は微笑んでいた。
了
泥濘 紫陽_凛 @syw_rin
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