ババにティッシュを返さないかん

ばち公

ババにティッシュを返さないかん

 今から冒険を始めようとする青年が一人、塔で賢者と向き合っている。

 男の名前は寺田 秀てらだ しゅう

 精悍な顔つきをした若者である。

 日焼けして引き締まって見える頬。意志の強さを物語るしっかりとした眉。しかしその割に、その下の瞳は幼子のような好奇心に輝いていた。

 腰には、赤い柄にブルーの宝石が埋め込まれた片手剣がさげられており、そこには大きな手が添えられている。

 今は見えないその掌はマメが潰れきってかたくなっており、剣を扱う者としては非常に頼もしい。


――勇者としてこの世界のこの塔に召喚され早一月。

 ここにいる賢者やその知人である戦士らに修行をつけられていたが、全ての過程を一通り終え、今この場に立っている。


 二十代前後に見えるだろうが、実年齢はちょうど八十八。召喚した際にこの賢者、若返りの時魔術を行使したらしい。

 ハリのある肌やさっぱり切りそろえられた頭髪の色に驚いて、驚いて、驚きすぎて、お陀仏になるかと思った。


「全てが終わったあと、元の世界に戻るかどうか。今、決めて、いただきたいのです」


 ところどころ喉で言葉を引っかけながら、賢者は静かにそう告げた。

 秀を呼び出した賢者は吃音症の、若い男だった。

 実際はどうかは知らないが、外見年齢は二十代半ば。

 運動をしていないのに不思議とガタイがよく見えるのは、幾重にも衣を身に纏っているからだろう。

 分厚い生地のフード付きローブで覆われているため、中は分からないが、十二単のように重なっているのだろうとなんとなく思う。


 驚異の伝説を数々打ち立てた稀代の大天才らしいが、秀が魔法を見たのは最初の一度。この世界に若返って飛ばされた、あの瞬間だけである。


「いかがなさいますか?」


 今決めなければならない。

 元の世界に戻るための魔術を秀に向けて発動させるためには、大変な時間と労力が必要となる。それこそ、勇者の一大冒険が終了するくらいまで。

 それでも少し足りないかもしれないと、賢者は小さな声で付け足していた。


「……」


 静かに目を閉じると、めでたく米寿を迎えた、あの日のことが脳裏をよぎった。


 九十歳の兄から二歳のひ孫まで、親戚一同が集う座敷は狭かったがあたたかだった。

 赤いちゃんちゃんこに胸を張る反面少々照れくさくもあったが、物珍しさにひ孫が寄ってきてくれたのは嬉しかった。

 米寿の祝いにかこつけて始まった宴会はやかましかったが、なぜか涙が滲んだ。

 隣のババは素知らぬ顔で料理をつついていたが、きっと気付いてたに違いない。いつの間にか傍に落ちていたティッシュ箱。そっと涙を拭きながら、再来年このババが泣いたら、自分もこうしてやろうと胸に誓った――。


 そこまで回想して目を開けた。


「きき、決まったのですか?」


 なぜ一番に思い出すのがこんなことなのか。内心苦笑いしつつもっとしっかり振り返れば、長い人生だ、様々なことがあった。


 初恋のさなこちゃんの引っ越し、戦時中のあの誓い、病に伏せる無二の親友、長女の産まれた瞬間、五丁目小町と呼ばれていたババとのロマンス――。


 印象的なのはこの五つだろうか。

 人より波瀾万丈に生きてきたつもりはないが、思い返せばまだまだある。


 それでもぱっと思い浮かんだのがかなり最近のことなのは、やはり歳だからだろう。

 次にぱっと思い出したのも、ババが割り箸を割るのが笑ってしまうほどへたくそだということだった。


 昔のことを、鮮明に振り返るのは難しい。

 記憶の中のさなこちゃん(わし8歳、さなこちゃん16歳)なんて、顔がなぜかビビアン・リーっぽく塗り替えられている。確かに強風の日に、風とともに去っていったけれども。


 まあそれはともかく。


「わし、帰る」


 吃音の賢者は、やはり喉の奥で言葉を引っかからせたあと、


「そうですか」


 とだけ呟いた。

 秀は頬をかいた。


「ババにティッシュ、返さないかんもんでな」




 賢者とともに暮らしていた塔からかなり離れたところで、秀は一度振り返った。

 薄い栗茶色の塔は、捻れるような構造で遥か上空にまで伸びている。

 上に向かうほど広がりを見せるその姿は、遠くから見ると割り箸そっくりだった。

 ほんの少し笑って、秀はまた歩き出した。

 はるか彼方、この世界にはない自分の家を目指して。

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