悪魔との戦争が続く人間の国の上層部では、日夜問わず会合が開かれていた。

 戦えば戦うほど国は疲弊していく。最初は権力を手にいれ、強く振る舞っていた軍部すら、近ごろは敗戦濃厚な空気に当てられて、死んだ顔をしている。

 最早戦うという選択肢すら、難しくなってきている。

 いっそ降伏か。しかしこの戦争の始まりは、悪魔の国からの侵略である。だというのに、負けを認めてよいというのか。そもそもあの悪魔どもに降伏なんぞしたら、この国はどうなってしまうのか。


 悪魔が、人間の国を侵略し始めた理由は単純だ。内で争うより、そちらの方が遥かに楽で手早い、ということに気付いてしまったためである。

 悪魔は魔法を自在に操る強力な存在であるが、生来(他種族から見れば)異様なほど好戦的であった。なによりも魔力の発散先を、戦う相手を求め、それを楽しむことを第一に動いている。そういう生物であるから、彼の国では隙あらば内乱が起こった。土地が乱れれば物が売れると、対岸の火事である間は、人間の国もそれに対して特に思うところもなかった。

 悪魔の国は、人間の国とよく似た政治体制を持つ。しかし遥かに地方分権的傾向が高く、各領主の権威が非常に強い。

 そのためとある一地方の領主が、

「悪魔同士で争うより、他所を攻撃した方が楽なのでは? 他所は力を持たず弱いうえ、こちらの土地も荒れない」

 と、思い付いてそのまま他国を攻撃してしまうのも、悪魔にとっては、特段おかしなことでもないらしい。

「いや権力があるとはいえ、一応は単一主権国家ではないのか? 一地方がそう軽率に動いてもよいのか?」

 なんていう、人間側の疑問は届かない。

 あれよあれよと別の悪魔もそれに便乗してきてしまい、今に至る。


「私達が何をしたっていうんだ……」

「いや、彼等からしてみれば、私達は『持たざる者』だからな。つまり、それだけなのだろう」

 『悪魔』というのは人間側からの呼称であり、彼ら自身は自らのことを、『力持つ者』という意味の単語で呼ぶ。そして自種族以外は全て、『持たざる者』であるというのだ。

「やはり撤退だ、あんな心も無い奴らと、国が近接していたのが悪かった。国境線を下げよう」

「向こうが領地管理に手を抜いてるからといって、付近をどんどん開発していったのは悪手だったな……誰の責任だ?」

「そんな話をしている場合か? それより南下だ! 南の民族どもを蹴散らしながら南下しよう。え、軍人が足りない? そう……」

「ああ、悪魔なんぞいなければよかったのに!!」


 誰かが堪えきれず頭を抱え、悲鳴を上げた。その瞬間だった。

 両開きの戸が、弾けるように吹き飛んだ。蛇のように這う影の鎖が、驚く者達を椅子に縛りつける。

「失礼。騒ぎにするつもりはなかったのですが……ここまで強力に弾かれる・・・・とは、思いも寄らなかったので」

 澄んだ声の持ち主は、すらりとした立姿の、年端も行かぬような少年である。癖のない濡羽の髪に、柔らかなはだえの頬。薄い唇で優雅な微笑みを振り撒きながら、まるでこの場の主であるかのように振る舞う。

 彼が足を踏み入れる此処は、悪魔が寄れぬように施された空間である。しかし人々を縛りつけるそれは、人間が『触媒』を頼りに使う、『疑似魔法』とは明らかに異なる。力ある悪魔の使役する、本物の魔法であった。

 警備の姿はなく、駆けつける者もいない。室内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

「そう恐れないでください。私はまだ子どもです。見てのとおりの。そちらの椅子、使っても?」

 言いながら少年は、許可を待たずに空いた椅子を引く。

 悪魔は外見こそヒトそのものであるが、本質はまったく異なる。彼らにとって他者とはまず己が力を向ける対象であって、支え合い生きる存在ではない。彼らはヒトの感情の存在は理解しても、その機微までは解さない。

 そんな悪魔と、同じテーブルについている。

 張りつめた死への恐怖と緊張、冷や汗とともに誰もが口を噤んでいる。各人に配られた銀製のペンに手を伸ばそうとする猛者もいたが、巻き付いた鎖に戒められた。

 少年は足を組み、「さて、」と上品に微笑む。

「勘違いされているようですが。私はなにも貴方方を、虐げようとか、殺そうとか。そう言ってるんじゃないんです。ただ話がしたい。互いにとって利益のある話です。私たちの未来が、よりよいものとなるように」

 幾人かが顔を上げたのを機に、少年は語気を強める。

「約束します。悪いようにはしません。ただ、戦争を終わらせようと言うのですから。……そうですねぇ。貴方方には手始めに、私達の国の爵位を。税を取り立てる側、今と同じ――いえ、より良い立場をお約束しますよ」

 全ての視線を集めるなかで、悪魔は、笑みを深めた。

「――悪いようには、しませんよ」



 悪魔との会合後、全ては滞りなく進んだ。

 悪魔を退け続けてきた国の英雄たちは、次々に処分されていった。当然、悪魔側の指示だった。隊は整理され、絆を育んだ者達は分断される。ある者は僻地へ移動、ある者は処刑。ある者は、どうなったのかさえ聞かなくなった。

 その流れから逃げ出す者もいれば、立ち向かう者もいたが――。



「あっさり売られちゃったねぇ、お姉さん?」

 私の行き付く先は、この悪魔の少年だった。

 椅子に黒い鎖のような影で縛り上げられて、もう碌な抵抗もできなくなってしまった。

「感謝してよ? お姉さんだけは殺さないようにって、ちゃんと頼んであげたんだから。全てが済んだら、お姉さんは僕に下さいってね。……恨んでもいいけど、恨まれる謂れはないよ」

「別に、恨んではないよ」

「へえ」

 恨んではいない。戦争に関しては、もう何もかもを諦めてしまっている。何かが、自分の知らないところで起こってしまう。それが当たり前だからだ。

 ただ少し、やりきれないだけだ。こんなにもこんなにも頑張ったのに、誰も、何も報われなかった。なにも――。

「じゃあ、どうしてあんなにも僕に抵抗したんだ。そんな格好になるまで」

 視線を落とす。私の両足は、どちらも膝から下がなくなってしまっている。

 躾だと悪魔は言った。

 切断されたわけではない。原理は分からないが、彼の力で隠されてしまっているらしい。だから大丈夫だと言っていたが、この悪魔はいったい、何が大丈夫だと言っているのだろう?

 これほど人の尊厳を踏み躙っておいて、いったい、何が『大丈夫』だと言うのだろう。



 処刑場行きかと思われた移送先が悪魔の国で、おまけにそれがクリムくんのところだと判明したとき。私は当然、彼に理由を問いただした。正直、何を考えているのかと思った。

 すぐに返ってくると思われた答えだが、彼はそれについて、しばらく考える素振りを見せた。

『……そうだな、』

 言葉を探している様子に、私は唖然とした。

 こんな、無理やり人を攫うくせに。その行為に、大した理由もないのか。

『僕は、お姉さんと戦うのが好きなんだ。弱くても脆くても、殺意を向けてくるお姉さんが好きだ。どんな感情でもいい、心を僕にぶつけてくることが嬉しくて楽しくてしかたがない。だけど戦争が終われば、お姉さんは悪魔と戦うのをやめてしまうだろう? それはつまらないじゃないか』

『戦う、戦うから。あなたでも、どんな悪魔が相手でも、いくらでも戦ってみせるから。だから帰して、私を帰してよ!』

『お姉さんは、僕の獲物だろう? 僕だけと戦い、僕だけを楽しませてくれれば、それでいい。それだけで。他の存在に気を向けたり、戦ったりする必要はない。だから連れてきたんだ』

『こんなことしなくても、戦うから……あなたが望めば、いつだって戦うから。だから、帰らせてよ。お願いだから。ねえ、お願い。お願いします……』

『うるさいな。君は、僕が人間から手に入れた戦利品だ。貢がれたそれをどう扱おうと、文句を言われる筋合いはない』

 懇願する私に、悪魔は苛立ったように続ける。

『殺意でも憎悪でも怒りでも喜びでもなんでもいい、感情なんてどうせどれも同じだ。ただ君のあらゆる感情は僕に起因し、僕に向けられる必要がある。――分かるね?』

 分かるわけがない。分かりたくもない。

 別に憎むわけでも、恨むわけでもない。だけど、こんな扱いをされて黙っていられるはずがない。戦利品だの貢物だの言うのは向こうの勝手だが、それを私が受け容れるかどうかは、また別の話だ。

 だから拒否して、彼が望むように立ち向かってやったのだが、躾と称して、両足を奪われてしまった。

 椅子に縛られて、碌な抵抗もできなくなった私。取引を終えたのか、さっさと帰っていく、私が護っていたはずの人間達。

 悪魔が微笑む。あっさり売られちゃったね。



 確かに、生活には問題はなかった。その点は『大丈夫』であった。

 彼は丁寧に私の世話をしてくれた。

 食事は以前よりもずっといいものが食べられた。椅子への拘束を解かれて、私は彼と共に食卓を囲んだ。衣類だって私が気に入るものを選べるよう、色取り取りに用意してくれていたし、風呂や排泄時には当たり前みたいに両足を返してくれたので、なんの不自由もなかった。

 彼は、私が望むことは自分でさせてくれたし、私を殴りもせず嘲りもしなかった。私は何も彼に望まなかったが、恐らく、どんな些細な要望であっても、その全てに応えてくれるだろうといった親切さ加減だった。


 しかし椅子に縛られ両足まで奪われて、でも生活できるから大丈夫だね、なんて、笑ってほざける馬鹿はいないだろう。

 笑えない。しかし泣けるはずもなく、怒る気も起きない。私は静かに、埋められるのを待つ死人のような心地で毎日を生きている。この悪魔の国にはお似合いだろう。

 この国は暗い。日の光の一つも射し込まない。全てを吸い込むような静寂に満ちて、冷ややかだ。――しかし、決して嫌な空気ではない。奇妙に静謐な、どこか安らかささえ感じさせる空気だ。こんな状況でなければ、興味深く、心地よく過ごせていたのかもしれない。


 悪魔は今日も、彼手ずから丁寧に、私のセミロングの髪をくしけずりながら、

「もう少し髪を伸ばしたら? 似合うと思うんだけどなぁ」

 なんて、上機嫌で喋っている。

 村では伸ばしていたが、入隊後に切ってしまった私の髪は、ここでの生活のために、以前よりもずいぶんと綺麗になっていた。

「うん、伸ばそう。いいよね? 君は此処にいさえすれば、もう戦わなくて済むんだから。――ああでも、それは少しつまらないなぁ」

 不穏な言葉に、思わず肩がわずかに跳ねた。背後からくすくすと忍び笑いが聞こえる。

 機嫌が良い時の彼は、まるで歌うように喋る。

「そうだ、知ってる? 人間達は、お姉さんはもう死んだと思い込んでるみたいだよ。ひどい話だよね。確かに少し・・戦いはしてたけどさ、僕がお姉さんを殺すわけがないのに。……なに、その目は。死なせるはずがないだろう? 君は僕の、僕だけの獲物だ」

 背後から伸びた彼の両手が、私の頬にかかる。上に向けられた私の顔を、彼が見下ろすように覗き込む。

「――本当に、太陽のように美しい瞳だ。オレンジ色。君によく似合っている」

 私は彼の目を見つめ返す。顔に影が落ちるなかでも、妖しく細められた真紅は美しく輝いている。

 やがて、その整った顔貌が歪んだ。

「……君は、泣きも笑いもしない。怒りもしない。人形にでもなったみたいじゃないか」

 唐突にそんなことを言われた。面白くないとでも言いたげな顔だった。

 どの口でそれをのたまうのかと思った。

 私はお前のオモチャじゃないと言ってやろうかと思ったが、膝から下のない両足を見てやめた。

「ねえ、お姉さん」

 そして押し黙る私に何を思ったのだろう。

 悪魔は私に両足を返し、鎖まで解いた。

「……」

 それでも動かない私の頬を、彼の冷やかな手が撫でる。先ほどまで梳いていた、艶のでてきた髪を掬う。

「噛み付いてこないの」

 私はすでに兵士ではない。班だって解体され、班長の行方も知れない。もうこの悪魔と戦って、甚振られてやる謂れはなかった。

「……あなたの躾は成功だよ。よかったじゃない」

 座ったまま皮肉を吐く私に、悪魔は何も言わない。黙ったまま私の両足を取り上げる。

 鎖で繋いで、人間の飼育は楽しいだろうか?

(……早く飽きてくれたらいい)

 「つまらない」と私に興味を失くしてしまえば、殺すか捨てるかしてくれるだろう。

 返してもらった足で立ち上がる気もなかった。それに悪魔の手に落ちた私には、最早戻る場所もない。いつ死んだっていい。

 私は、私が守りたかった私の故郷が、まだ、記憶の中のようにあたたかに輝いていることだけを願っている。



 悪魔の様子は日に日におかしくなっていった。特別こちらに優しい、甘やかしてくる日もあれば、常にイライラと殺気立っている日もあった。以前の彼なら嘲笑うような、感情的な人間そのものの振る舞いだった。

 私はそれを淡々と見ていた。誰かがこの光景を見ていたら、まるで彼が私の感情を喰らってしまったかのように見えただろう。といっても、私の前に、彼以外の誰かが現れることはなかったのだが。


 ある日、悪魔が傷を負って帰還した。

 癒える途中の傷の状態は見るも無残であったが、対して彼の表情は晴れ晴れとしていた。近頃にしては珍しい顔で、私は本当に嫌な予感がして、何も見たくない、聞きたくないと俯いていた。こうしていると少し伸びた髪がカーテンのようになって私と世界を区切ってくれる。

 しかしそうしていて、彼が私に囁いてこないはずもない。

「――人間を殺してきたよ。お姉さんの昔の仲間たちをね」

 優しげな声がふわりと私の耳に届いてから、その言葉の意味が脳に届くまで、ずいぶんと時間がかかった。

 悪魔は嬉々として続ける。

「これでもう帰る場所なんてなくなってしまったね」

 帰る場所なんてとうにない。

 だけど、それでも、殺した? 戦争は終わり人間を殺す必要なんてなかっただろうに。なぜ。死んだ? 仲間が? 班のみんなが?

「正当防衛だよ。彼らが僕に挑んできたんだ。手ごわかったなあ、あの眼帯の男。ほら、まだ治り切ってない。久々に楽しませてもらったよ。――ああ、もちろんお姉さんほどではなかったけどね」

 眼帯の男。銀のライターでぽつりと火の灯ったタバコ。くゆる紫煙。

 じわじわと吸う空気が苦くなって肺のあたりが痛くなって、耳がじわりと熱くなる。世界が遠ざかる。

「英雄を望むような歳でもないのにさ、なんで僕に挑んできたんだと思う? ……あの眼帯の男はね、お姉さんを逃がそうとしてたんだって」

 思わず顔を上げれば、悪魔の綺麗な笑顔が立ちはだかる。そのまま楽しそうに笑みを深めて。

「こんな戦争に、子どもが加担する必要はないって。戦争になんて、出ない方がよかったのにって。いつかお姉さんを、故郷に帰すつもりだったらしい。まあ全部無駄に終わったけど」

 私の頭を撫でた、不器用な手のひらを思い出す。無口な人だった。分かり辛い人だった。

『だから、お前は――』

 その先に続いたのは、どのような言葉だったのだろう。

「だからお姉さんは、ずっとここで――」

「う、」

 堪えきれず唇が戦慄いて、悪魔がきょとんと目を丸くして。そんな彼の表情が、視界が、滲んだ。

「うわあああああん!!」

 気付いたら、子どもみたいに泣き喚いていた。涙が溢れて、首筋まで流れ落ちていく。

 泣いたのは久しぶりだった。目の奥がぐっと痛む。子どもみたいに振る舞うのなんて、絶対に嫌だと思っていた。悪魔にどれだけ甚振られようと、私は絶対に泣かなかった。涙がこんなにも熱いなんて忘れていた。

「ごめんなさい、班長、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 泣いて謝るが、本当にこの謝罪を伝えたい人には届かない。それでも俯き、ぼろぼろ泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝る。

 心配してくれていたのに。助けようとしてくれていたのに。

 私は諦めていた。何もかもを拒絶していた。一人で殻に閉じこもってしまっていた。もっとちゃんと話すべきだった。あなたの言葉を聞くべきだった。向き合うべきだった。

 だけどもう全て、手遅れだ。悔やんでも悔やみきれない。

「班長、班長……」

「――うるさいな」

「いっ」

 ぐすぐすと泣いていると、唐突に前髪を掴まれた。それでも涙が零れるのは痛みのせいではなく、班長の言葉についてだった。

「子どもみたいに泣き喚くなよ。……違うだろう? 僕はあの戦争で君を見つけたんだ。なあ、君は僕の獲物だろう? 僕とあれだけ戦っておいて、あれだけの強さがあるのに、どうしてあんな男のことで泣く必要がある? 君は僕の――」

「班長、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

「僕を見ろ!」

「いや!!」

 伸ばされた手を振り払う。

「……もう、あなたと向き合う気はない!」

 睨み付けると、頬を打たれて椅子ごと床に倒れ込んだ。加減されてるのかもしれないが、目から涙が溢れるほど痛い。いたい。全部が痛い。

 歯を食いしばって立ち上がろうとして、今の状態を思い出す。両足はなく、縛り付けられて身動きも取れない、この様を。

「ふざけるな、あいつが君に何をした!? 何をしてくれた! 馬鹿みたいに無駄死にしただけの人間だ! 僕はこうして君に、戦争のない世界をくれてやったじゃないか!!」

「うるさい! お前はっ、お前らは全部奪っていったじゃないかあ! 返してっ返せよぉ!! 返せ!! 返せぇ!!」

「君が僕に何をくれた? 君は僕に何もくれようとしないじゃないか、今でさえ!」

「奪ってく奴らに何をやれって言うの! お前らなんかに!!」

 乱暴に伸びた手が、また私の髪を掴んで頭を持ち上げた。

「僕を見ろよ」

「うう……」

 引きずられるように顔を上げれば、ぞっとするように美しい彼の顔がある。怖い。きれいな顔が表情をなくして蝋細工みたいなのに、目の奥にはどろどろとした、煮え滾るような感情が潜んでいる。赤く美しい双眸が私を睨んでいる。

 私が助けて、私を助けてくれた悪魔。

 彼は私が助けられなかった人間の子どもではなかったし、私を助けようとしてくれた人を殺してしまった。

 なんでこうなってしまったのだろうと思うと、涙が零れた。

「……で、」

「なに。聞こえないんだけ、ど――!?」

「触らないでよ、この悪魔ぁっ!!」

 目を瞑り叫ぶと同時に、私の胸元を中心に熱量が膨れ上がった。小爆発じみた衝撃が起こり前方・・を吹き飛ばす。

 私は椅子ごと飛ばされて全身を打ち付け、煙にせき込む。しかし特に痛いのはぶつけたところではなく、胸元だった。

 私が肌身離さず身に着けていた、太陽の御守り。がたついた金属細工のそれを村から持ってきたのは、単に自分の拠り所にしたかったから、というだけではない。

 これには銀が混じっている。純銀には劣るが、それでも疑似魔法の触媒にはなる。――いざという時の切り札でもあり、自決するための一手でもある。いつだって胸に潜ませていたのは、確実に自分の心臓を吹き飛ばすためだった。


(なのになんでかなあ)


 破れたシャツの下、熱を持つ太陽の御守りが揺れる。その形どおりの、焼き印のような跡で爛れた私の皮膚。

 いくら低威力とはいえ、魔法が直撃した胸部がこの程度で済むはずがない。


(なんで私のことなんて守ろうとするのかなあ……)


 私が死ななかったのは、疑似魔法の全てが彼へと向かったからに他ならない。そしてそんなことが起こったのは奇跡でも、日々私が縋った御守りのお陰でもなく――。

 嗚咽を堪える私の前で、徐々に煙が晴れていく。

 悪魔の少年が前髪を掻き上げる。人の皮膚剥がれた顔の右半分に、黒い影のようなものが露わになっている。真紅の双眸が爛々と輝き、揺らめく。遠くに落ちていく太陽のように。

 逃げなければいけないと分かっているのに。魅入られたかのように、目が離せない。

 悪魔が嗤う。

「……いい子だ」

 逃げられない。この赤い目から逃げる術はない。そんなこと、とうの昔から分かっていたのに。


 私の顎をすくう綺麗な手のひらは、氷のように冷たい。




 それから日々反抗を続けた。しかし彼に刃を向けるのは辛いし、こんな暗いところで飼い殺されるのは惨めだった。弱まる殺意と強まる敵愾心。せめぐ矛盾に精神は摩耗する。

 悪魔は日増しに態度が悪くなる。彼の望み通り、これだけ私の感情を注いでいるのに、なにが不満なのだろう。

 聞けば、

「……僕にも分からないよ。で? これで満足?」

 と吹っ切れたような態度で、嫌みっぽく返された。

 だけど、おそらく本音だろう。悪魔は人間とは違う。単体で生きていけるほど強く、他者にすり寄る必要もなく、だからこそ生来感情に対する意識が薄い。他人についてはもちろん、自分についてだってそうだ。そもそも生きることと戦うことが直結しているような生き物だから、いちいち感情なんかを慮っていたら生きていけないのだろう。


 抗い続ける私への躾はエスカレートする。

 体のあらゆる部位を隠され、とうとう生首だけになった。レースのクロスの敷かれたテーブルに置かれ、悪魔の鑑賞物になっている。

 生首。自分で自分が信じられない。できることといえば、瞬きと、口を動かすくらいだ。

 私がこうなってから悪魔は少し落ち着いて、なにもできない私のために、丁寧に丁寧に世話をする。私はといえば、この体にふさわしく心も弱る。感情すらも弱まって、瞬きするのも億劫である。

 今、悪魔は一人、人間の国が今どうだとか、自分は何をしているだとかをぺらぺらと喋り立てている。私は時おり、相槌を打ったり、瞬きで応えたり、応えなかったりする。

 どうやら彼は、悪魔が人間の国を治めることに手を貸しているらしい。話に聞く限り、優秀な彼はなかなか真っ当にやっているようだった。彼は自分と戦える相手には嬉々として手を出すが、戦う以前の弱々しい存在については欠片も興味がないようだった。まあ、悪魔らしいといったら悪魔らしい。

 今は戦後処理も次段階にはいって、戦争で荒れた土地や集落を整える事業が最近始まったのだという。

 そんな話をきいて、私に思い浮かぶ場所なんて、一つしかない。

「私の、」

「ん?」

「私の故郷はどうなったの?」

「……どこのこと?」

 私は本当に久しぶりに、故郷の名前を口にした。あまりにも久しぶりで、少し聞き慣れない音にさえ感じた。あんなに大好きだったのに。あんなにも想い続けていたのに。

 少年はぴんときていないようで、しばらく首を傾げていた。彼にしては珍しく、長い時間をかけて。やがて思い当たったように、「ああ、」と小さく頷いた。

「あそこか。もうないよ」

「な、い?」

「うん。あ、勘違いしないでね。あまりにも過疎でどうしようもなかったから、他と併合させただけ。村人はあちこちに散っていったし、あそこはもう廃墟が並ぶだけ。――つまり、もう村じゃない。誰もいないし、何処でもない。もうそこには、なにもないよ」

「なにも」

 と。零した呟きは、声になっていただろうか。


『私の故郷を守るために来ました!』

 私は故郷を守るために戦った。私にもやれることがあると思っていた。

 手を伸ばした子どもが死んだ。この国で貧しく生きることを強いられていた子どもが、この国の戦争のせいで死んでいった。

 悪魔の獲物として、甚振られるのが私にできることだった。それで班の皆が助かるならよかった。だけどそんな私の仲間ももうどこに行ったのか分からない。国に裏切られたから。護ろうと戦ったそれに、捨てられてしまったから。どこにいったのか分かる人達は、この悪魔に殺された人達だけだ。

 私の故郷もなくなってしまった。私の思い出、あんなにきらきらとしていたのに。もう誰もいない。なにもない。

 私の太陽の御守りは、どこにいってしまったのだろう?

 私の、私の……。


(……もう、どうでもいい)


「クリムくん……」

「なに? お姉さん」

「……あなたなんてきらい。大嫌い……、きらい……」

 今、私があなたに向けてあげられる感情なんてこれくらいだ。どんな感情でも同じだって言ったのを私は忘れない。

 なのに。そう言ったのはクリムくんのくせに。

 自覚があるのかないのかは知らないけど、そんな、傷ついた子どもみたいな顔をしないでほしい。

 だってあなたに伸ばしてあげられる手も、その気力ももう、私にはない。

「ごめんね、わたし、もう、何もないの……。なにも……、わたし……」

 戦争は終わった。私がやるべきこともない。私がしたいことも、もうなにもないのだ。

 咽喉を空気が通り抜けた。微かで、長い吐息になって消えた。


「すこし、やすむね」


「え?」

 閉じた瞼の縁から、一筋の涙が流れ落ちた。




「……お姉さん?」

 瞼を落とした少女の生首は、まるで眠っているかのように見えた。しかしその様子がおかしいと気付いたとき悪魔はぞっとして、慌ててあらゆる手を試みた。命の魔法をかけ、繰り返し蘇生を試みた。彼女の目元の涙を拭い、体を返し、縋り付いて幾度も声をかけたが、彼女の瞼が開くことはなかった。

 悪魔がいくら激昂しようと謝ろうと、縋り付こうと、彼女はもはや彼に声をかけない。笑わない。泣かない。目を開いて、太陽のような瞳を見せてくれることもない。

 なぜ彼女が死んだのかが、悪魔には理解ができなかった。彼女の生命維持に手を抜こうはずもない。彼がこうも手をかけた人間が、簡単に死ぬはずがないのである。

 悪魔は彼に出来ることであれば何でもした。どこにでも向かい、どんな財産だって費やそうとした。しかしその全てはもはや手遅れで、彼女ははるか遠く彼の手の届かないところにいってしまったのであった。

 その死が理解ができないため、いくら後悔しようにも諦めきれず。

 今にも涙をこぼしそうに儚げな、小さな少女の死体は、今も薄暗い悪魔の国にあるのだという。

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地獄のようなショタおねバッドエンド ばち公 @bachiko

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