「ジーン、こちらへ来い」

 白狼が手を差し伸べると、ジーンは躊躇いがちに立ち上がりその手を取った。何をするんだろう、なんて呑気に思った私は途方もない馬鹿だった。白狼はジーンの腰に両腕を回して引き寄せると覆い被さるように口付けた。私は驚いて、変な声が出そうになった。

 嫌がると思ったのに、ジーンは一瞬体を跳ねさせたけど抵抗しなかった。それどころか顔の角度を変えて、腕を白狼の背中に巻き付けて、全身のすべてを委ねる格好になった。

 私はその様子を愕然としながら眺めていたが、はっと我に返った後は急いで部屋を飛び出した。

 研究室へとすぐに向かった。まともな思考ができなくなりながら、全力で走った。幻獣だか何だか知らないけれど何をしてるのか、どうしてジーンも受け入れるのか、種族の違いもだけれど男性同士でなんて、種も残せないのにそんなことどうして、一体何が起こっているのだろうか。

 真っ直ぐに研究室に行って、ジーンに渡されている解錠魔術を使おうとした。でも、扉は施錠されていなかった。勢いのまま開け放つと寒かった。部屋の真ん中に立っている、白くて長い髪の男が、底冷えした目で私のことを見据えていた。

「あれの術者か」

 白狼は、本棚の方向を顎でしゃくった。私の陣がある場所で、私は何も答えられなかった。

 怖かった。寒かった。この途方もない寒さは白狼のせいだと嫌でもわからされていた。

 寒さと恐怖に容赦なく襲われて、全身が震えていた。ガチガチと歯が鳴って声が出ず、歩み出て白狼に何か行ってやろうとするけれど、耐え切れずその場に膝をついてしまった。

 何もできなくなっていた。そんな私の代わりに、聞き慣れた愛しい声が答えた。

「没頭する私を案じてのことなのです、アグラユガ様」

 ジーンは白狼に庇われるよう、背後に立っていた。顔だけを覗かせて私のことを見下ろしており、目が合うといつものように柔らかく笑ってくれた。恐ろしい寒さの中で初めて安堵の芽が出たけれど、何か言おうと開いた口からは真っ白な息が吹きこぼれただけになった。

 私の様子を眺めていた白狼が、首を傾けながら一声笑った。

「まあ、ちょうどいい。貴様はそこで見ていろ」

 白狼は言うや否や、私が自室で見ていたようにジーンの腰をまた抱いた。今度はジーンの方から、白狼に唇を寄せた。白狼が指を伸ばして、縛られているジーンの黒髪をゆっくりとほどいた。広がる黒が覆い被さる白に混じって絡みついた。荒くなる吐息と、粘ついた音が耳に入り込んできた。

 白狼がジーンを机の上に組み敷いた。服をはだけさせられたジーンの、あらわになった肌は綺麗だった。初めて彼に会った日を思い出して、こんなに佇まいが清潔な人がいるなんてと見惚れた瞬間が過ぎった。その美しさに白狼が歯を立てた。

 ジーンは、喉を逸らして震えた熱い吐息を吐き出した。

「アグラユガ様、そこは……」

「痛かったか?」

「いえ、……平気、です……」

 聞いたことのない、甘い響きの声が発されていた。ジーンの言葉と様子に白狼は満足そうに首を揺らし、長い白髪を邪魔そうに片側へ跳ね除けてから、ジーンの体に再び興味を向けた。白狼の髪をジーンが愛しそうに撫でた。氷のような青白さが、氷点下の部屋と私の心に深々と突き刺さった。

 見ていたくなかった。私はやめさせたくて立とうとするけど、足だけでなく体全部が震えて指先すら動かせなくなっていた。目を逸らしもできなくて、甘噛みされるたびに体を揺らすジーンの姿が鼓膜の上で踊った。どうして目の前で睦まれているのかわからなかった。でも、様子を見るための陣がばれていたのだから、こうやって見られていること自体には抵抗がなくなっているのだと、気が付いた。最低な結果だった。体が足場のない空間に放り出された感覚になって、これは絶望や虚無と呼ばれるものだった。

「やめて……」

 ぽろりと声に出た。

 やっと発せた言葉は純粋な懇願だったのに、視界の中にいる白狼は顔を上げて私を笑った。

「女、お前が勝手に陣を置いていたこと、ジーンはどうやって気付いたと思う」

 下腹部を撫でられてジーンが声を漏らす。

「おれが喚び出された後、ここまでやってきて祝いたいと言ったそうだな?」

 長い黒髪が机の上でざらりとうねる。

「見ていなければ、出ない言葉だ」

 貫かれた体が一際大きく跳ね上がる。

「それでもジーンはな」

 初めて見た素肌の両足が白狼の腰に巻き付いていく。

「自分を心配してくれているのだと、先程のようにずっと、貴様を庇っていた」

 蕩けた甘い声が鼓膜を揺さぶり、

「そのような、他を慮る心の美しさにおれは惚れた」

 白狼はジーンの頬を両手で撫でて、深く唇を重ね合わせた。


 私の目の前で事が終わった。ジーンは白狼の腕の中で意識を飛ばし、くったりともたれ掛かって全身を預けていた。白狼はジーンを抱き上げて、座り込んだままの私を睥睨した。一度連れ帰る、と冷えた低い声で言ってから、ジーンと共に召喚陣の中へと消えた。

 頭の中での整理が追い付かず、ぼんやりと座り込んでいるうちに、部屋に立ち込めていた冷気は落ち着いていった。私はやっと足を動かせた。ふらふらと本棚に近寄って、設置した陣を引き剥がして、破棄した。

 他のことが何もできずに帰宅して、涙も流せない夜を過ごした。翌日、義務と仕事のために魔術練にどうにか行った。どうするか、ザイルに相談でもするか、白狼はもう彼を戻してくれないのか、色々と考え込んでいると、ジーンが私のいる研究室にやってきた。

 何事もなかったように穏やかに笑っていた。驚いて言葉が出てこない私に向かって、研究が結実したと嬉しそうに報告してくれた。

 それで、ああ昨日のことは白狼の見せた幻術とかなのかって思いかけた。そんなわけはなかった。

 ジーンは視線を揺らして、他の部員の人目を気にしながら身を屈め、私の耳元でそっと囁いた。

「貴女が私が倒れないよう気遣ってくれていたお陰で、私は無理をせずにやってこられてアグラユガ様と出会えました。本当に、本当にありがとう。貴女は親兄弟のいない私の、親族のような存在です」

 そう言ってから、

「幻獣界で婚姻の儀をしてくださるそうなんですが、出席してくださいませんか?」

 と、弾みを抑えている、幸せに満ちた声色で打診してきた。


 私は何も答えられなかった。穏やかに微笑んでいる姿はやっぱり綺麗で、清廉で、他の人にはない澄んだ空気を纏っているけど、その全身は白い氷に余す所なく囲われている。

 ひび割れて砕けた私の心は、得意の治癒魔術でも二度と元には戻らない。

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白と黒の魔法陣 草森ゆき @kusakuitai

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