中
治癒魔法の研究論文を魔術資料室で書いている時だった。
「おお、ちょうど良かった。ジーン先輩に届け物頼んでいいか?」
声を掛けてきたのはザイルで、手には古めかしく変色した書類を携えていた。
「いいけど、それ何?」
「あー、古文書だよ。大陸南端の遺跡から発掘したんだと」
「へえ……でもなんでジーンに?」
「古代文字で書かれてんだけど、どうも正式な書籍とかじゃなくて書簡の類みたいで訛りなんかが混じってるらしくて、解読できる人間がいないんだよ。んで、普段からありとあらゆる古文書しゃぶってるジーン先輩なら読めるんじゃないかってさ」
ザイルは苦笑混じりの溜め息を吐き、私の書類の隣にそれを置いた。
「俺が届けてもいいけどさ、ま、同期への気遣いだよ」
「何それ嫌味?」
「違うって、ジーン先輩とそろそろいい具合なんじゃねえの?」
ちょっとニヤつきながら言われたので返事はしなかったけど、ザイルの言う通りではあった。
ジーンに抱き締められてから時間が空いていた。でも、二人でいる時の空気の変化を私は肌で感じていた。彼も私を想ってくれていると雰囲気でわかる。
でも今はまだ彼の夢も叶っていないし、色恋はきっと邪魔になってしまう。それを私は理解できていた。恋愛感情に浮かれるばかりではお互いに魔術研究なんてできないし、いくら得意な治癒魔法だからと手を抜くわけにもいかない。
ザイルの持ってきた古文書は引き受けた。すぐにジーンの研究室に向かい、ザイルに聞いた通りの説明をすると、彼は見てわかるほど目を輝かせて古文書を手に取った。
はじめの数行に目を通した時点でジーンは見たことのない顔をした。
時間が止まったのかと勘違いしそうになる程、彼は微動だにしなかった。
「ジーン?」
「すみません、二日くらい作業に没頭します。私のことは放っておいて大丈夫です」
「え、でも」
「お願いします。……万が一、五日ほど経っても出てこなかった場合、覗いてもらえませんか」
ジーンはこの上なく真剣な声と顔で頼んできた。私は断れなかった。相当希少な古文書なのだとわかったし、危ない時は見に来て欲しいと頼まれて安心した。
私は了承して研究室を出た。でも放置しきれないと思い、こっそりと魔法陣を置いていった。ジーンに教えてもらった本来ならただの記録媒体である陣で、観測範囲内の状況を遠隔で見ることができる。設置場所は本棚の隅にしたけれど部屋全体がちゃんと眺められた。机に向かって作業に没頭するジーンの様子は鬼気迫っており、すでに心配になったけれど、飛び込まないように我慢した。
一日目は古文書を読み込んで何か書き物をして終わった。
二日目は床に積み上げてあった分厚い古本を古文書と共にいくつも開いて、パンを片手にずっと魔法陣を描いていた。
この時に様子見をしようかと思ったけれど、こうやって眺めている分にはまだ大丈夫そうだったし、ジーンがどこか嬉しそうに解読を進めている様子が微笑ましくて邪魔をしなかった。
すれば良かったと今は思う。
状況が明らかに変わったのは、三日目だ。
私は夜中までジーンの様子を見つつ、論文の執筆を並行して行なっていた。部長への提出期限が明後日で、ジーンを気にしつつも自分の仕事を疎かにできず、書き上げてから倒れるように眠った。それで、起きると三日目の昼前だった。論文作業があるから研究室には行かなくてもよくて、私は推敲しながらジーンの様子を確認して、もし彼が倒れていたらすぐに向かうことにしようと、観察用の陣を開いた。
間違えておかしな陣を使ってしまったのかと思った。まず見えたものが、巨大な白い狼の姿だった。私は思わず立ち上がった。でも、それ以上動けなかった。
「おれを喚ぶ人間が、まだこの世にいたんだな」
と、白狼が私たちの言語で声を発したからだ。
私は唖然としながら、映し出されているものをつぶさに見た。間違いなくジーンの研究室だった。白狼が身じろぐと、その陰に隠れていたジーンの姿が現れた。彼は惚けた顔で白狼を見上げていたかと思えば、さっとその場に膝をついて頭を下げた。
「氷界の王、お初お目にかかります。私はジーンと申します、応じて頂けて至極の極み……」
ジーンの丁寧すぎる挨拶に、白狼は声を上げて笑った。
「やめろやめろ、おれは別に、そんなにいいものではない」
「何を仰られるんですか。貴方は、伝承にしか存在しない王たる幻獣であると存じ上げています」
「今はそうなっているのか。昔は幻獣族や魔王族を配下にしようと、皆躍起になって喚び出してくれていたものだが」
「そう……なのですか?」
「ああ。失われている歴史だったか?」
「はい。……よろしければ、教えて頂けませんか? 私は古代魔術を研究する学徒なのです」
白狼は快く了承し、ジーンは本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。一人と一匹はその後もいくつか、私では理解できない単語を交えながら話をして、そのうちに白狼の姿は氷が溶けるように揺らめいて消えた。そうすると、私もやっと気付いた。白狼がいた場所には複雑な紋様の魔法陣が描かれていた。
ジーンは古文書を足がかりに、遂に召喚という夢を果たしたのだった。
私はすぐにでも駆け付けて、ジーンを心の底から祝福したくなった。夢を叶えた彼をそばで支え続ける決心もついて、いつ恋人関係、婚姻関係になっても構わないと本気で思った。ジーンもこれからもっと忙しくなるだろうし、隣で世話をする人間が必要なはずだった。
でも、お祝いするために研究室へと向かった私は、顔を出したジーンに危険だからと中に入れてもらえなかった。
食い下がると困った顔をされてしまった。
「まだ色々、安定しないんです。成果を貴女に見せられるまで、待ってもらえませんか?」
そう言われてしまって、無理矢理は部屋に入らなかった。ジーンは私に頭を下げて、他の人にも内密に、と真摯な声で頼んできたから、受け入れざるを得なかった。
でも、私は陣を置きっぱなしにしているから、研究室の様子は窺い知れた。白狼と毎夜会話を続けるジーンを尻目に論文を完成させて、意気揚々と提出してきた。その際に研究練でザイルに会った。古文書について聞かれたので今ジーンが鋭意解読中だと伝えると、ザイルはすごいなと感嘆した。その取り繕わない様子にはつい誇らしくなった。ジーンは本当にすごいのだ。清廉で美しく、誰も成し得なかった召喚術の再生産を実現させた、歴史に刻まれるような気高い魔術研究者に違いなかった。
そんな彼と懇意にできている自分のことも誇らしい。私は本気で本当にそう思っていたし、ジーンが私に心を許してくれているのは嘘じゃなかった。
何かがおかしくなってしまったのは、白狼のせいだった。
ジーンからの報告を待ちながら、陣で研究室を眺める日々を続けていたある日の夜、白狼がまるで犬のようにジーンのそばにうずくまった。今までは前足と背を伸ばして姿勢良く構えていただけに、そうやって丸くなると妙な愛嬌があった。
私だけでなく、ジーンもそう思ったらしい。古文書の内容をまとめていたジーンは白狼の仕草を見て頬を緩めた。
「氷海の王、どうされたんですか?」
「アグラユガでいい」
ジーンが返事をしないと、
「おれの名前だ。ジーン、お前なら呼んでも構わない」
白狼はそう付け加えた。ジーンは焦ったように体ごと白狼の方を向いた。
「そんな、恐れ多いです」
「構わんと言ってる」
「ええと……では、アグラユガ様と」
ジーンが恐る恐る、という顔で呼べば、白狼は大きな頭をジーンの下腹部に擦り付けた。幻獣なんて言っているけど本当に犬みたいな動作だなと、私はちょっと笑えてしまったけれど、ジーンは違った。
「あっ、あの、アグラユガ様、私はまだ作業中で」
「優秀なお前のことだ、もう終わるのだろう」
「それは、そうなのですが」
「少し遊んでくれ、飽いてきた」
犬のようにブーメランを追い掛ける遊びでもするのかと思った私の目には、予想外のものが映り込んだ。
白狼が喉を逸らして何かを吠えると、途端に獣の体が細かい氷の粒に覆われて、次の瞬間に何事もなかったかのように止んだ。
白狼はいなくなっていた。あいつのいたところには、ぼさぼさの長い白髪を垂らした人間の男が立っていた。
人の姿に変化する魔術なのだとは、遅れて気付いた。
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