白と黒の魔法陣

草森ゆき

 ジーンに初めて会った場所は魔術研究部の古代魔術研究室だった。私は新しく配属されたばかりで右も左もわからずに間違えて入室してしまい、彼と顔を合わせることになった。

 部屋間違いなんて馬鹿すぎるミスだったけど、彼に会えたのだから結果としては正解だ。ジーンは端正な男の人で、後ろで一つに縛った長い黒髪が艶やかだった。しかし見た目が類を見ないほど整っているというほどではない。私が言葉をなくすほど見惚れてしまったのは別の部分だ。彼は佇まいそのものに幻想的な雰囲気があった。静謐な泉に降り立つ、図鑑や資料でしか見たことのない幻獣の姿を彷彿とさせる清廉な雰囲気を纏っていた。

 惚けて硬直している私に、ジーンは優しく笑いかけてくれた。

「こんにちは、何かご用ですか? ここには私しかいませんが」

「あ、いえ、その」

 私はまごつきながら研究室の中をきょろきょろと見た。本棚には私の読めない古代文字の書籍が溢れ返っていて、雑然とした卓上は魔法陣の描かれた紙がいくつも散らばっていた。

 ここでやっと、私の所属する治癒魔術部ではないと気が付いた。

「わっ、ごめんなさい! 部屋を間違えてしまったみたいです!」

「ああ、そうだったんですね。本当はどちらの部屋に?」

「えっと……魔力配列作業室? なんですけど……」

「それなら隣の練ですよ。この部屋を出て、突き当たりにある魔法陣まで行けば、すぐ近くに飛べるはずです」

「あ、ありがとうございます」

 頭を下げて出て行こうとしたけれど、私の足は動かなかった。

 何せ、ジーンは本当に綺麗だった。男性だとは声や身長でわかるけど中性的な雰囲気で、こうやって部屋間違いをした私を咎めず丁寧に順路を教えてくれる優しさは透いていた。今まで誰にも見たことのない、高潔さのようなものを私は初対面ながら感じさせられていた。ここを離れてしまえば二度と会えないんじゃないかと躊躇した。

 でも居座る理由がなかった。動かない私を見てどうかしましたかと聞いてくれた彼には部屋までの道順を思い浮かべていたと返答し、再三お礼を伝えてから不自然にならないよう仕方なく踵を返した。

「もし迷った時は戻ってきてください。ここは古代魔術研究室ですから、隣の練に行く陣くらいすぐに作れますので」

 と、退室の寸前に声をかけてもらえた。

 私はもう彼のことで頭からつま先までいっぱいになっていた。

 破裂してしまうとも知らず、この時の私は恋心に浮かれ果てていた。


 ジーンの詳細については同部署所属の同期であるザイルから色々と教えてもらえた。なんでもザイルが通っていた魔術学校の先輩だったらしい。私は遠方の出身だから知らなかったが相当の有名人らしく、優秀さもだけれど所属が古代魔術研究部なのが噂の中心になっているようだった。

「魔法陣描いての魔法出力って廃れた魔術だからなあ」

 ザイルは純度の高い治癒魔力を混ぜ合わせながら呟くように言った。

「ジーン先輩は魔力量もあるし頭もいいから、みんな騎士団併設の魔術師部隊に入ると思ってたんだよ。まあ、その辺は先輩が選んだんだから、外野がとやかく言うことじゃあねえけど」

「うん、……でも、あんなに綺麗で目立つ人なんだから……魔物とか、魔族とか、ジーンさんばっかり狙って攻撃するかもしれないし、拐われちゃったりもあったかもしれないから、今の部署の方がいいかもね」

「うはは、拐われるはないだろうけど狙われはしたかもな。なんせ魔力が多いから、魔物のいい餌になりそうだ」

 明け透けで下品な物言いに少しムッとした。私の不機嫌に気付いたザイルは一言謝ってから、揶揄うように息で笑った。

「ジーン先輩いつも研究室にいるみたいだから、惚れたんならちょいちょい会いに行けばいいんじゃないか?」

 私のあからさまな態度を指されていた。更にムッとしたけれど、同時にいいことも聞けたなと思い、返事はせずに自分の仕事に目を向けた。


 ジーンは本当に毎日あの研究室にいた。古代魔術とそれに並ぶ魔法陣の研究部は今は彼のみで賄われているらしく、研究も、研究費の計算も、外部との連携も、魔法陣に関する学術発表の魔術会も、全てを彼一人で回していた。能力の高さに舌を巻いているのはもちろん私だけではない。ザイルもだし、他の魔術部の人間ほぼ全員がジーンの功績に圧倒されて、段々と噂の内容が賞賛ばかりになっていった。

 廃れたと言われていた魔法陣での魔力使用も、ジーンが新しい活用法をいくつも紹介して、段々と使われるようになっていった。私に声をかけてくれたような移動魔術としての活用が多く、簡略化に成功していて魔力量の少ない一般市民でも簡単に陣が敷ける手順が生み出されていた。

 また、攻撃魔法としても魔術師部隊が一部導入したらしい。攻撃魔法そのものではなく、魔力保存用として効率のいい魔法陣だ。古代の魔術書から見つけられた魔法陣にジーンが手を加えたもののようだった。

 これらの話を私は彼本人から聞いていた。古代魔術研究室に通い詰めて、いつも一人きりで研究を続けているジーンを気に掛けた。彼ははじめ少し戸惑っていたけれど、ある日研究室の床に転がって気絶しているのを発見して、慌てて自分の部署で作っていた治癒用ポーションを振り掛けた。彼は目を覚まし、事態をすぐに把握して私に謝罪と感謝をくれた。それから私とジーンの仲はゆっくりと深まり始めた。

 放っておくと寝食を忘れ作業に没頭する部分があるのだともう知っているからには、倒れていないかちゃんと食事はとっているのか、確認するためにも足繁く通う日々を送っていた。

「こんにちはジーン。ご飯は食べた?」

 私が顔を覗かせてそう聞くと、

「やあ、いつもすみません。今日はちゃんとスープを飲んできましたよ」

 なんて、ちょっと申し訳なさそうに言う。そんなジーンを見ると心の中がくすぐられて泡のようになった。もわもわと膨らむ彼への感情が目からも口からも溢れている気がして、恥ずかしい反面で私は幸福感に満ちていた。ジーンも私が来れば笑ってくれて、貴女のおかげで無茶をして寝込むことがなくなりましたと照れたように話した。

 私たちは絆を育めていたと思う。これは本当に、間違いない。ジーンを元々知っていたザイルも「あの先輩が女と笑い合ってる日が来るなんてなあ」と驚いた顔で言っていたし、施錠した古代魔術研究室の解錠呪文を教えてもらえたのは私だけだった。たまには気晴らししないとと彼を連れ出し、帝都から離れた静かな湖を見に行ったりもして、ジーンは空気が澄んでいるとほっとしたように言ってから私に夢を教えてくれた。

「昔に、召喚士という職種があったんです。それを普及させたいとまでは言いませんが、復活させることが子供の頃からの夢で……でも、召喚に関しての魔法陣はどんな古代の文献にも載っていません。だから私は召喚するための陣について、ずっと研究を続けているんですよ。……引きましたか?」

 引いてなんかない、と私は即答した。すごい夢だし、子供の頃から考えていることをここまで実行できているのは素晴らしいと、自分の伝える力のなさを歯痒く思いながら一生懸命ジーンに伝えた。それはちゃんと受け止めて貰えた。ジーンは安堵の溜め息の後に目尻を溶かして微笑んで、ありがとうと柔らかく言ってこちらに腕を伸ばしてきた。

 ジーンに抱き締められたのはこの時が初めてで、私の鼓動は耳に届くほど激しくなった。

 そしてこれが最後の抱擁だった。

 この日から数ヶ月後、ジーンは別の相手のものになってしまった。

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