第8章 ページからこぼれ落ちるもの
08-1 恐ろしく強い力で
恐ろしい強さで引っぱられてカンナは崩れ落ち、ベッドの傍らにへたり込んだ。
「ねえカンナ、この子のこと愛してあげて。今の、このわたしには、それができないの。」
「加奈さん、痛い」
「お願い、カンナは血も肉も、体温も粘膜もある女の子の体でしょ? だから痛みも感じるんでしょ?」
加奈はカンナの手首をねじるようにして、ベッドの上の人体の下腹部に押し付けようとする。
「やめてください!」
カンナは精一杯の力で加奈の肩を押しのけた。
「うそ。どうして……?」
バランスを失った加奈は後ろ向きによろけながら、固く握ったカンナの左手をぐいっと強く引いた。
カンナの手首が鋭く痛んだ。
かと思うと、ずるずるずるずる、と奇妙な感覚が左腕に走った。めまいがするような不快感だった。
まるで、熱病の夜の夢だ。カンナの左手が、手首から切り離され、するすると引き抜かれてゆく。刀を
声も出なかった。手首の断面はただ白くて、血も骨も神経も見えない。
引き抜かれたカンナの左手は、加奈の手にしっかりと握られたまま。その断面からは、銀色にきらめく細い
つまりそれは、カンナの左手を
「もういいわ、カンナ。もういい」
抜身の短剣を手にした加奈が静かに言う。カンナは体が震えて何も言えない。
「カンナが欲しがらないなら、もうこの子は要らない。もっと早くこうするべきだったのよ」
加奈は短剣を振り上げ、ベッドに向かってためらいなく振り下ろした。刃先が「ほんとうのわたし」の腕にぷすっと入る。青白い肌に、赤黒い血がたらたらと流れ始める。
「だめ! やめて!」
左手を失ったカンナがうまく立ち上がれず、制服のスカートの裾を乱しながら畳の上であがいているうちに、加奈は白刃を引き抜き、再び振り下ろした。
ベッドの上の肉体は、意識があるのか、眉にしわを寄せてかすかに首を振った。腕の皮膚をさらに数センチにわたって切り裂かれて血を流しながら、ゆっくりと背中を丸め、ぐっ、と喉の奥でうめいた。
「やめて! 自分を傷つけないで!」
カンナは足を滑らせながらも立ち上がり、残った右手で加奈の腕をつかんだ。
加奈の手首は、くしゃっと音を立てて紙の筒のようにつぶれ、あり得ない角度に折れ曲がった。
短剣が畳の上にぱたりと落ちた。
「カンナ……うそ……」
信じられない、という顔で加奈は動きを止めた。
ベッドでは、背中を丸めたひ弱な体が血を流している。
カンナは、加奈のつぶれた腕をつかんだまま青い顔で震えている。
加奈の顔が、ぺらりとめくれた。出てきたのは泣き顔の写真が印刷されたページで、明朝体の「涙」という文字が頬にぽろぽろと流れ落ちていた。
「カンナ、どうして? 絶対に手を離さないでって、言ったのに。たとえ夜の底がどんな世界でも―― 」
確かに、二人の手はもうつながってはいなかった。
加奈の右手は紙細工のようにつぶれて折れ曲がっていた。カンナの左手は畳の上に落ちて、血にまみれた刃を光らせていた。
「ちがう。ちがうんです、加奈さん、わたし……」
カンナが抱きすがると、その腕の中で、スーツの下の体もくしゃくしゃとつぶれた。上半身がぐにゃりと
現れたのはのはひどく質の悪い白黒印刷の、芝居がかったような大げさな悲嘆の表情で、その下に活版の文字でこう書いてあった。
――うそつき! 言ったじゃない、55万8400の中からわたしをみつけてくれるって! わたしたちの、特別な本を、いっしょに探してくれるって!
さらに一ページめくれると、そこにはもう顔は無く、文字だけがあった。
――私を見捨てるのね? マナみたいに、カンナもわたしを切り離すのね? どうして?
「わたしはただ、言葉だけの世界で、加奈さんといっしょに……」
――言ったでしょ? そんな女の子の形の体じゃ、外の世界でしか生きられないの。
ぱらぱらぱらぱらと、さらにページがめくれ、最後のページが現れる。
─────────────
著者
だれか
わたしを
みつけて
おねがい
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手を離す、できもしない約束をする、見捨てるなどの行為を固く禁じます。
─────────────
加奈の体は崩れ落ち、肩から外れた頭部が、畳の上にページを広げてばさっと落ちる。お団子がほどけて、長い
カンナは両手で自分の顔を覆い、爪を立てる。
「うそ! ちがう! わたし、加奈さんのこと、見つけたのに!」
足元の畳がばらばらと、散らばって落ちてゆく。
図書館の夜の底が抜ける。
ベッドも、床に落ちた本も、紺のスーツも、カーテンも壁も、虚無へと崩れ落ちてゆく。傷ついた肉体とともに、カンナは冷たい涙にまみれた女の子の形のままで、どこまでも永遠に落下し続けた。
カンナは図書館の夜の底で 猫村まぬる @nkdmnr
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