第6話 クロスファイヤー

 一週間後の午前9時過ぎ。

 丈一は再び、マウンドの上に立っていた。

 

 天候は雲ひとつない快晴。

 背後では7人の野球部員たちが守備についている。

 そしてバッターボックスに立っているのは、結城大輔。


 大輔はグローブを口元に被せながら顎を引き、ストライクゾーンをじっと見る。


「準備いいですよ、先輩」


 大輔が言った。

 いつものように感情がこもっていない、抑揚のない声。

 何もかもが一週間前と同じだった。


 だが、ひとつだけ違うものがある。


「丈一」


 キャッチャーボックスから陸人が防具姿で駆け寄ってくる。

 二年前に見たきりなのに、なぜか違和感のない光景だった。


 サインや作戦の打ち合わせは、この一週間で既に済ませている。

 それでも陸人は敢えて間を取った。

 丈一に声をかける、ただそれだけのために。


「心配すんな、首は振らせねえ」

「俺がお前のサインに一度だって首を振ったことがあったかよ」

「そうだったな」


 ミットとマスクで顔を隠していても、陸人がにやりと笑ったのがわかる。


「一発かまそうぜ、丈一」

「ああ」


 グローブとミットを突き合わせると、陸人は駆け足でホームベースの後ろへ戻ってゆく。


 丈一は数秒だけ目を瞑り全身に意識を行き渡らせ、感覚を研ぎ澄ませた。

 トレーニングウェアの背中が僅かに冷たく感じる。


 センターからホームベースの方向にかけて、浜風が吹いていた。

 打者にとって向かい風、投手には追い風になる。

 

 だが、丈一はこれ以上の運や奇跡は求めなかった。

 鍛え上げた肉体と技術、そして練り上げられた理論と精神。

 必然によって織りなされる勝利にしか、追い求める意味はないからだ。


 陸人の背後に立つ主審役の部員から、プレイボールがかかる。

 丈一は大きく深呼吸したあと、左手でグローブの中のボールに触れる。

 この一瞬で、帰るべきところへ帰ってきたような気がした。

 

 陸人の出すサインを見る。

 丈一は充実と高揚を感じながら頷いた。キャッチャーは陸人なのだ。首を横に振る余地などない。

 

 マウンドからホームベースまでの18.44メートル。

 二人の阿吽の呼吸が、この領域を支配する。

 

 丈一は一球目を投じるべく、大きく踏み込む。

 遠心力に体重移動を乗せた大きなテイクバックからの横振りで、丈一の左手から白球が放たれる。


 次の瞬間、固唾を飲んで見守っていた部員たちがどよめいた。

 バッターボックス上の大輔が、のけ反るようにしながら大きく身を退いたからだ。


 内角高め、ストライクゾーンを大きく外れる、打者の顔面付近を狙った危険なブラッシュボール。

 無論当たるようには投げていない。


 傍から見れば威嚇のために行儀の悪い投球をしたか、そうでなければコントロールを乱したかと思うだろう。

 だがこれも陸人の戦略だった。

 陸人は顔面近くを抉られた大輔に視線を送り反応を伺う。だが大輔は何食わぬ顔で右バッターボックスへと戻っていった。


 陸人は一球目を捕球してから間髪入れずにボールを返す。

 返球を受けた丈一は、大輔が構えをとってすぐに投球動作を始動する。

 上体を曲げ、スムーズな体重移動からクイックで二球目を投げ放つ。


 今度はストライクのコールがかかる。

 外角のボールゾーンからストライクゾーンに向かって大きく曲がるスライダー。

 大輔はバットを振らずに見逃していた。

 

 一見すると、単に打ち気がなく悠々と見逃したように見える。

 だが陸人は大輔が少しだけ腕を引き、ほんのわずかにバットを出しかけたのを見逃さなかった。

 

 予測していたボールが来たのに、手を出せなかったのだ。


 「これではっきりした。あいつは天才だが化け物じゃない、人間だ」


 丈一は大輔が何食わぬ顔でバットを構え直すのを見て、陸人に目配せをする。

 一球目のブラッシュボールは陸人の張った伏線だった。


 デッドボールすれすれの球を食らった後ではその残像がよぎり、思う存分踏み込めない。

 そして踏み込めないぶん、視覚的な錯覚で外角のストライクゾーンも狭く見える。


 大輔はストライクゾーンの目測をわずかに誤ったのだ。

 

「人間なら、抑えられる」


 丈一は陸人の返球を受けながら小さく呟き、己を鼓舞した。

 この情報は、ひとつめのストライクカウントを得る以上の大きな意味を持つ。


 陸人は常々言っていた。

 絶対に打たれてはいけない状況での投打の攻防は「勝負」ではなく「会話」であると。


 立ち位置、球種やコースに対する反応、アプローチ、間の取り方。

 あらゆる情報からどんな球が有効かを吟味し、配球を組み立てる。

 打者の一挙手一投足が見逃してはいけないメッセージになるのだ。


 大輔は丈一の投じた二球に極めて人間らしいメッセージを返した。

 「会話」が成立するのであれば、いかに優れたバッターであろうと戦いようはある。


 丈一は返球から十分に間を空けることにした。

 大きく息を吸う。脳に酸素を送る。

 自分を落ち着いて俯瞰し、情熱と冷静の間に身を置く。


 それからサインに頷き、右足を勢いよく踏み出してボールを投げた。


 スライダーよりも更に球速の遅いシンカー・ボール。

 外角に向かって逃げるように沈むこの球は、先の勝負では見せていない。


 並みの打者であればタイミングを外して打ち損じるか、空振るか。

 あるいはバットを出すタイミングを逸して見逃すだろう。

 

 大輔も構えを始動してから動かなかった。

 その様子を見た丈一は、大輔が追い込まれてでも見逃す判断をしたのだと思った。


 だがそれは誤りだった。

 大輔はすぐに打ちにいかず、十分に呼び込んでから猛然と踏み込みバットを振り抜いたのだ。


 甲高い金属音が鳴る。同時に、打球が物凄い速度で三塁線を吹っ飛んでいった。

 幸いにも三塁ベースの手前辺りでラインを割り、ファウルになった。

 大輔は僅かに眉根を寄せてから、柔らかな動きでフォロースルーからバットを手元で戻す。


 結果的にカウントを稼いだが、危険な一幕だった。

 丈一は頬から滴る汗をトレーニングウェアの袖で拭う。

 もう少し手前でボールを捉えられていれば、ヒットコースだった。


 遅いシンカーは確実に大輔の頭にはなかった。

 それでも反応してきたという事実が恐ろしい。

 普通は外角の変化球を引っ張って打ったり方はしない。だが大輔の天賦の体格とパワーはそれを可能にする。

 

 陸人からの返球を受けたあと、丈一は大輔を見た。

 なんと、笑っているのだ。


 大輔はほんのわずかに口角を上げて、笑みを浮かべている。

 普段感情を露わにしないからこそ、これだけ離れていても僅かな変化でわかる。

 だがそこに嘲笑や享楽めいたものはない。


 不思議と、大輔の気持ちがわかる気がした。

 砂浜で再戦を持ちかける電話をしてきた時も、大輔はどこか高揚していた。

 

 おそらく大輔も望んでいるのだ。

 普段の野球部を背負う主将の立場では、決して許されない戦い。

 一瞬に全てを賭け己の力を燃やし尽くす、個人のエゴとエゴがぶつかり合う魂の勝負を。


 その構えからは、見えない闘志が背中から立ち上ってゆくのがわかる。

 大輔は明らかに本気だった。


 丈一は陸人のサインに従い、4球目を投げた。

 真ん中高めに、意図的に外した直球。

 これで全ての状況は整った。


 マウンドの上で、丈一も笑う。

 笑えるような状況ではないが、それでも笑い返してやった。


 高揚、そして恐怖。

 その全てを飲み下してもなお、全身の血が沸き立った。

 己の全てを賭けた殺し合いにも等しい勝負ができるのは、今この瞬間しかない。


 陸人がサインを出してくる。

 要求する球種とコースは、すぐわかった。


 サインは中指を突き立てた手の形で終わっていたからだ。

 何度もサインを変えてきたが「あの球」のサインだけはいつもこの形なのだ。


 丈一は目を細めて、マスクの奥から覗く陸人の表情を伺った。

 思ったとおり、陸人も笑っている。


 陸人が何を伝えたいかは、もう言葉を交わさずともわかる。

 これで決めてやれと、そう言っている。


 丈一は覚悟を決め、陸人に向かって小さく頷いた。


 そしてグローブの中で硬球を握り直す。

 大きく息を吸って、目を瞑る。


 丈一はサインを見て、頷いて、そして全てが自分に委ねられるまでのこの瞬間が好きだった。


 キャッチャーがサインを出し、ピッチャーが投げる。

 野球において、ゲームを自ら動かすことができるのはバッテリーだけだ。

 来た球に対してバットを振るしかない打者や、飛んでくる球を捕球する野手とは違う。


 故に、バッテリーは流されるままに生きることは許されない。勝負で生じた結果に対して、全ての責任を負わねばならない。

 だがそれは、言い換えれば自分の力で己の運命を選び取ることができるということでもある。


 生死の淵ぎりぎりから活路を掴み取る。

 これ以上血が沸き立ち、魂が燃え上がることなどあろうか。


 身体に不安はない。決してコントロールは間違えないという自負もある。

 そして何より、陸人がサインを出してくれている。

 もはや恐れるものは何もない。


 丈一は決意した。

 次のボールはない。この一球で、大輔を仕留める。


 足を上げ、投球動作に入る。

 身体を折り、肘を引く。一切の淀みがない動きで右足を踏み込む。


 その瞬間、言葉にできない様々な思いが一気に胸中に去来する。

 情けない自分への怒り、運命の理不尽、そしてたったひとつの後悔。


 丈一はその全てを力に変えて、指先に込める。


 今までに直球を全てボールにしているのも、遅い変化球を外角に投げたのも、全て陸人が描いてくれたシナリオだった。

 やはり、捕手は陸人でなければありえなかった。

 陸人と一緒だからこそ、運命に逆らうこの一球を投げることができる。


 そのボールの名はクロスファイヤー。

 丈一の得意球にして、右打者殺しの秘策。

 ホームベースを切り裂くように横切り、鋭く内角低めを穿つストレ-ト。

 

 白球が、雄叫びと共に振り抜かれた左腕から放たれる。


 心の奥底でたったひとつの後悔となって燻り続けていた、小さな残り火。

 それが今、忌まわしき過去を焼き払う炎となる。


 リリースの感触は完璧だった。

 この球にバットは出せない。見逃し三振しかありえない。

 丈一自身がそう思えるほどだった。


 指先を離れたボールは唸りを上げて空気を切り裂く。

 白球は丈一の祈りを乗せた方舟となり、大輔の膝元へ一直線に向かってゆく。


 だが勝利のビジョンを描いていた丈一は、腕を振り抜いた体制のまま眼前の光景に驚愕した。


 大輔が、バットを出しているのだ。


 にわかには信じがたい。

 この投法は今まで見せたことのない、正真正銘の必殺球。


 にもかかわらず、大輔は迷いなく初見でフルスイングしている。

 理想的な軌道で内角を抉り込むボールに対して、まさにここしかないというポイントを捉えようとしているのだ。


 次の瞬間鳴ったのは、ボールがミットに収まる乾いた音ではなかった。

 代わりに聞こえてくるのは、あの不快な甲高い金属音。


 丈一の少し上を何かが飛び越えてゆく。

 大輔がバットを出した瞬間から、なんとなく無駄だとわかっていた。

 それでも丈一は振り返ってボールの行方を追った。


 大輔の打ったボールは物凄い勢いで飛距離を伸ばす。

 センターのフェンス、更には防球ネットをも飛び越え、場外に吸い込まれてゆく。

 丈一は自分の投げた渾身のボールが快音を立てて逆風を切り裂き、そして見えなくなるまでをただじっと見つめているしかなかった。

 

 結果は、センターオーバーの場外ホームランとなった。

 

「俺の、負けか」


 ぽつりと出てきたのは不思議と負けを認める言葉だった。

 全てを賭けて勝負に臨んだのに、どこか清々しい気分なのが不思議だった。


 マウンドの上に佇んでいると、陸人と大輔がマウンドまでやってくる。

 それに気付いた丈一は、大輔に率直な疑問をぶつける。


「お前、直球が内角に来るってわかったのか」


 疑問は当然だった。初見の球に、完璧に反応されたのだ。

 大輔は勝ち誇ることも勝利の余韻に浸ることもなく、淡々と答えてくれた。


「直前まで、変化球で勝負して来るって思ってました」

「じゃあ、なぜ」

「先輩が投げてくる時、なんというか『匂い』がしたんです」

「匂い?」

「うまく言えないんですけど、たまにフォームとか、雰囲気とかでピンとくるんです。それで『見えた』時、俺打てるんです」

 

 丈一と陸人は、肩を並べて絶句した。

 大輔の感覚は二人のそれとはあまりにもかけ離れていた。

 

「こりゃ、勝てねえわ」

「ああ。勝てないな」


 そして少しばかり呆気にとられた後、大笑いした。

 大輔と自分たちでは見えているものが違う。それがわかったからだ。

 理屈を超えて危険を嗅ぎ分ける、動物的な感性が備わっているとでもいうべきか。


 丈一は大きく息を吐いてから、グローブの中に左手を突っ込む。

 今はもう手元にない、指先に残った最後の一球の余韻を想起する。


 かつて投げることができなかったクロスファイヤー。

 いつかの春に抱いた忘れ形見にして、たったひとつだけの後悔の象徴。


 しかし今度は、間違いなく投げ切ることができた。

 思い描いたとおりの理想的な一球だった。

 完璧なクロスファイヤーを投げることができたのだ。それで負けたのであれば、結果にも納得がいく。


 故に丈一に後悔はなかった。

 大輔と勝負をするという決断。クロスファイヤーを投げるという決断。そして負けを認めるという決断。

 全て誰からも強制されることなく、自分の意志で選び取ったものだ。

 

「満足したかよ、丈一」


 陸人はキャッチャーマスクを外し、素顔を露わにして聞いた。

 その表情もまた、敗北したばかりとは思えないほど穏やかだ。

 

「ああ。陸人は?」

「俺もやれるだけやった。だから満足だ」


 バッテリーは顔を見合わせて頷く。

 二人ともが同じ心境に至っていた。


「対戦ありがとうございました。先輩」


 機を見計らっていたかのように、大輔が一歩前へと進み出る。

 何をするのかと丈一は一瞬ぎょっとする。

 だが大輔はこうするのが当たり前とでも言うように、左手を差し伸ばしてきた。口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。


「いいボールでしたよ。俺がすごかっただけで」

「言うねえ。お前、今みたいに生意気な方が『らしい』ぜ。天才君」


 丈一は差し伸べられた手を、さっきまでボールを投げていた自分の左手で強く握り返す。

 皮膚の分厚い、固くて大きな手だった。


「優等生の称号に飲まれないように、せいぜい頑張りな」


 そして口角を吊り上げて、笑い返してやった。

 隣の陸人も呆れたように笑っている。

 

 丈一と陸人は、もはや大人という言葉に惑わされてはいなかった。

 一球一瞬の勝負にかける情熱の炎こそ燃え尽きた。

 だが死力を尽くして戦った丈一、陸人、そして大輔の瞳の奥では新たな意志の炎が燃え盛る。


 彼らが自らの意志で進むべき道を歩む限り、その炎が消えることは決してない。

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クロスファイヤー 安食ねる @ajiki_neru

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