第5話 バッテリー


 丈一は、砂浜の上にあぐらをかいたまま、ぼんやりと水平線の向こうに落ちる夕陽を見つめていた。

 何も考えたくはなかった。打ち寄せる波の音、ざらざらとした砂、耳元でうなる潮風の風切音。

 思考を遮断するかのように、五感に押し寄せる全てをあるがままに受け入れる。


 1時間ほどそうしていると、不意に背後から気配を感じた。

 

「よっ」


 陸人だった。

 一言声をかけると、ジャージが砂まみれになるのも構わず丈一の隣に座る。


「おう」

 

 丈一は夕日に照らされる波の満ち引きを見つめたまま、力なく短い挨拶を返す。

 陸人がなぜここにいるのか、どうして来たのかというようなことを尋ねたりはしない。


 こっぴどく先生や監督に叱られたとき、試合で手ひどく打たれて落ち込んだとき。

 どちらからともなくこの砂浜にやってきては互いを励まし合ったり、気に入らない先生や監督の文句を言って溜飲を下げてから帰ったものだった。

 丈一が怪我をして投げられなくなる前までは、珍しくない光景だった。


 陸人はしばらく一言も発さないまま、水平線の向こうをじっと見つめて座っている。

 丈一が横目で表情を伺うと、わずかに口元が笑っている。


「なあ、丈一」

「うん?」


 しばらく視線を送っていると、陸人は丈一の方にわずかに体を傾けて無邪気な笑顔で話し始めた。


「覚えてるか。小学五年生の時、校舎の裏の草っぱらでタバコを吸ってた先生がいただろ」

「夜の間に落とし穴掘って、嵌めてやったアレな」

「そうそれ! あれが人生で一番怒られたやつだよな」

 

 二人で悪事を働いていた幼い頃の懐かしい記憶だ。

 言われるまでは記憶の底に眠っていても、昔話を始めればこうして鮮明に思い出せる。


「けど陸人。俺にはもっとすごいのがある」

「え、そんなのあったか?」

 

 陸人は大げさなリアクションで驚いて見せる。

 丈一が見たその横顔は、どこか懐かしい感じがした。


「六年生の時の修学旅行。俺が消灯の後、ホテルの窓を伝ってお前の班の部屋に行こうとしたやつ」

「思い出した! 足を踏み外して落ちかけたんだっけ」

「とんでもなく叱られて、強制送還になった」

「あれ、危なく死ぬとこだったよな」

「でもよ陸人、なんで俺がそんなにお前の部屋に行きたがったか覚えてっか?」

「え、なんだっけ」

「お前が先生から見つからないで部屋に忍び込めれば千円よこすとか言うからだろ」

「そんなことのためにかよ。お前、バカだよな」

「バカはお前だ、小学生の千円はでけーだろ!」

「はぁ? そういう問題じゃねーだろ!」


 ヒートアップしかかっている二人の顔が徐々に赤くなる。

 互いが互いの方に身を乗り出して、眉間に皺を寄せて睨み合う。

 いつの間にやら思い出話が舌戦へと変貌を遂げていた。


 次の罵倒をどうやって相手に浴びせかけようかと思案する丈一と陸人。

 だが、そうして真剣に張り合っているのも僅かな間のことだった。


「……くっだらね」

「ああ、なんの話してんだかな」


 互いを指差して我に返る。

 すぐに冷静になった二人は、しばらく無表情で互いに顔を見合わせていた。


 しかし、すぐにこらえ切れなくなって、腹を抱えて大笑いを始める。

 何年経ってもくだらないことを真剣に言い争っている自分たちが、あまりにおかしかった。


 波の音さえも掻き消さんばかりの大声で、丈一と陸人は笑いに笑った。

 あまりにも笑い過ぎて、最後の方には声も出ないほどだった。


 しばらくして、先に陸人がやっと落ち付いた。

 せき込み混じりに呼吸を整えながら言う。


「お前やっぱ、変わらないよな」

「ああ。昔からバカで、ガキだった」


 陸人の問いに、丈一は首肯で返す。

 ついさっきまで馬鹿笑いで大騒ぎをしていたのが嘘のように、潮騒の音がよく聞こえた。


 丈一と陸人は、幼い時からずっと刹那の中に生きていた。

 やりたいと思ったことは先生や親にどんなに叱られようと手を出した。野球もそのうちのひとつだ。


 一瞬の意欲に命を燃やし、自分の意志で進むべき運命を選び取る。

 それは悪ガキになろうと球児になろうと、変わらなかった。


 先生に怒られようと、怪我をしようと、選んだ道を後悔したことはない。

 今も昔もこの砂浜で「やらなきゃよかった」と言ったことは一度たりともないのだ。


「だからやっぱりお前は『あれ』でいいんだよ」


 陸人は丈一に向かって、笑いかける。


「そうかな」

「ああ。監督の言うことなんか気にすんな。あいつらの言う『大人』なんてくだらないさ」

 

 大輔へ一打席勝負を仕掛けた丈一を肯定する、陸人なりの思いやりの言葉だった。

 今なら陸人にも、丈一の気持ちが理解できた。

 あの一打席勝負は、間違いなく後悔しないための行動だったのだ。


「そうか」


 丈一はふっ、と笑う。

 陸人の言う通りだった。


 何をもって「大人になった」と言えるのかは良くわからない。

 だが18歳になるから大人だとも、お行儀よくすることが大人だとも思えないのは確かだった。


「陸人」

「ああ?」


 そこまで考えて、丈一はひとつの疑問を抱く。

 湧いた疑問をそのまま率直に、陸人へとぶつけてみる。


「そういえばお前はどうなんだ。大人ってやつになっちまうのかよ」


 大人になる、というのは他ならぬ陸人もまた口にしていた言葉だった。


 丈一の問いに、陸人は顎に手を当てながら考えこむそぶりを見せた。

 だが、すぐに何かを思いついたように、持ってきたエナメルバッグに手を突っ込む。


 取り出したのは、クリアファイルの中に入ったプリント。

 タイトルには「進路希望調査書」と書かれている。そのプリントには丈一も見覚えがあった。


「正直言うとさ、俺も心のどこかで納得いってなかった。頭では大人にならなきゃって思っててもな。でも、今日思い返してみたわかった」

「何をだ?」

「お前が怪我して投げられなくなってからの、二年間さ」


 陸人はプリントをクリアファイルから抜き出し、じっと見つめる。

 丈一には、陸人が何をしようとしているかわかる気がした。

 

「俺、監督にやれって言われて、ベンチで記録係やってたろ」


 それから少しだけ目線を上げて、海の方を見つめた。

 海面は黄昏時の燃えるような夕陽を照り返して、きらきらと黄色に輝く。


 いつの間にか潮風は凪ぎ、打ち寄せる波の音も穏やかになっていた。

 陸人はそのタイミングを待ち望んでいたように、満面の笑みを浮かべて言う。


「あれ、ほんとはすっげーつまんなかった!」


 その笑顔は丈一のよく知る、小憎らしくて賢しらで、無邪気な悪ガキのそれだった。

 陸人は足元に転がっていたボール大の石を拾い上げ、手にしていたプリントで丸めるように包む。


 それから座ったままの体勢で、海面に向かって思い切り石を包んだプリントを投げ捨てた。

 プリントは遥か遠くの海面に落ちる。ぽちゃんと小さく音を立てたあと、立てた波紋ごと波に飲まれて見えなくなった。


 すっきりした表情をしている陸人の横顔を見て、丈一も笑った。


「バカなガキは、もう一人いたみたいだな」

「違いない」

 

 そう言い合ってから、二人はもう一度顔を見合わせて大笑いした。

 だが、腹を抱えんばかりの大笑いの最中、着信音が鳴る。

 丈一の携帯電話だった。


「待ってくれ、たぶん母ちゃんだ」

 

 丈一は笑いをかみ殺しながらポケットから携帯電話を取り出す。

 そして、ろくに着信画面も見ずに通話ボタンをタップした。


「もしもし、三鷹先輩の携帯電話ですか」


 しかし、通話に出たのは母親ではなかった。

 だがこのよく通る低いトーンの声は、明らかにあの人物のものだった。


「結城です」


 丈一の身体が一瞬にして強張る。

 驚くことに、声の主は大輔だった。

 ついさっき対峙し、勝負を全うし切れなかった因縁の相手である。


 横を見ると陸人が耳をそばだてている。丈一の緊張が伝播したのか、神妙な顔をしている。

 丈一は耳元から携帯電話を外して、陸人にも聞こえるようスピーカーをオンにする。


「大輔が何で俺の番号を知ってる」

「監督から聞きました。でもそんなことどうでもいいです」


 無機質な声色から垣間見える、ある種の不遜と敵意の感情。

 丈一は大輔らしくない、と思った。

 普段、大輔はそういった感情を見せることはないからだ。


 だが、らしくない感情を表に出した理由は、すぐに分かった。


「もう一度、俺と勝負しませんか」


 再戦の誘い。

 申し出を聞いた瞬間、丈一は全身の毛が逆立つような錯覚を感じた。

 大輔から再戦を挑んでくるなど予想外だった。


 丈一は動揺を押し殺して電話口に向かって言う。


「グラウンドはもう立石に監視されてるぜ。それにもうすぐ秋季大会だ。お前ら二年の都合がつかないだろ」

「大丈夫です。俺から監督に話をつけました。来週土曜日の朝だけ、グラウンドを使えます」

「立石のジジイ、お前相手に手のひらを返したな」


 丈一は大輔が聞いているのにも構わず口に出して毒づく。

 立石からは「下らないことにグラウンドを使わせない」と説教されたばかりだった。

 横に視線を向けると、陸人もまた中指を立てるジェスチャーで批難の意を表明している。


「ただ、勝負するには条件があります」


 対する大輔は監督のことなど関係ないとばかりに話を続ける。


「条件? 無関係の立石が条件を付けるのか」

「いえ、俺からの条件です」


 大輔は毅然と言い放つ。

 丈一と同じく、一年春から二、三年を率いてエースを務めた男だ。相手が上級生どころか先生だろうと決して気後れしない。


「キャッチャーに、本間先輩を連れてきてください」


 大輔の言葉に、丈一と陸人は同時に顔を上げてお互いの表情を伺った。

 自分の名前が出てくると思っていなかった陸人は、息を殺しながらも目を見開いて驚いている。


「三鷹先輩、昔からずっと本間先輩と組んでたんですよね」

「そうだ」

「だったら本間先輩じゃないとだめです」

「理由は?」


 丈一が少し語気を強めて聞き直してみる。

 すると一瞬間を置いた後、ざらざらとした音が通話越しに流れてきた。

 その音は小さく息を吸う音に似ていた。


「ベストの三鷹先輩を、打ちたいからです」


 そして出てきたのは、あまりにもシンプル過ぎる回答。

 いつもの優等生が板についた大輔とはうって変わった声色に、強い意志と感情が籠る。


「監督から聞きました。三鷹先輩、本間先輩と組んだ時が一番すごかったって。でも、俺にも高校生の中では一番だって自負があります。打つ方は、特にね」


 大輔の声は、話すうちに徐々に大きくなっていった。


「だから本当の実力で白黒はっきりつけたい。これが理由じゃ、いけませんか」


 大輔の畳みかけるような言葉の数々に、丈一は面食らった。

 優等生で誰もが認める天才の、その皮一枚下に隠れていたのは極めて利己的な絶対王者のプライド。

 不遜にも丈一のボールを打てると確信し、疑っていないような発言だ。


 だが、その傲慢さはどこか懐かしくもあった。

 岩東学院のエースだったプライドは、丈一も常に持っている。


 あるいは大輔も、自分と考えていることはそう違わないのかもしれないという奇妙な共感さえ覚えた。

 丈一にも打たれない自信があった。そう思っていなければ最初から勝負など挑まない。


「大輔、ちょっと待て」


 丈一は通話のミュートボタンを押して、もう一度視線を横に向ける。

 陸人は身を乗り出して聞いてくる。


「やるのか?」

「ああ」

「勝算は?」

「さっき言ったろ。俺の『あの球』はまだ奴に見せてない」


 丈一は声をひそめて言った。

 まだ大輔に披露していない、丈一の得意にして必殺の決め球。

 今まで投げようとしてついに投げ切れなかった悔恨の一球を、満を持して大輔にぶつけようと言うのだ。


「わかった。じゃあ俺が配球を組み立てる。お前はただ思いきり腕を振れ」

「ってことは、来てくれるのか!?」


 陸人は口角を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる。


「あの球は、俺の頭脳的配球があってこそだろ」


 その笑顔は、幼き日に悪事を重ねた悪ガキの表情そのままだった。


「やってやろうぜ、相棒」

「ああ」


 それ以上の言葉はいらなかった。

 二人は無言で拳と拳を突き合わせる。

 燃え尽きることのできなかった悪ガキ達の最後の夏が、ようやく幕を開けた。


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