第4話 天才の眼光

 立石は疲れ切った表情で監督室のアルミ戸を開けると、すぐにソファに腰を下ろした。

 それからローテーブルに置いてある使い捨てのボディタオルに手を伸ばし、着ているアンダーシャツをめくって下腹の汗を拭き取る。


「ふぅ」


 立石は一息ついたという感じで、ぐったりとソファに背中を預ける。


 もう還暦もほど近い。

 昔は無理もできたが、教師と野球部監督を兼務するのは年齢的にも楽ではない。名門と謳われる岩東学院高校野球部の指導であればなおさらのことだ。

 こんなプレハブを並べたようなボロのクラブハウスでも、立石にとっては気の休まるありがたい空間だった。


「丈一め。引退してなお俺の仕事を増やすとは」


 立石はしゃがれた声で一人毒づく。


 聞けば、丈一が引退した身で勝手にグラウンドにやってきて、勝手に大輔に勝負を挑み、勝手に脳震盪になって倒れたのだという。

 最初に報告を受けた時、立場をわきまえない振る舞いに呆れ返った。

 一応グラウンドを預かる者として、丈一には指導をしなければならない。だがそのせいで余計な疲労を負う羽目になってしまった。


 立石はテーブルの上のタバコに手を伸ばす。

 だが小箱を掴みかけたところで監督室のアルミ戸を叩く者がいた。


「結城です」


 大輔だった。

 立石は残念そうに頭を振ってから、伸ばしかけた手を引っ込めた。


「おう、入れ」

「失礼します」


 190センチを超す長身の大輔は窮屈そうに身を屈め、背の低い戸を潜り抜けるように入室した。

 音を立てないよう戸を丁寧に閉じてから、立石に向かって小さく一礼する。


「どうした」

 

 立石は目を細めながら大輔に尋ねた。

 丈一にうんざりさせられた後だからか、大輔の礼儀正しい振る舞いには救われる思いさえする。

 

「はい。監督にお聞きしたいことがありまして」


 大輔は立石に背筋を伸ばしたまま、はきはきとした口調で答えた。


「そうか、まあ座れ」

「失礼します」


 立石が対面のソファに着座を促すと、大輔はまたもや小さく一礼してからゆっくりとソファの真ん中に座る。

 背もたれに背中は預けず、背筋は伸ばしたままだ。


 こと野球において、大輔の実力が天才的であることは誰もが認めるところだ。

 だが、優秀なのは野球だけではない。


 教師歴の長い立石から見ても、成績優秀、品行方正という言葉を体現する模範生だった。

 己の実力を鼻にかけることなく仲間を気遣い、常に先頭に立って周囲を鼓舞する。

 非の打ちどころのない、まさに完璧な主将だった。

 

 その大輔が、立石の目をまっすぐに見て言う。


「監督。三鷹先輩のことを聞きたいんです。あの人は、どんな投手だったのでしょう」


 丈一の名前が出てくると思わなかった立石は、驚きで目を見開く。

 

「お前が、丈一のことを?」

「はい」


 立石はソファに預けていた身を起こしながら念を押す。

 自然、大輔と目線が合う格好になる。


 一見、大輔の表情からはいかなる感情も読み取ることはできない。

 ゆえに立石は逡巡した。丈一のことを知りたがる意図を測りかねたからだ。


 あんな奴のことは気にするな、と言うこともできた。

 そう言えば大輔も無理に追及はしないだろう。


 だが、立石は誤魔化せなかった。


「いいだろう、教えてやる」


 一見無感情な大輔の瞳の奥からわずかに覗く、意志の輝きに気圧された。


 大輔は監督である立石にとって、従順で御しやすい選手だ。

 だがごくまれに、何を言い出すかわからない不気味なところがあった。


「あいつは惜しい投手だった」

「惜しい、ですか」

「ベンチに記録員で陸人が入ってたろう。あいつと丈一はリトルからバッテリーを組んで名を上げてた。で、俺はずっとあいつらに目を付けててな。中学の時に一緒にスカウトしたのよ」

「監督ご自身がわざわざ、ですか」

「ああ。丈一は貴重な左の横手投げで、球も強かったがコントロールが抜群でな。内外角の出し入れは絶対間違わん」


 立石は過去を振り返ってしみじみと頷いた。

 説教したばかりの丈一を懐かしく思えるのは、入学前から目をかけて、自分の理想とするチームに欲しいと何年も追っていたからだった。


「素晴らしい投手なんですね」

「ああ。だが、ありゃあ投手以外は務まらん性格のくせ者だ。向こうっ気が強くてくそ度胸のくせに、投球に関しちゃ職人みてぇにこだわる気難しい奴だった」

「それで、三鷹先輩を操縦できる本間先輩が必要だったんですね」

「うむ。あいつが丈一の狭い視野を補うように、相手打者やグラウンドに目を配ってな。賢い良い捕手だった。二人とも使いもんになったのが1年だけなのは惜しいことよ」


 典型的な専制政治を敷く監督の立石にとって、丈一と陸人は確かに扱いにくかった。

 説教した回数も数えきれない。それでも憎からず思えるのは、二人が1度は立石を甲子園まで連れていったからだ。

 

「すごいんですね」

「ああ、だがお前ほどじゃない」


 立石は皺の寄った口角を吊り上げ、思わずにやりと笑う。


 口で言うほど立石は、丈一と陸人のことを惜しいと思ってはいなかった。

 高校野球におけるゲームチェンジャーともなりうる、大輔という天才を手に入れたからだ。


 立石は監督として三校を渡り歩いてきた。

 決して部員を駒のように思っているわけではない。事実、共に喜びもすれば泣きもする。

 だが自分が勝たせるという熱意、そして名将と謳われているプライドが、どうしようもなく傲慢さとなって顔を出す。


「監督」

「なんだ」


 立石は見上げるように大輔を見た。

 その表情を見てなぜかしまった、と思った。


「ひとつ、お願いがあるんです」


 大輔は溜めるように、ゆっくりと言葉を口にした。

 お願い、と大輔は確かに言った。

 だが立石にはそうは思わせないような、無言の圧力があった。


 丁寧な口調も穏やかな物腰も、まさしくいつもの大輔だ。

 だが立石を見る目の奥が、妖しいほどに爛々と輝いている。


 その輝きに、立石は怯えた。

 蛇に睨まれた蛙のような、力ある者に相対した時の本能的な恐れだった。


 拒めば自分の知る大輔が永遠に失われてしまうかもしれない。

 あるいは制御できなくなってしまうかもしれない。


 そうなることは、もちろんない。

 頭ではわかっている。だが本能だけはどうしようもない。

 

 気付けば立石は頷いて声を震わせ言ってみろ、と口にしていた。


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