第3話 大人

 陸人は丈一の背中を見送ったあと、大きなため息をつく。

 15年来の親友に、あんなにも鋭い眼差しを向けられたことはない。

 

 陸人は空を見上げながら悔しくないのか、と問われた時の丈一の表情を思い出す。

 本当は、悔しくないと言えば嘘になる。


 しかし悔やんだところで何にもならないこともまた、確かなことだ。

 大輔をやっつけたところで、二年の春に戻れるわけでも最後の夏をやり直せるわけでもない。


 ただ残酷に現実は突き付けられ、時は過ぎてゆく。

 飲み込まねばならない、大人にならなければいけない、と陸人は自分に言い聞かせる。

 

「本間くん」


 校舎の方から自分の名前を呼ぶ声がして、振り返る。


「うわ、先生」


 声の主を認識した陸人は露骨に気まずそうな表情を浮かべる。

 呼び止めたのは進路指導担当の飯田先生だった。

 陸人を逃がすまいと、早足で正面玄関から校門まで走ってきたのだ。


「なんでいるんですか」

「なんでじゃないでしょう。先生は授業がない日も仕事があるの」


 襟付きシャツにカーディガンを羽織り、ロングヘアを一つ結びにまとめたいで立ちだ。

 陸人は真面目で冗談の通じない飯田先生が苦手だった。


「その表情、何を言われるかわかってるみたいね」

「いや、なんのことだか。俺は成績優秀、品行方正の模範生で……」

「バカ言わないの。ほらこれ。あなたこれ白紙で提出したでしょ。これじゃだめよ。来週中にちゃんと中身を書いて提出すること」


 飯田先生は手に持っていたクリアファイルからプリントを一枚抜き取り、陸人へ押し付ける。


 そのプリントには見覚えがあった。紙面には大きく「進路希望調査書」と太字で書かれている。

 先月進路指導部から配布された希望進路を記入するための提出物だった。


 通常であれば受験する大学や面接予定の企業を書いて提出する。

 だが陸人はなんとなく何も書く気になれず、白紙のまま提出していた。

 

「まったく。白紙のまま提出してくる問題児はあなた達ぐらいなものよ」

「あなた『達』?」

「そう、あなたの相棒。彼にも言っておいて。提出物くらいちゃんとしてって」

 

 陸人は目を細めて、飯田先生の手にしているクリアファイルの中身を横目で盗み見た。

 ファイルの中の調査書には、記名欄に「三鷹丈一」と書かれている。

 署名は書き殴ったようないい加減な字で、それ以外の記入欄はまっさらだった。


 飯田先生はと言えば、呆れた表情を浮かべている。

 

「あなた達も今年で成人なんだから、提出物くらいちゃんとしてくれないと。いつまでも子どもじみた振る舞いしてないで、大人になりなさいよ」


 陸人は飯田先生の言葉にはっとする。

 大人になれ。

 まさしく陸人や監督が丈一へと口にした言葉だ。


 野球に打ち込んでいた頃は白球を追いかけ、目の前の勝負に全てを賭けていればよかった。

 先生や親だって「球児らしく」あることを求めていた。「今」だけを見ていればよかった。

 

 ところが引退してからは皆、手のひらを返したように「大人になれ」「将来のことを考えろ」と言う。

 その矛盾を受け入れられなかった陸人は、上りかけていた梯子を外されたような気がして、進路調査書に何も書くことができなかった。


 最後の夏をベンチの中で記録員として終えてからずっと、大人になるべきだと己に言い聞かせてきた。

 だが心の奥底で煮えたぎる納得できない、やり場のない気持ちは丈一が感じているものと何も変わらないのではないかと思えてくる。

 

 皆が口にする「大人」という言葉が欺瞞にしか思えず、何かを失って隙間の空いた心を抱いたまま、夏の終わりを彷徨っている。

 結局は、丈一と陸人は同類だった。


 陸人は白紙の進路調査書をじっと見つめながら、これからどうすべきかの自問自答を繰り返していた。


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