第2話 落胆

 丈一は学校の校門を出てから、押し殺していた感情を吐き出すように溜め息をつく。

 陽は既に沈み始めていた。


 海の方から吹く潮風が丈一のそばを吹き抜ける。

 潮の香りを運ぶ夕暮れ時の冷たい浜風は、疲れた丈一の背に追い打ちをかけた。

 

 ここ数時間は丈一の気持ちがついていかないほど、状況が変化していった。


 後から聞いたことだが、丈一はサッカーコートから飛んできたフリーキックが頭に直撃し、脳震盪で数分意識を失ってしまった。

 そして意識が戻った後に保健室へ連れられ、サッカー部に謝られながら校医に様子を見てもらった。


 それまではまだ、良かった。

 だが校医の安静にしておけば問題がないという判断が下ると、今度は事件を知った立石監督のお叱りが待ち受けていたというわけだ。


「よっ」

「うわっ」


 不意に声をかけられた丈一は、反射で一歩身を退く。

 声の主が誰なのか、すぐにわかった。

 丈一にいたずらを仕掛けてくるような男は一人しかいない。


「なんだ、陸人かよ。つまんな」


 丈一とは小学校から同じ学校に通う仲の、腐れ縁の幼馴染。

 そして、かつては丈一とバッテリーを組んでいた男だった。

 

「慰めに来てやったのに、つれねえなぁ」

「いらねー」

 

 二人は勝手知ったる仲であることを示すように、校門前のガードレールに腰を預けながら軽口を叩き合う。

 敷地の広いスポーツ名門校らしく、岩東学院高校は海沿いの田舎に位置している。

 故に帰りのバスの便数も少ない。

 

 乗るバスこそ違ったが、二人はどちらかのバスが来るまで校門の前で馬鹿話をして時間を潰したものだった。

 二年の春に丈一が怪我をするまでは。


「てか、今日土曜だろ。休みじゃねーの」

「やっぱ気になってさ、散歩のついでにこっそり覗きにな」

「はァ? 来てたのかよ!」

「痛ッて!」


 丈一は陸人の脇腹を強めに小突いた。

 予想外に肘が強く入ったらしく、陸人は右脇腹を痛そうに抑える。


「お前やりすぎ」

「何で来てくれなかったんだよ」

 

 当然の疑問だった。

 

 大輔に勝負を吹っ掛けるにあたり、丈一は捕手役を陸人に依頼していた。

 丈一が怪我をするまでは、陸人とバッテリーを組んで岩東学院のエースを張っていた。


 ゆえに丈一にとって、陸人が自分の球を受けるのは当然のことだった。

 しかし陸人は頼みを聞き入れてはくれなかった。


「言ったろ。ベンチ入りもできずに記録員で引退した奴がデカい面できねぇって」


 陸人はあくまでおどけた調子を崩さず肩をすくめた。

 丈一は何か言い返そうと言葉を探した。

 だが結局、何も言い返せない。


「元気ないな。こりゃ相当監督に怒られたか?」


 消沈した様子の丈一を見かねたのか、陸人の方から話題を振ってくる。


「なんて言われた?」

「もうすぐ成人なんだから、いい加減大人になれってよ」

「やば、めっちゃ言いそう」


 陸人は納得した様子で含み笑いを浮かべた。3年生は皆、今年度中に成人年齢である18歳となる。

 それにかこつけて「大人になれ」とは、立石監督がいかにも口にしそうな叱責の言葉だ。

 

「まあ、引退したくせに一方的に天才様に挑むなんて、確かにやることガキだな」

「うるせー」


 丈一は不機嫌そうに俯きながら、足元の小石を蹴飛ばす。

 小石はアスファルトの上を力なく転がった。


 冗談では憂いの晴れない丈一を見て、陸人は笑顔を引っ込める。

 代わりとばかりに、次は率直なる疑問を投げかけてきた。

 

「てかお前、なんで大輔に勝負吹っ掛けたんだ?」


 丈一はすぐには問いに答えず、俯きながら間をとった。

 心の中で、陸人なら理解してくれるかもしれないと期待していたからだ。


 だが陸人の顔を見ると、その見込みはないことがわかる。

 丈一は曇った表情のまま説明するしかなかった。


「覚えてるか、あの紅白戦のこと」

「紅白戦って、二年の春か?」

「ああ」


 丈一の言葉を引き金に、陸人は記憶を思い起こしていた。

 

「お前が大輔に打たれて負けたアレか」

「サヨナラスリーランをな」


 二人が2年生だった頃の、春の紅白戦。

 白組の投手として登板した大輔は入部したての新入生だった。


 だが蓋を開けてみれば、投げては150キロ超の剛球で紅組の上級生たちを手玉に取り、打っては毎打席ヒットを放って実力を見せつける結果となった。

 それでも後続を断ち無失点に抑えていた丈一だったが、最終回ツーアウト一、二塁の場面でホームランを打たれて敗北したのだ。


「お前、アレからおかしくなったよな」

「ああ」


 丈一は苦悶の表情で小さく頷く。


 大輔からエースの座を守りたい気持ちが先走り、丈一は当時から肘を痛めていた。

 そして痛みを隠して肘をかばう投げ方になった結果、そのしわ寄せもまた怪我となって全身に波及してしまった。

 結局、大輔が一年生からエースと四番の地位に収まる結果となった。

 

「だからあの時の悔しさを晴らそうってな。だから一年半かけて身体もフォームも全部戻した」


 丈一の瞳の奥には燃え尽きることも燃え上がることもできない火が、後悔となってくすぶっていた。

 そしてその後悔を晴らす機会も今日、泡と消えた。


「あいつにはまだ『あの球』を投げてない」


 丈一がぽつりと小声で言った。

 陸人は「あの球」が何を意味するのかは、すぐにわかったようだ。


「ああ、あれか」


 丈一には最も得意としている決め球があった。

 あの球なら必ず大輔を打ち取れる。丈一にはその自負があった。だからこそ勝負を挑んだ。

 だが今回も投げることはできなかった。それもまた大きな後悔となっていた。


「確かに右打者には有効だが、大輔相手だとどうだかな」


 陸人は丈一の気持ちとは裏腹に、気のない言葉を返す。

 丈一にはそれがなんとも歯がゆく、腹立たしかった。


「なあ陸人。お前は悔しくないのかよ。あの紅白戦でおかしくなったのは、お前もだろ」


 ついに丈一の双眸は、元相棒に刺すような視線を送る。

 紅白戦を境に陸人の歯車が狂ったのもまた、事実だった。


 相棒を怪我で失った陸人も、つられるようにして力を発揮できなくなってしまった。

 そして、レギュラーの地位を失った。


 それからは背番号すら貰えないところまで落ちぶれ、最後の夏は辛うじて記録員としてベンチ入りするに留まった。

 野球の実力とは関係ない、要領と頭の良さを買われてのことだった。


「確かにそうだ。けど今更そんなこと蒸し返しても何にもならないだろ」

 

 陸人が少し黙ってから口にしたのは、絞り出すような力のない返答。


「俺たちが望まなくても時は経つし、納得できなくても納得しなきゃいけないこともある。なっちまうんだよ。監督の言う大人ってやつに」


 陸人らしくない、低いトーンの声だった。


「そうか」


 丈一は落胆の色を見せるかのように視線を落とす。

 頼みを断りながらもグラウンドに来てくれていたのなら、もしかしたら陸人も自分と同じ感情を抱いているのかもしれないと、そう思った。


 だが、違った。

 丈一と陸人、二人の認識の間には深い溝が一本筋のように走っていたのだ。


 その後、丈一が帰りのバスに乗るまで、二人は一言も発さないままだった。


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