クロスファイヤー
安食ねる
第1話 消えない残り火
スパイクを履いた脚を動かして、プレートにかかった土を払う。
それから右手にはめたグローブで半袖の黒いトレーニングウェアの肩を叩き、砂埃を落とした。
狭い三塁側ファウルゾーンの向こうでは、今夏新設されたサッカーコートで、サッカー部が声を出しながらの練習をしている。
久々にマウンドの上に立つ三鷹丈一には見慣れぬ光景だ。
丈一はスパイクの歯をプレートにかけ、胸元にグローブをもってくる。
左投手であるため、三塁側を背にして立つ格好だ。サッカー部の連中を視界の外に追いやれるのは幸いだった。
そのまま顎を引き、右打席に立つ打者を睨みつける。
「準備いいですよ、先輩」
対戦相手の結城大輔は、抑揚のない声で合図を送る。表情はマウンド上からは伺い知れない。
だが上背のある体格も相まって、懐の深い構えは「どこにどんな球が来ても打つ」という自信を漂わせる。
投打でプロが注目する、超高校級天才球児の肩書きは伊達ではない。
その大輔に、とっくに引退した3年生の身で練習開始前に押しかけて一打席勝負を挑んでいるのだ。
こうして相対するからにはどうあっても負けられない。
丈一は肘を曲げ伸ばしながら、可動域を確かめる。
痛みや違和感はない。投球への不安は完全に払拭できていた。
怪我をしてから投げられるようになるまで一年以上の時を要した。
丈一にとって皮肉だったのは、エースだった頃の力を取り戻す頃には、もう既に岩東学院の最後の夏が終わっていたことだった。
結果、ボールを握ることすらないまま野球部を引退することになってしまった。
捕手とサインを交換する。
丈一の投げたいボールとサインが合わず、一度、二度と首を振る。
「あいつだったらな」
丈一は小さく舌打ちをし、かつての相棒を思い浮かべる。
本間陸人が捕手を務めていた時は、いつも一発で投げる球が決まったものだった。
だが今は違う。普段大輔の球を受けている二年生を、半ば強引に座らせているに過ぎない。
ようやくサインが決まり、一球目。
丈一は左半身を引きながら右足を踏み込む。
体重移動の溜めのあと、腰がぐるりと前を向く。
身体の回転に連動して、大きなテイクバックで左腕が横から飛び出す。
身体の横回転が遠心力を生みボールに力を伝える投法、サイドスロー。
一球目は大輔の内角低めに飛び込んだ。
審判役を任された部員はボールの判定を下す。
途中まで描いた白球の軌道はど真ん中だったが、手前で大きな横変化がかかり大輔の膝付近に突き刺さっていた。
大輔はスライダーに対してぴくりとも動かない。視線の動きもない。瞬きひとつすらもない。
それが丈一の目には不気味に映る。
初球を見逃す気だったのか、ボール球と見極められたのか。
威圧感を放つ大輔の構えは、一切の意図を丈一に悟らせない。
丈一は忍び寄る不安を断ち切るかのように、頬を伝う汗を拭う。
大輔は誰からも天才と認められる男だ。並外れた実力は、最初からわかっている。
丈一は臆せず左腕を振り抜いて二球目を投げた。だが大輔はまたも悠然とボールを見逃す。
審判は一瞬迷った後ストライクの判定を下した。
ボールゾーンからストライクゾーンに切り込む外角低めのスライダー。
だが大輔はまたも微動だにしない。
ストライクを取ってもまるで安心できない。こうも続けて見逃されるのがひどく不気味だからだ。
「そうかよ」
丈一は返球を受けながら、孤独なマウンドの上で小さく呟いた。
それから大きく息をついて呼吸を整える。
ごまかしが通用するような相手ではない。
ならば、どうするか。
「あの球しかない」
丈一はグローブで口元を隠しながら目を細め、ストライクゾーンの一点に焦点を合わせた。
答えは決まっている。勇気を持って一番自信のあるボールを投げるしかない。
何度か首を振ったあと、ようやくサインが決まる。
その瞬間から、丈一の意識は投げるべき一点へと収束してゆく。
コースを間違えるわけにはいかない緊張感。
溢れ出る感情、頭蓋の奥からぞわりと湧き出てくるアドレナリン。
あらゆる全て飲み込み、自らを死の淵ぎりぎりへと投げ出してゆかねばならない。
丈一は右足を踏み込む。
腰を捻り遠心力を利かせ、力を込めたボールを投げようとする。
だが、投げようとしても、腕が出てこない。
「嘘だろ」
突如として、右側頭部にバットでぶん殴られたような衝撃が走ったのだ。
丈一は右足を踏み込んだまま、一塁側へとつんのめる。
視界が衝撃で一瞬ブレ、徐々に朧に霞む。
サッカーボールが丈一の目の前をスローがかかったように転々とする。
遠くで誰かが叫んでいるのが聞こえる。鈍い痛みが遅れてやってくる。
「また俺は、投げ切れないってのか」
丈一はついに地に倒れつつある己を認識した。
だがそれもつかの間のことだった。
地面に完全に崩れ落ちる頃には、丈一の意識と視界は黒々と塗りつぶされていた。
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