こんな日々がずっと続くと思ってた
葉桜真琴
終わらない一日
ヴ、ヴ、ヴ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ……。
僕は、アラームをかけていたスマホのバイブ音で目が覚めた。
時間を見る。午後1時。マズい、あろうことか僕はアラームを1時間も鳴らしっぱなしにしながら眠ってしまっていたらしい。今日は昼からバイトがあるのに。
顔を洗い、歯を磨き、冷蔵庫に入れてある食パンを――あれ、ない。もう全部食べたんだっけ。一枚、残っていたはずなんだけど……。まぁ朝飯は駅の売店で買えばいい。
身支度を整え、リュックを背負ってワンルームの見送る者のいない部屋に別れを告げる。
バイト先は少し電車に乗ったところにあるカラオケボックスだ。
売店で買ったあんパンを駅のプラットフォームで平らげ、そそくさと電車に乗る。
少し呼吸を整えたところで、リュックから文庫本を取り出す。
ドグラ・マグラ。
バイト先の桜井アキさんから貸してもらった小説。桜井さんは一つ年上の文学部に通っている女性で、僕が小説を読むのが好きだと話したら彼女のオススメの本を貸してくれるようになった。
このドグラ・マグラ、冒頭は精神病棟を舞台としたミステリといった感じがして面白かったのだが、中盤の資料集のようなところに差し掛かった辺りでギブアップしそうになった。特にキチガイ地獄外道祭文のくだりはチャカポコチャカポコスチャラカチャカポコという木魚を叩く文句が延々と続いて、音のイメージと相まって本当に眠くなる。
僕はこの地獄を抜けるまであと少しというところで足踏みしていた。
栞のところで本を開くと、この数日間見慣れていた文句がなく、次の章に移っていた。あれ? 問題のところはとっくに抜けたのだろうか。もしかすると栞を間違えたところに挿してしまったのかもしれない。
そんなことでまごついているうちに、バイト先の最寄り駅についてしまった。息を切らしながらバイト先までの道を走る。
「すみません! 遅れました!」
「あれ? 吉田君、今日シフトだっけ? まぁいいや! 春休みで学生が多いからさ! 給料ちゃんと出すから、手貸してよ!」
そう言って出迎えてくれたのは店長だ。こういう懐の広い気風が好きで、僕はこのバイトを続けている。
手短に制服に着替え、レジに立つ。ほどなくして高校生のカップルがやってきた。お互いのことをつんつんとつつきながら、どこか姿の見えない誰かからこそこそと逃げ回っているかのような風情の、非常に見覚えのある二人だ。
「この枠の中の記載をお願いします」
僕がそう言うと、少年の方がいそいそと記入を始めた。
「ご利用時間は二時間ですね。ドリンクバーとワンドリンクどちらになさいますか?」
「ワンドリンク、コーラ二つ」
「機種はどうなさいますか?」
聞く必要はないだろうが、規則なので一応聞いている。
「え、えーっと」
少年がまごついていると、少女がすかさず、「DAMでお願いします」と助け船を出した。
「ドリンクは後でお持ちします。一二七号室になりますので角を曲がったところになります」
ドリンクをさっきの高校生カップルが入った部屋に持っていった後も、レジには何組かの学生グループがやってきた。それらの相手が一通り済んだ後、一二七号室――さっきの高校生カップルを通した部屋だ――の監視カメラを見遣った。
案の定、行為の真っ最中だった。
いつ電話を入れようかと考えると、後ろから声がした。
「どういう神経してるのかな」
この声は、桜井さんだ。黒い丸縁の眼鏡をかけた、知的な雰囲気のする女性だ。どこか、頬が上気しているような熱っぽい感じがして、それがどこか色っぽい。
「どうも、お疲れ様です。ホント、こいつら昨日も来てラブホ代わりにしてるんですよ」
「えっ、あぁ、昨日も来てたっけ。うん……そうだね、懲りないよね」
「そうだ、貸してもらってるドグラ・マグラ、もうちょい貸したままにしてください!」
「まだ中盤抜けてないの?」
「あー……チャカポコが抜けなくて」
「……そうなんだ。気にしてないなら、別に焦らなくていいから」
妙な言い回しが引っ掛かる。
「借りておいて言うのもアレですけど、特に気にしてることはないですよ」
「そう。感想、楽しみにしてるからね」
「はい! あ、そろそろ掃除行きますね」
桜井さんはとてもいい
谷崎潤一郎、富美子の足。坂口安吾、桜の森の満開の下。そして夢野久作、瓶詰の地獄に始まりドグラ・マグラ。正直、小説の好みに癖がありすぎるだろうと思ったけれど、そこも魅力だと思ったし、何より彼女が好きなものが自分の脳の糧になるという事実がたまらなく嬉しかった。
桜井さんと付き合えたらもっと本の話が出来るのと思うとワクワクする。
けれど、告白の勇気が出ない。そうやって、一年が経ってしまった。だから決めた。ドグラ・マグラを読み終わったら、デートに誘ってみようって。
仕事を淡々とこなしているうち、シフト終わりの時間になった。スタッフルームで制服から着替えていると、外から足音が聞こえてきた。
「うーっす」
気だるげな声であいさつをしてきたのは、少し前に入ってきたチャラ男さんだ。金髪の色黒、ガテン系のバイトと掛け持ちしているのではないかと思われる、がっしりとした体形。さっきまで喫煙室で燻製にでもされていたのかと思うほどにキツい、妙に甘ったるいタバコの臭い。
年齢は、よく分からない。僕や桜井さんより年上なのは間違いなさそうではある。
チャラ男さんは隣のロッカーに手持ちのクラッチバッグを投げ込むように入れると、やはり気だるげな所作で制服に着替えだした。
「あぁ、ヨシダくんじゃん。もう帰り?」
「そうなんですよ。今日、学生多いから大変ですよ」
「ダリぃ~。ちゃんアキに助けてもらうか」
ちゃんアキ、と呼んでいるのは桜井さんのことだ。他の女性スタッフのことも似たような感じで下の名前で呼んでいるみたいだから、脳幹に染みついた本能みたいなものなのだろう。
噂だと前に居酒屋のバイトをしていたがそこでは人間関係の諍いを起こして辞めさせられたらしい、と聞いたことがある。まさかそんなことがあった直後でこの店でも似たようなことをしないと思うが、このチャラついた感じは死にでもしない限り治らないんだろうなとも思う。
「そーいやさぁ、この間送った動画、まだ見てないの?」
「動画?」
「忘れちまったのかよ~送り甲斐がないな~。この間、俺秘蔵の映像を見せてやるって送ったじゃんかよ」
「あ、家事やってるうちに忘れちゃったのかな。見ておきますね」
「シクヨロ! ちゃんアキの様子見に行くか~。ちゃんと着けてるか、確認しないとな」
そう言って、チャラ男さんは立ち去って言った。
従業員用の通用口を出る直前、桜井さんに会った。さっき顔を合わせた時よりも心なしか顔を赤くして、瞳も潤んでいる気がする。
「んっ、はぁ……吉田、くん、どうしたの……?」
「体調、大丈夫ですか? 熱でもあるんじゃないですか?」
「んあっ、き、気のせいよ。無駄に厚着してきちゃったから、あ、ん、暑くて。心配いらないから……」
どう見ても普通じゃないけど、本人が大丈夫だと言っている以上深く追求するのは野暮というものだろう。僕は別れの挨拶もほどほどに帰路に就いた。
『あっ♡ んっ、あっ、もっと♡ もっと突いて♡』
夕食を済ませ、部屋に帰った僕はチャラ男さんが送ってきた動画を見ることにした。サムネイルが設定されていないその動画は、開くや否やあられもなく素肌の背中を晒した女性の嬌声から始まった。
いわゆる、ハメ撮りというやつだろうか。こんなものを送り付けてくるなんて、あの人も趣味が悪い。動画を閉じようかと思ったところで、ふと気づく。
この声、聞き覚えがある。
男が軽薄な声で言う。
『くくっ、すっかりハマっちまったな』
『だってぇ、弱いとこにピッタリ当たるからぁ♡ そこ、あっ』
女の背中が小刻みに震え始めるのと共に、肉と肉を打ち付け合う音が止む。
『なんで止めちゃうの……? 今イキそうだったのに』
『自分だけ気持ちよくなろうなんてずりぃじゃん。あんなにお堅い雰囲気だったのになぁ。どうして欲しいんだ?』
『えぇ~……それはぁ……』
再び画面が揺れ始める。
『言わなきゃ続きやんねーぞ』
『奥、もっと突いてほしいですっ!』
『それだけか?』
『後ろからぁ……』
『あん?』
『逞しいお○んぽ様で後ろからメチャクチャに犯してください!』
『ほいよ』
『あっ、あ”~ッ!♡』
『これが欲しかったのか?』
『そうっ! そうでずっ! あ”、あ”っ、あ”~ッ! イ”グッ~!♡』
制御を失ったかのように女の背中が小刻みに震え続ける。その様を映しながら、男が語る。
『吉田くん、見てる~? ちゃんアキに感謝しろよな。俺は別に撮影なんか興味ないって言ったのに、ちゃんアキが送りたいなんて言うから撮ってやったんだぜ?』
「チャラ男!?」
今の言葉が信じられない僕にさらに追い打ちをかけるように、男の手が先ほどまで震えていた女の肩を掴み、仰向けにさせる。
思わず、息を吞む。
今まで見たことのないほど
『自分のハメ撮り撮らせてバイト仲間に送りつけようなんでとんだ変態だよな。どんな神経してんだ?』
桜井さんの虚ろだった視線がカメラと合う。
『はぁっ、吉田くんの、せいなんだからね。ずっと、はぁ……思わせぶりなことしておいて、ご飯にも誘ってくれないからぁ……チャラ男さんが相談に乗ってくれるって言うから私、あっ♡』
桜井さんの言葉は、彼女自らの嬌声にかき消された。どうやら、チャラ男が動いたらしい。
『やめて♡ まだっ、話してるっ、途中、だからぁ、あんっ、またイクっ♡』
やや間を置いて桜井さんは続ける。
『本の話できる後輩が出来て、あんっ、ちゃんと本読んでくれて、んぅっ、嬉しかったのに、そんなに魅力、なかったかなぁ』
『安心しろよ。アキはメチャクチャエロい身体してるって』
『なんにもしてくれないから私、エッチが上手いしか取り柄のないチャラ男さんのメスになっちゃった♡』
『よく言うぜ! ローター入れながら接客してる変態のくせに』
『だってぇ……♡ 入れないとシてくれないって言うからぁ……♡』
『今までヤッたこと、ヨシダくんに言ってみな?』
『やだぁ……恥ずかしい……』
『負け犬に自分からハメ撮り送らせといてこれ以上何が恥ずかしいんだよマゾ豚! もっとしてほしいなら言ってみろ!』
桜井さんの柔らかそうな乳房を、チャラ男が思い切り平手で打つ。痛そうな音とは裏腹に、桜井さんは恍惚とした表情で震える。
『余韻に浸ってないで続けてくれるか?』
『あっ、バイト先のトイレで全裸で自撮りしました! ドライブに行った先の駐車場で青姦もしましたぁ! んあっ、チャラ男さんに言われてぇ、自分でシてる動画を学生証付きで掲示板に上げましたぁッ!』
『ヨシダくん、マジで同情するわ。こんなド変態のマゾに先輩風吹かされてたなんてな~』
画角が変わり、桜井さんを正面から仰ぎ見るような画面になった。いわゆる騎乗位の姿勢だ。桜井さんはピンク色に上気した豊かな胸を卑猥に揺らしながら、小刻みに嬌声を上げている。チャラ男の手が桜井さんの胸を荒々しく揉みしだくと、桜井さんは一層切ない声を上げる。
『サボるな。アキ、ちゃんと脚使って腰動かせよ』
『はい♡』
『寄りかかってきたら乳ビンタだからな』
『いやぁっ、痛くされるのやだぁ♡』
『体重かけられると重てーんだよ、分かるか?』
『ひどぉい、私だって女の子なのにぃ』
太ももを軽く平手ではたいているのか、軽い音が響く。
『セッ○スできて嬉しいか?』
『はいっ、嬉しいですっ、ご飯に誘ってもくれない吉田くんより、チャラ男さんのセフレになって嬉しいですッ♡ あっ、いいとこ――』
再び桜井さんが気をやりそうになるところで、チャラ男の平手が桜井さんの胸を張る。
『あぁんっ♡』
桜井さんはエビ反りになる形で身体をビクビクと揺らした。
『おぉー、締まった。乳にビンタされて甘イキするとか本物のマゾだな。アキ、お前は俺のセフレか? 訂正が必要だよな。せっかくだからヨシダくんに正しい自己紹介をしような』
桜井さんは放心状態から立ち戻り、にへら、と笑って言葉を紡ぐ。
『桜井アキはぁっ、チャラ男さんのおち○ぽ様のケース、オナホですっ♡ オナホのくせに重くてごめんなさい♡ 人間の言葉で喋ってごめんなさぁい♡』
チャラ男は桜井さんの乳首をつねって言う。
『まー許してやるよ。オナホにはこんなエロい乳と顔はついてねーしローターつけても面白くねえからな。で、全自動オナホのアキはどうするんだ?』
『あぁん……ひどい……あ”っ、ちくび、もっといぢめて♡ うぅ、イ”ッグぅ……あぇ……全自動オナホのアキは誠心誠意、あんっ、へこへこ腰振りで、ご奉仕しますっ! 繋がってるところ見てっ♡ へこへこ♡ へこへこ♡』
『ははっ、さすが全自動は違うな~』
桜井さんは下品に舌を垂らしながら、両手を頭の上に持ってきて何かの動物の真似をした状態でピストンを続ける。
『気持ちいいッ、ああんっ、おち○ぽのことしか考えられません♡ アキのオナホま○こに
ひとしきりの動作で絶頂に達した桜井さんは、呼吸を整えると、チャラ男の持ったスマホを手に取ると、セルフィーのようにして、左手でピースしながら言った。
『吉田くんッ♡ 私、桜井アキは、一日中セッ○スのことしか考えられない頭ドピンクのバカになっちゃいましたぁ♡ ご飯食べてる時も、授業受けてる時も、バイトしてる時も、チャラ男さんにおち○ぽハメてもらうことを考えて四六時中おま○こ濡らしてる全自動淫乱マゾオナホになっちゃったのっ♡』
外野から『ヨシダくんのせいだぞ~』と合いの手が入る。
『そうですっ、吉田くんのせいで私壊れちゃった♡ だから後悔してほしいの! チャラ男さんがハメてるおま○こも、揉んでるおっぱいも、んぅ、お尻も、吉田くんの好きにしてあげられたかもしれないのにッ、だから当てつけにハメ撮りを送ったの! 小説読んでるよりっ、チャラ男さんに抱いていただいている時間の方がずっと楽しいからぁん♡ 本、なんだっけ? 貸してたの、別に返さなくていいからぁッ♡ んあっ、気の済むまでシコシコしたら、私のこと、綺麗さっぱり忘れてねッ♡』
僕が見ているこれはなんなんだ?
さっきからずっと人の形をしただけの蕩けた肉が喋っている。
見ているだけで、見ているだけで、気が、頭が、脳が、おかしくなりそうだ。
肉が言う。
『好きだったよ、吉田くん。でも、んぅ、んあっ♡ もう、チャラ男さんのおち○ぽ様がずっと好きッ! ア”、お”っ、うっ、んっ、あ~ッ♡』
脳が、こ な ごな に な る。
ひどい、こんなのはあんまりだ。
今日という日が、なかったことになればいいのに。
「ア!」
なにかが切れる、そんな感触がした。
そして僕の意識は、無明の闇に溶けていった。
ヴ、ヴ、ヴ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ……。
僕は、アラームをかけていたスマホのバイブ音で目が覚めた。
時間を見る。午後1時。マズい、あろうことか僕はアラームを1時間も鳴らしっぱなしにしながら眠ってしまっていたらしい。今日は昼からバイトがあるのに――。
こんな日々がずっと続くと思ってた 葉桜真琴 @haza_9ra
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