遺言書

あべせい

遺言書



「おやじ、具合はどうだ。手術は成功したぞ」

「長男の京太郎か。おまえ、仕事はどうしたンだ?」

「仕事? 時間貸し駐車場の小銭をかき集める、セコイ仕事のことか?」

「京太郎、セコイとは何だ! 6つの時間貸し駐車場の売り上げ金回収は、立派な仕事だ。おまえの一家6人が食べていけるのは、その仕事があるからだろうが」

「駐車場の経営を任されているのなら、セコイなんて言わないよ。おれがもらっているのは、売り上げ金のたった3%だよ」

「イヤなら、やめろ! イタッ、タッ、タタタッ……」

「イヤなんて言ってないだろうが。そんな大声を出すと、縫い合わせた傷口が開くゾ。大人しくしてなきゃな。それより、おやじ、遺言書はもう書いたのか」

「遺言書!? 京太郎、わしはいま病院のベッドの上だ。しかも、ガンの大手術を終えたばかり。その父親を捕まえて、『遺言書は書いたのか』! いったい、わしはだれのために遺言書を書くというンだ」

「おれたち3人のために決まっているだろう。おやじには息子が3人もいるンだ。死んだお袋はいつも言っていた。『お父さん、かわいい息子たちが困らないように、充分なことをしてあげてね』って。覚えているだろう」

「バカやろう。あいつが甘やかせたから、おまえたちのような、親の金ばかりを当てにするろくでなしの息子ができたンだ」

「おやじ、よく考えてみろ。150億円もの資産をどうするンだ。おれたち兄弟が血を血で洗う争いになってもいいっていうつもりか」

「おまえ、わしの財産が150億あるって、なんで知っている。いつ調べたンだ」

「そんなもの調べなくても、見当はつく。都内の一等地に8棟の貸しビル、5棟の賃貸マンション、それに貸し駐車場。預貯金だって、脱税している隠し口座を含めれば、数億は下らない。150億というのは、少なめに見積もった額だ」

「いったい、どんな遺言書があればおまえは満足するンだ」

「おれは蔵持家の長男だ。長男が一番多く相続するのが世間の常識。その常識を弁えた遺言書なら良しとしよう」

「言ってみろ。その常識というのを」

「そうだな。法定相続なら、蔵持家は3人兄弟だから3等分になるが、おれは長男だから、本当は5分4は欲しいところだが、2人の弟も金がいるだろう。2分の1、いや、4分の3で我慢するか」

「いまどき長男風を吹かせて世間が通用するのか。長男のおまえが弟よりたくさん相続する根拠って何だ」

「わからないのか。いまだってこうして病院の中だ。おやじが寝たきりになったら、だれが介護するンだ。長男だろうが。確かに、金を出せば介護のプロが来て、それなりの介護はしてもらえるだろう。しかし、かゆいところに手が届くような、思いやりのある介護なんて、期待できない。介護はやはり身内の手だ。その点、おれには出来た女房とこどもがいる。愛情のこもった、手厚い介護、その代償が4分の3だ。おやじ、決して高くはない」

「遺産を独り占めしようなんて、おまえはそれでも総領か」

「独り占めなんて言ってない。2人の弟には、4分の1、残すンだ」

「情けない。なんでこんなことになったンだ。帰れ。わしの財産はだれにもやらん。墓まで持っていく! 帰れ、帰れッー!」

「わかったよ。それだけ元気なら、当分、くたばる心配はないな。遺言書も書かずに死んだら、葬式は出してやらンからな」


「ユイ、そんなことをいわずに聞いてくれ。おまえの息子、もちろんわしの息子でもあるが、どこであんな風に捻じ曲がったのか、わしには全く見当がつかン。わしは、おまえが17、わしが27のとき結婚した。こどもがいたら生活できないと考えて、おまえが25になるまで、こどもを作らず馬車馬のように働いた。この世の中は不動産を持つものの天下だと思い、不動産屋に勤めると、土地を売って売って売りまくった。しかし、いくら働いても、ボーナスが少し上積みされるだけ、自分の稼ぎにはならない。で、小さいが不動産屋を開業して独立した。それが、いま、都内に8棟までふえた『蔵持ビル』の始まりだ」

「あなた、こどもは父親の背中を見て、育つンです。男の子はなおさらのこと。娘がいたら、少しは変わっていたでしょうが。あのとき、あの子が……」

「ユイ、それをいうな。ダ、ダレだ! 足下をさぐるやつは!」

「ぼくですよ。大次郎です」

「次男の大か。何をしている。わしはオムツなんか、つけておらんゾ!」

「オムツじゃありません。遺言書、遺言書です。遺言書を探しています」

「遺言書を探して、どうするつもりだ」

「お父さんが書いた遺言書に間違いがないか、チェックをしておこうと思いまして」

「おまえは医者だろうが。しかも、わしの主治医でもある。その主治医が患者の病床に近付き、遺言書を探す。格好のいいものじゃないだろうが」

「当然です。ですが、京兄さんが、遺言書の中身を知りたいというので、そこには目をつぶって、探しているわけです」

「どいつもこいつも。おまえはどんな遺言書を期待しているンだ」

「ぼくは次男ですから、京兄さん以上にいただこうなんて思っていません。京兄さんは恐らく遺産の半分は欲しいというでしょう。ですから、ぼくは、少し少なく8分の3ほど……」

「京が2分の1なら、おまえは8分の3! 待て、2人足すと、エェ、どうなる!」

「8分の7です」

「正気か。長男と次男で8分の7なら、三男はどうなる」

「8分の1ですね。三男は公務員ですから、お金はいらないでしょう」

「バカモン! そんな遺言書をわしが書くと思うのか。帰れ! わしの目の黒いうちは、例え遺言書を書いていたとしても、おまえたちの目に触れさせはせん。わかったら、消えろ!」

「お父さん。ぼくはあなたの息子です。そして主治医です。お父さんの健康を守る義務と責任があります」

「なにが健康だ。わしを殺す気か! わしは大手術を終えたばかりだ。ゆっくり休ませるのが、おまえの仕事だろうが」

「わかりましたよ。遺言書を書き上げたほうが、気持ちが落ち着いて、ゆっくり休めると思うのですが。親を思うこどもの気持ちが、わかっていただけないのですね。非常に残念です」


「ユイ、わしはもう生きているのがイヤになった。いったい、何のために生きてきたのか。おまえは、わしを残して、いいときにあの世に逝った。もう、あれから20年。金はできた。しかし、家族はバラバラだ。なんでこんなことになったのか。もしも、あのとき……ダレだ! ドアに聞き耳を立てているやつは!」

「三男の名三郎だよ」

「警視庁の警視が、盗み聞きか。ちっとは、恥を知れ!」

「盗み聞きなんか、じゃない。おやじがもし寝ていたら、起こすのは悪いから、そっとしてこのまま帰ろうと思って、中のようすをうかがっていただけだよ」

「それで、わしが死んでいるとでも思ったか」

「おやじの声がしたからな。ただ、ボソボソと話す声しか聞こえなかったから、何を言っているのか、内容まではわからなかったよ」

「おまえ、刑事だろう。本庁の警視まで昇進している優秀な刑事が、話の中身がわからなかった? そんなンじゃ、刑事失格だろうが。本当のことを言え!」

「そりゃ、少しはわかったさ。おやじが、死んだお袋に、詫び状を書いているのだろうと見当がついたから、あとは聞いても仕方ないと思った」

「詫び状なんかじゃない。思い出話だ。あいつにはいろいろ苦労をかけたから、振りかえっていたンだ」

「そんなものを書いて、どうするンだよ。棺桶の中に、一緒に入れて欲しいのか」

「そんなものとはなんだ。42にもなって結婚もできンやつに、夫婦の情がわかるか。悔しかったら、いい女を見つけて、結婚してみろ」

「おやじ、よくぞいった! おれが結婚しないのは、おやじを見ているからだ。まして、おれはデカだ。好きな女を、デカの女房なんかにしたくない。これがおやじにわかるか!」

「おまえは女を本気で好きになったことがない。かわいそうなやつだ」

「言ってやろう。お袋が亡くなったのは、おれが本庁の採用試験に受かった年だったから、いまから20年前になる。お袋の死因は、一応病死になっているが、あれはおかしい」

「なにがおかしいンだ。あいつは、若い頃から心臓が悪かった。心筋梗塞で入院したが、あのときが限界だったンだ。あの日、昼食をとってしばらくしたら、急な発作に襲われた」

「おやじ、そのときお袋のそばにいたのか」

「わしは仕事で……」

「お袋のそばにいたのは、だれだ」

「だれもいなかったと聞いている……」

「ウソをつけ。お袋の死後、あの日の面会簿を見た。お袋が亡くなったのは、午後3時5分。その少し前、午後2時31分にお袋を面会した人物がいる。お袋に最後に会った人間だ。おやじ、心当たりがあるだろう」

「い、いや、ない」

「言ってやろう。面会簿には、横川浜江となっていたが、あれは偽名だ。面会人を目撃した看護師らから人相、特徴を聞いてまわった結果、あの日お袋に面会したのは、佳家小夜だ」

「ウッ、ウゥ……」

「いまもおやじを陰から慕っている小夜さんだよ。おやじ、小夜さんから聞いていないのか。お袋の最期について。おれたち兄弟もお袋の死に目には会えなかった。小夜さんは何のためにお袋に会いに行ったンだ?」

「知らん。聞いてない」

「小夜さんが、お袋に面会したことは認めるンだな。おれはおやじが手術をするというので、昨日小夜さんに会ってきた。おやじがこのままあの世に行ったら、小夜さんも困るだろうと思ってだ」

「……」

「小夜さんはおれと同い年だ。ヘンに気を回すなよ。小夜さんはおやじが手術をすると知って、とても心配していた。そのとき、おれはお袋のことを思い出して、『20年前、お袋を見舞ったことがあるでしょう』と聞いた」

「いまさらそんなことを聞いて、どうしようというんだ」

「小夜さんは、偽名を使って面会したことを忘れたンだな。『はい』と答え、『一度、お会いしてお詫びしたかったので……』と言った。お袋は何も答えず、小夜さんの顔をじっと見つめたままだったそうだ。お袋の病状が急変したのは、小夜さんが病室を出た直後。おやじ、どう思う? おかしいだろう」

「何がおかしいンだ。小夜が何か、したというのか」

「そんなことは思わない。当時、小夜さんは22才の若い女性だ。自分の母親のような年齢の女性を見て、親しみが湧いただろうが、同時に同じ男を奪いあっている相手への憎しみから、侮蔑的なことばを浴びせたかも知れない。例え、ことばに出さなくても、病床で気弱になっているお袋には、若い小夜さんの勝ち誇ったような笑みだけでも、強烈な必殺パンチになったはずだ」

「ユイが、見舞いにきた小夜のせいで死んだと言いたいのか。バカも休み休み言うもンだ。小夜はそんな女じゃない。ユイが亡くなった後も20年もの間、何一つ小言を言わず日陰の身で来たンだぞ」

「それは、おれたちのような出来の悪い息子が、彼女を寄せ付けなかったからだ」

「わかった。おまえと話すことはもうない。これで、わしの気持ちは固まった。いいから、帰れ!」

「気持ちが固まった!? なんのことだ、おやじ」

「帰れ、帰れ!」

 ナースコールのボタンを押す。

「どいつもこいつも、ロクな話を持って来やせン」

 若い看護師が駆けて来る。

「蔵持さん、どうされました?」

「この面会人が、わしをイライラさせる。早く、帰してくれ。きょうは、もう面会はお断りだ」

 布団を頭からかぶる。

「名三郎さん……。こんにちは。いらっしてたんですか?」

「近くに用事があったので。立花さん、おやじの手術はうまくいったようですね」

「予想以上に。お父さんは、年齢よりお元気です。この分だと、2週間ほどで退院できそうです」

「おやじは運がいい。内視鏡手術が実用化された時代に生きて、幸運ですよ」

「名三郎さんは、入院なさったことはないンですか?」

「幸い。丈夫にできているようです」

「でも、この病院で、お父さまが入院なさる前に、時々、お見かけしていますが」

「それは、仕事柄、患者さんに聞き込みにくることがあるからです」

「警視庁の刑事さんですよね」

「はい」

「刑事さんのお仕事って、毎日お忙しいンでしょう?」

「それなりにですが、看護師さんほどじゃないです」

 ふとんの中から。

「名三郎、いい加減にしろよ。看護師を口説くンなら、外でやれ。わしは眠いンだ」

「おやじがああ言っていますから、立花さん、少しお時間があるようでしたら、地下の喫茶でコーヒーでもいかがですか?」

「ナースセンターに断ってから、すぐに参ります」


 とあるスナック。

「京兄さん、まァ一杯いきましょう」

「おれはあまり飲めないからな。少しだぞ」

「わかっています。あっ、兄さん、三郎が来ました。三郎、こっちだ」

「遅くなって、すいません。捜査会議が長引いて」

「じゃ、始めるか。大、まずおまえからだ」

「おやじの病状ですが、一昨日のオペで胃ガンは驚くほどきれいに摘出できました。発見が早かったですから、転移の心配はないでしょう」

「おやじは79才。頭はまだまだ耄碌していない。この分だとあと、10年はくたばらないか。うかうかしていると、こっちが先に逝く」

「しかし、兄さん、79という高齢ですから、いつなにがあってもおかしくない」

「三郎、おまえ、なにが言いたいンだ」

「待ってください。主治医としてのぼくの話を最後まで聞いてください」

「そうだな。それで、どうした」

「おやじはオペを受ける前、人間ドックに入りました。これまで検診を一度も受けずにきましたから、ほかにも悪いところがあれば一緒に治療しようということでやったのですが……」

「大、何か出たのか」

「京兄さん……」

「いますぐに治療が必要なものは胃ガン以外には見つかりませんでした。しかし、血圧が高く、冠状動脈が全体に細くなっています」

「それで……」

「おやじはときどき狭心痛を起こしているはずです」

「狭心痛? 狭心症のことか」

「お袋は心筋梗塞だったが、おやじもか。おれの心臓がよくないのは二親譲りってことか」

「三郎、おまえも心臓が気がかりなのか」

「京兄さんもですか」

「だから、早く遺産をもらって、いい思いをしておきたい。大、それでおやじの心臓はどれくらいもちそうだ」

「降圧剤と血管を拡張する薬を服用させていますので、いまのところ心配することはありません。しかし、強い心臓発作が起き、狭心症で突発的に死亡する例がありますから、注意は必要です」

「ということは、やはり遺言書は早く書かせなくてはいかんな。それから、仕事はやめて隠居する」

「京兄さん、その遺言書ですが、あまりせっつくと、遺産は小夜さんに行きますよ」

「あの女、まだおやじとツルンでいるのか」

「京兄さん、知らないンですか。彼女、昨日、おやじの見舞いに来ています。ぼくがおやじを診察して病室を出ようとしたら、廊下にいて、会釈されました」

「ということは、遺言書を書かせるより、早くおやじに死んでもらって、法律通り遺産を分配する、ってのが最も手堅いか……」

「三郎、おまえ、あの小夜と結婚する、なんてことはないだろうな。そうなると、おれたち兄弟はまずいことになる」

「大、それは本当か。そんな話、あるのか。三郎、どうなんだ!」

「京兄さんも、大兄さんも、冗談はやめてください」

「おれも大も女房持ちだ。独身はおまえだけ。おまえがいままで結婚しないできたのは、小夜がいたからなのか」

「三郎、おまえはいままで女の噂はいろいろあったが、みんな別れている。小夜とデキていたからなンだろう」

「三郎、おやじに遺言書を書かせたほうがいいと最初に言い出したのは、おまえだ。小夜に全財産を譲ると遺言書に書かせたら、おまえが一番得をする。そういう筋書きか」

「京兄さん、やられましたね。三郎は警視庁の警視ですよ。悪知恵には敵わない。それとも、いまから離婚して、小夜を口説くかな。京兄さん、どうです?」

「大、おまえはこどもがいないから、離婚もしやすいだろが、うちは4人もいるンだ。いくら金のためとはいえ、できンな」

「2人ともいい加減にしてください。ぼくと小夜がどうして結婚するンですか。第一、おやじがそのことを知ったら、小夜に全財産を遺すと書くわけがないでしょう。兄さんたちが、そのことをおやじに吹き込めば、いいわけだから」

「その手があったか。小夜が男狂いしていると、あることないこと、おやじにインプットする……」

「京兄さんは甘い。頑固なおやじが、そんな話を鵜呑みにしますか。よほど確かな証拠でも突き付けないと、信用しないですよ」

「うむ……」

 スナックのママが現れる。

「みなさん、どうされたンですか。盛りあがったり、沈んだり。きょうは、名三郎さんも。珍しいわね。さては、よくない相談ね」

「ママ、図星だよ。三郎に駐車違反をチャラにしてくれと頼んでいたところだ」

「あら、名三郎さん、そんな芸当できるの。だったら、わたしのスピード違反もお願いしようかしら」

「ママ、頼んだほうがいい。失礼、ちょっと電話をかけてくる」

「京さん、また電話ね。そんなに奥さん、怖いのかしら」

「ママ、京太郎とうまくいってンだろう?」

「大さん、うまくなんていわないで。あなたこそ、立花佳織って看護師さんとどうなの。この前、ダイヤのリング、贈るっていってたけど、成果はあったの?」

「シッ! 三郎のいるところで、その話はタブーだ。こいつ、デカなんだから、何に使われるか、知れやしない。女房に告げ口なんてことになったら」

「ごめんなさい。でも、名三郎さんって、そんな野暮じゃないでしょう?」

「ママ。京兄さんがママと毎月、熱海に行っていることだって、知らないから」

「三郎さん、あなたに、そんな情報を垂れ込ンでいるのは、だれ? このスナックの女の子は、女子大生のタケちゃんと、池袋のキャバクラから流れてきたシイちゃんの2人。どっちと寝たの?」

「そんなことしてないよ。情報源は明かせないけれど、ぼくにくる垂れこみは確かなものばかりだよ」

「わかったわ。これからは、名三郎さんには気をつけるようにするから。じゃ、ご退屈さま」

 ママ、別のテーブルへ。

「大兄さん、立花佳織はよしたほうがいい。彼女は兄さんに合わないよ」

「おまえ、佳織をなんで知ってンだ」

「この前、おやじの見舞いに行ったとき、彼女がおやじの病室の担当だったから、ちょっと話をしたんだ。彼女、若い医者の間で人気者らしいね」

「よくは知らない」

「彼女は、性格が明るくて、ルックスがいい。若い医者だけでなく、家庭持ちの医師まで、彼女のミツグくんになりたがっている。なのに、当人は」

「当の佳織はどうだというんだ」

「彼女、看護師の仕事をやめたいらしいよ。仕事がきつい割りに給与が少ない、って。それと、仕事に関係のない用事、例えば煙草を買って来いとか、忘れ物を取って来いとか、雑用を押しつける医師が多すぎるって。そうなのか、兄さん?」

「おれは、そういうことはしていない。しているやつはいるが」

「看護師は医者のセクハラとパワハラに泣かされているンだよ。兄さんも気をつけたほうがいい。どこで恨みをかっているかもしれないから」

「大に三郎、すまないがおれは帰る。下のチビが熱を出したらしいンだ。悪いが、この話はまたこんどということで」

 京、煙草とライターを掴み立ちあがる。

 ママが、

「京さん、もう帰っちゃうの。今夜は泊まっていく、っていったじゃない」

「ガキが熱を出したらしくて。あいつが右往左往している。きょうはまずい。明日、明日、またくるよ。ここの勘定、おれに付けておいて」

「京兄さんがいないと話をしてもつまらない。おれも帰る」

「大兄さん、ちょっと」

「なんだ?」

「これ、返してくれ、って」

 指輪を差し出す。

「これは、佳織に……おまえが頼まれたのか」

「こんな高価なものはいただけない、って」

「今頃、返されたって……」

「兄さん、彼女はプレゼントで転ぶような女じゃない。意外と古風なンだ」

「おまえ、あいつの何を知っているンだ。まァいい。あいつがダメなら、ほかに……」

「兄さん、それと小夜さんのことは、おれに任してくれるンだね」

「どうするつもりだ」

「どうもしない。ただ、小夜さんだって生活がある。おやじが死んだ後のことを考えてやらないと……」

「あの女はお袋を泣かせた女だゾ! あんな女、どうなってもかまうもンか。じゃな」

 大、立ちあがる。

「大さん、お帰りですか。また、いらしてね」

「ママ、三郎にはあまり近付かないほうがいい。あいつはやっぱりデカだ」

「お気をつけて。三郎さん、大さんを怒らせたみたい」

「ママ、兄弟って難しいね。お袋はいつも言っていた。『兄弟はこの世におまえたち3人だけなのだから。仲良くするのよ』って。でも、おれたち兄弟はみんな考え方が違う。ひとつにまとまらない」

「そんなものよ。でも、三郎さんたちは仲がいいほうよ。角突き合せて、ケンカばかりしている兄弟も、たくさん見ているから」

「ママ、話は変わるけれど、ひとりホステスをしたいという子がいるンだ。ここで使ってくれるかな」

「いくつ?」

「23。美人だよ。タネを明かすと、看護師なンだ。キャバクラやバーには紹介したくない。本当はホステスにはなって欲しくないンだけれど」

「このスナックは、20人ほどのお客さまで満卓になる小さなお店でしょう。駅から少し離れているから、呼び込みで入ってくださるお客さまは当てにできない。売り上げは女の子次第なのよ。だから、いい子なら、是非来て欲しいわ」

「面接してくれるンだね」

「いつでもいいわ。それと、さっきの垂れこみ屋、タケちゃんでしょう?」

「さすが、ママだ。捜査が早い。東京駅の新幹線ホームで目撃したといっていた。その日タケちゃんは、名古屋に用事があったンだけれど、同じ列車に乗ったら、ママたちは熱海で降りたって」

「天網恢恢ね。タケちゃん、今月でやめたいと言っているの。引き留めているンだけれど、その看護師さんがきてくれると助かるわ」

「タケちゃんのことだけど、告げ口したと思わないで欲しい。タケちゃんが警察官になりたい、っていうからこの前から相談に乗っていたンだ。彼女、実家は名古屋だけれど、おやじさんが体調を崩したから、できるだけそばにいたいって。それで水商売やめて、堅実な公務員になりたいらしい。年齢もまだ22だから、間に合う」

「その話のなかで、熱海の目撃談が出たってわけ? まァ、許してあげるか」

「エッ?」

「あなた、どうしてそんなにモテるの?」

「ママ、そんなに見ないでくれよ。おれには、どす黒い過去があるンだってか。ハァッ、ハッハ、ハハハ」


「おやじ、寝ていなくていいのか」

「三郎か。い、いや、明日退院だからな、ちょっと足腰を鍛えようと……」

「そうじゃないだろう。デカの前で、ウソをつくもンじゃない」

 三郎、窓際に近寄り、

「小夜さんのお見送りだな。まだ、手を振っているよ。おやじ、いいのか」

「いいンだ。小夜は別れを言いに来たんだ」

「やはり、そうなるのか。おれたちが彼女を認めなかったからな」

「小夜にはマンション1棟をやるつもりだ。文句は言うな。京にも大にも言っておけ。わしがいなくなっても、家賃収入で食っていけるだろう。明日、退院したら手続きをする」

「京兄さんが気にしている遺言書は?」

「遺言書は書かン。絶対にな。長男にほとんどを遺すなんてことにしたら、大も三郎も、黙っちゃいないだろう」

「おやじ、考えたな。人間、どんなに威張っていても、年を取ればだれかの世話になる。こんどの手術で、おやじもそれに気付かされた。となると、小夜さんか。そんなことはできない。女房にしていればよかったが、いまさらできない。で、京兄さんと大兄さん、それとおれにお鉢が廻って来た」

「言いたいように言え。わしは知らん」

「京兄さんと大兄さんには、奥さんがいる。おやじの介護ということになれば、金さえ出せばいくらでも、いたせりつくせりの施設に入ることはできる。しかし、それでは味気ない。時々は身内にきてもらって、世間話もして、世話を焼いてもらいたい。おれたち3人の息子が、どう分担しておやじをみるのか、それはまだわからないが、おれたちに競争させようというのだな」

「こどもが親の面倒をみるのは、当然のことだ」

「兄さんたちはいいが、おれは独りものだ。気難しいおやじにつきあうのは……」

「なんだ? 財産は欲しくないのか。そんなことを言っていると、おまえを外した遺言書を書くゾ」

「おやじ、そろそろ本当のことを言ったらどうだ」

「なにッ!?」

「遺言書は計3通、書いただろう」

「おまえはなんというやつだ」

「相続の額をそれぞれ異なる3通の遺言書を書き上げた。日付を記入していないから、本物ではないが、おやじの字で日付を書けば、どれも本物として通用するものだ」

「看護師の立花佳織だな。垂れ込み屋は……」

「そんなことはどうでもいいが、その遺言書は盗まれないようにしろよ。3通とも、京兄さんにも大兄さんにも都合のよくないものだろうから」

「見ないで、なんで、わかる?」

「2人が懸命に探しているからだ」

「三郎、おまえにだって不都合な遺言書だぞ」

「だろうな。おれは遺留分で十分だ」

「おまえ、遺言書がどこに隠しているか、知っているのか!」

「本庁のデカが、その程度の推理ができないで務まるか」

「どこに隠している?」

「おれは、さきほど、この窓から、病院を出ていく小夜さんを見て、手を振ったが、そのとき小夜さんはどうしたと思う?」

「ゲェッ」

「左の手の平を軽く胸の前に当てて、頷いてみせたよ」

「おまえ、小夜といつから……いつからだ!」

「おやじ、小夜さんは女だ。女らしい幸せを掴んで、何が悪い」

「小夜が別れたいと言ったのは、おまえのことがあったからか」

「おれは気にするなと言ったが、彼女は罪の意識を感じていた。しかし、おれたちは、結婚はしない。その約束で今日まで来た」

「それで小夜は幸せになれるのか」

「それはわからないが、おれはおやじに代わって、彼女とずっと一緒にいるつもりだ」

「だったら、結婚しろ」

「それはできない」

「どうしてだ!」

「おれはいままで結婚というものを軽く見てきた。重大に考えることを敢えてしてこなかった」

「……」

「男女は一緒に暮らすことで十分だ。結婚は籍を入れる書類上の手続きだと思ってきた」

「おまえはそれでいいが、女は違うンだ。結婚は必要だ。もっと、女の気持ちを考えろ」

「20年も小夜を放ってきたおやじからそれを言われるとは思わなかったが、今回小夜の暮らしをみて、ようやくわかった。女性の気持ちはもっと重視しなくちゃいけない。そう反省しているところだ」

「だったら、結婚しろ」

「いや、もう遅い」

「なぜだ?」

「おれには物事を重視する習慣がない。この先も警視を続けるからな」

          (了)

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