キルシェ嬢の甘やかな休日 〜微睡みの魔王外典〜

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キルシェ嬢の甘やかな休日 〜微睡みの魔王外典〜

 キルシェはもう十回以上読んだであろうビラを手に取り、読み終えてはバルコニーの空を眺め、またビラに目をやった。


 明日の到来を待ち遠しく思うなど、生まれて初めての事かもしれなかった。


 いたずらに時の過ぎるのを待つうち、テーブルの上のワインはとうに温くなっていたが、やおら口をつけつつ、漫然まんぜんとチーズを噛んだ。


 その傍らに立つ青年は厚くも薄くもない装丁そうていの本のページを熱心にめくっていた。


 キルシェが男のシャツの裾を引っ張ると、青年もといケルザは大儀たいぎそうに顔を上げた。


「……なにか?」


 キルシェは青カビがマーブル状に入ったチーズの載った皿を持ち上げ、上目遣いにこう言った。


「もう少し、厚く切ってほしいのだけど」

「セント・ネクトゥアーレ・ブルーは、その薄さがもっとも旨い」

「ネクトゥ……?」


 うまく聞き取れなかったキルシェは眉をひそめた。


 ケルザは読みかけの本に栞紐しおりひもをかけてパタンと閉じた。


 ケルザはチーズの名前を繰り返し、また大儀そうに対面の椅子に腰掛けた。


「旧約聖典の第六章『糧の取り決め』に出てくる。聖人ネクトゥアーレが神の試練で挑んだ洞窟で、その青カビを見つけ、売れ残った乳で作ったんだ」


 旧約聖典とチーズの厚みがどう関わるのか、キルシェはうなずいて次の言葉を待った。


「それが今や高級食材だ。この街じゃ、百グラムでその二倍の干し肉と釣り合う。なにより厚く切ると塩辛さが立つんだ。一つ二つならまだしも、お前みたいにいくつも食うならそれでいい」

「私はその塩辛いのをいくつも食べたいのだけど」


 ケルザは無言で立ち上がった。


 なにか怒らせたか、とキルシェは主従の立場も忘れて首をすくめた。


 ケルザは皿のチーズを次々とフォークに突き刺し、三つまとめたものをキルシェの口元に突き出した。


 こぼさないよう空いた手を添えているのを見るに、この男の内面には暴漢と紳士が奇跡的な同居をしているに違いない──と、キルシェは思った。


「む、むう。最初からこうしてくれれば良いのに、口答えばっかりするんだからっ」

「教養のない者が高級チーズなどおこがましいからな」

「これはそもそもケルザが勝手に買っ──んぐ」


 ケルザは喋る最中の口の開閉を見極め、チーズを突っ込んだ。


 それでいてキルシェの唇や口内をまったく傷付けないのだから、器用というかなんというか。


 キルシェは口いっぱいのチーズを噛むしかない。確かにかなり塩辛いが、生ハムや腸詰めほどでもないから悪くない気がした。


 ケルザは尋問官みたいな険しい顔と口調で、


「最初のうちは旨いがな。つづけて二つ三つと食えるか?」

「ふんっ。そんな大袈裟な──」


 言いかけて、キルシェは飲みかけのグラスに手を伸ばした。唾液と混ざったチーズが口中にへばりついて、生ハムや腸詰めより塩辛い。


 グラスが遠ざかった。ケルザだ。


 キルシェが手を伸ばした分だけグラスを遠ざけつつ、


「ライカンスロープ種の乳は脂肪が濃いからな。それが旨いんだが、そのチーズとなると話が変わってくる」


 あと少し、というところでグラスの脚は完全に握り込まれ、ケルザがひょいっと持ち上げるとキルシェの視線も同じ軌道を描いた。


「薄切りにしないといつまでも塩辛い脂が口に残る。ワインも白、それにスパークリングタイプにしたのはその脂を洗うためだ。それをお前というやつは……」 


 ぶつくさ言いながらワゴンから替えのグラスを取り、新たにワインを注いでキルシェに差し出した。


 キルシェはそれをひと息で飲み干した。


「はああぁ。ま、まさか人間の食べ物で苦しめられる日が来ようとは……」

「人間のお嬢様として暮らしたいなら、せいぜい人間の真似に励む事だな。お前に出来るかは知らんが」

「たかがチーズひとつでひどい言われようね。実家はチーズ屋かしら?」


 ケルザは答えず、掛けてあったコートの襟を引っ掴み、そそくさと袖を通した。


「なによ、出掛ける気? 今日はもう一両日城に居ると言ってたじゃないの」

「下見だ、明日の」


 襟を整え、愛用の黒い革手袋を嵌めながら、


「やっぱりいざというときの逃走経路を把握しておきたい。そう滅多なことはなかろうが、魔族だろうか貴人は貴人だ。何かあってからでは騎士の名折れだ」


 キルシェの持つビラは、大道芸の招待状であった。


 昨日ケルザの買い物に同行した際、ピエロに扮した団員がくれたものである。


 キルシェはハグをせがむ童女のように両手を伸べ、


「暇だから私も行く。連れて行って」

「……城に一人残すわけにはいかんか」


 ケルザは険しい顔でずかずかと歩み寄り、キルシェの手を引っ張った。


 人形めいて華奢きゃしゃなくせに、びくともしなかった。人間は逆立ちしても魔王の膂力りょりょくには敵わないのだ。


「非力ねぇ。女の子一人も引っ張れない?」

「さすがにな。百キロを引っ張れというのは──いだッ」


 それはケルザも初めて体験する、魔王でないキルシェという少女のビンタだった。


 不服そうに頬をさするケルザに、


「無礼者っ。罰として城の外まで抱っこで連れていく事! いい? 次はギロチンよ?」


 キルシェがまた両手を伸ばすと、ケルザは舌打ちをため息に隠して身を屈めた。


 うなじに回される両腕の温みも柔らかさも、そして今度は軽々と持ち上がる重さも、どこにでもいる可憐な女のものだった。


「そうそう、やればできるじゃないの。万一にも落としたりなんかしたら──きゃっ!」


 急に上下に揺さぶられ、よりしっかりと抱き直されるとケルザの腕の強さと熱さが伝わってきた。


 キルシェはやや恥ずかしげな、それ以上に満足げにくっくっと笑った。

 


 当日のキルシェはケルザよりも早起きだった。


 白のブラウスにコルセットスカートを合わせたいのだが、黒にしようかベージュにしようか悩み、結局、ボレロがベージュしかなかったので黒を選んだ。


 そうなるとイヤリングが欲しくなって宝石箱を開いたが、どれを選んでも正解で不正解な気がして、ケルザの起床が待ち遠しくなった。


 宝石や貴金属の散らばされたベッドの上で、キルシェは手鏡を手に昨日の下見で買ったルージュをひと塗りし、真一文字に唇を引き結んだ。


 パッと半開きの唇を彩るのはガーネットのような赤。


「もうちょっと明るい色の方が良かったかしら……」


 ファウンデーションにムラのない事に満足し、アイシャドウの上にもう少しラメを足し、マスカラを塗り足した。


 キルシェは仰向けに身を投げ出し、ひとつ伸びをしてくっくっと笑った。


 昇ったばかりの陽の光がバルコニーの窓を通り、乳白色にキルシェの私室を照らしていた。


 その光は優しく暖かく、一日の始まりを告げていた。



 キルシェのイヤリング選びや化粧の話に付き合わされ、ケルザはろくに朝食も摂れずに馬車を走らせることになった。


 彼はいつものコートに革手袋だが、キルシェに足元だけは洒落たものにしろと言われ、つややかなエナメルのブーツを履いた。


 街についてすぐ、ケルザは屋台に飛び込んだ。


「すみません、ラージサイズのホットドッグを一つ」

「あいよ。──って、誰かと思えばケルザの旦那。今日はずいぶん早いじゃないか」


 口髭を生やした恰幅かっぷくの良い店主は、腸詰めみたいな指でテキパキとパンに切れ込みを入れ、具材を載せていく。


「お嬢様に大道芸が見たいとせがまれましてね。朝食も摂らせてもらえなかったんですよ」


 店主は慣れた手つきで包みを広げ、


「はは、そいつは災難だな。しかし優しいんだね旦那は。キルシェのお嬢様は幸せモンだ。──ほい、お待たせ。はいはい、代金ちょうど。毎度ありがとうございます。ソースはそこの、かけ放題だから。しっかり食いな、腹が減ってはだ」

「どうも、いただきます」


 街ゆく人の笑い声の中、ケルザは湯気の立つホットドッグに大量のトマトソースとマスタードをかけ、屋台を出た。


 ショーの開演までまだ時間はあったが、広場の噴水前にはすでに人が集まり、みな思い思いのことをたのしげに話していた。


 かたやケルザは戦場を見渡すかのように険しい顔でホットドッグに噛みついているから、キルシェの気分はぶち壊しである。


 そこで噴水を指し、


「ねえ、あの彫刻は何? 魔物の像のようだけど」

「ガーゴイル。魔除けの一種だ」

「ふうん。じゃあ、あれは? どうして天使に服を着せないで、裸に彫るの?」

「知らん。彫刻家に訊いてくれ」


 にべもない。


 キルシェはしょんぼりと遠くを見やるので、ケルザもさすがに悪いと思った。


「少し待ってくれ、俺は朝飯もまだなんだ」


 街一番の大きさを売り文句にするホットドッグは普通の二倍もあり、その腸詰めは二〇センチ超もある。


 キルシェは背伸びしてその包みの中を見やり、まだ半分も食べていないのを見て唇を尖らせた。


「ぜんぜん食べてないじゃない」

「今さっき買ったところだぞ」

「美味しい?」

「ああ。腸詰めが特に旨い」

「じゃあ、私も朝食に付き合ったげるわ。──どれどれ」


 ホットドッグを持つ左手を掴み寄せ、あっという間もなくケルザの歯形の横からホットドッグをかじり、続けて二口三口と頬張った。


 頬をパンパンにしたキルシェを前に、ケルザは呆気に取られながらホットドッグとその顔を見比べた。いつか森で見たリスに似てなくもない。


「おまえ……魔王の名が泣くぞ。人の食い物まで食うなんて卑しいと思わんのか?」

「連れの男と同じものを食べようっていうのは出来た女の証よ、知らないの? それにこういう食べ物は間接キスもディープに──あ、こらっ、私が食べた方から食べなきゃ意味ないじゃないの、話聞いてた?」

「いやそれは──」


 汚い、と言いかけてケルザは口ごもった。

 魔王ゆえの傲岸ごうがんさはあれど、キルシェの感性はいたって普通の女なのだ。百キロの一言でビンタが飛ぶなら、汚いなんて言ったら号泣するのは火を見るより明らかだった。


 ケルザはキルシェの噛み跡の方から、ホットドッグを食べ進めた。


「おぉ! そうそう、それ! それでいいのよっ。どれ、もう一口、食べたげるっ」


 そしてまた手首をひっつかんでホットドッグに噛みちぎっては頬をパンパンにしていく。


 心なしか先ほどよりパンが湿っている気がして、ケルザは目を白黒させながらたいらげた。


 丸めた包みをくずかごに力なく投げ捨て、「まるで食った気がしねぇ」とごちたが、その腕をひっつかまれ、ケルザは人波に呑まれていく。


「次は口移しで食べようね、ケルザっ」

「嫌だっ。どういう罰だ、なんでおまえの口の中のものを食わされにゃならん!」 

「この場合の口移しは私が片方をくわえてるから、その残りを食べなさいという事よ?」

「嫌だっ。ただちにこの世を去れっ。どういう神経しているんだ、あぁ、さっき食ったもんを吐きそうだ……」

「そんな照れないでいいのよ? ひとつひとつ、慣れていくの。私は気の長い女だから、焦らなくて大丈夫」


 ケルザはもう何も言わなかった。



 広場に並ぶ屋台をひとまわりするうち、もう間もなく開演となった。


 ストリートだから席などあってないようなもの、劇場で見るようにはいかないぞとケルザは念を押した。


「言われなくてもわかってるわ」


 そそくさと地べたに座り込むが、なんせ石畳である。さまざまに座り方を試し、ついに尻をつけず膝を抱える形に落ち着いたのを見て、


「ほれ見ろ。木椅子の一つくらい持ってくれば良かったんだ」

「うるさいなあ。そういうのはおまえの役目じゃないの?」


 ケルザは溜息を吐き、コートを脱いで丸め、嫌がるキルシェを押し切ってその尻の下に差し込ませた。


「……まあ。思ったほど、悪くないじゃな──ちょ、今度はなにっ?」

「髪。あとで見えなかったなんて言われちゃたまったもんじゃない」

「人前で髪なんて触らないでっ。破廉恥はれんちでしょうよっ!」


 そうこうしているうちに、開演のブザーが鳴った。


 シッ、と指を鼻先にかざすケルザにムッとしつつも、キルシェは噴水の前に設けられた舞台に注目した。


 赤っ鼻のピエロだ。


 口上を言い、開演早々のジョークで人々の笑いを誘いつつ、ジャケットから白鳩を出したり、閉じて開いた手の中に色とりどりの玉をいくつも出してアッと驚かせた。


 キルシェの見る新たな夢の幕が、アコーディオンの音色と共に上がった瞬間だった。


 火吹き男が作った炎の輪を猛獣が潜り、犬や猫が玉乗りで広場を所狭しと駆け、うなりをあげて飛ぶナイフが正確に頭上のリンゴだけを貫いた。


「ね、ケルザはできる? ナイフ投げ」

「大道芸だ。騎士の技じゃない」


 ケルザはつまらなそうに立て膝に頬杖をついていたが、キルシェは気にした風もなくまた大道芸の数々に見入った。


 そして『ピエロの一日』と題された喜劇が始まった。


 大仰な演技や軽快な台詞回し、ジョークの数々に観客らが大爆笑して、ケルザでさえが失笑したとき、キルシェはその名を呼んだ。


 だが届かない。


 口にした名は大音声だいおんじょうに掻き消され、キルシェは仕方なく舞台の方に向き直った。そんなことが二回ほど続き、ついにケルザの腕をつかんで抱き寄せた。


「おい、急になんだ?」

「遠い。もっと近くにおいで。今日の褒美をあげるわ」

「後でいい、まだ途中だ」

「寄らんと殺すぞ?」


 心底嫌そうな顔を隠そうともせず顔を寄せると、キルシェはその頬にチュッと口付けた。


 ケルザは目を見開いた。


「これが今日の褒美……。どう? 嬉しい?」

「おぉ、もったいのうございます……」


 反射的に頬を拭ってしまったと自覚した瞬間、キルシェの手指が視界いっぱいに広がり、神経痛めいた痛みが顔じゅうに走った。


「ちょ、ま、待った──」

「重罪だ。罰として椅子になってもらおうか」


 かくして、あぐらを掻いたケルザの腿を座面、上半身を背もたれにしてキルシェはにこやかに微笑んだ。さしずめその両腕は肘掛けといったところか。


「初めからこうすれば良かったのよ」

「こんな、これだと剣が抜けん。何かあったら──」

「一緒に死んでやるくらい言いたまへよ、この朴念仁が。男でしょう?」


 ケルザは渋々頷くしかなかった。 


 キルシェはかつてない心地よさの中で、すこし微睡んだ。すると瞼を開けても閉じても夢が続いていて、甘やかな胸の締めつけにほんの一滴、涙を流した。


 その目尻に革手袋の指が押し当てられ、キルシェは瞼を開けた。


「なに泣いてんだ、おまえ」


 その仏頂面にはキルシェが魔王として付けた傷が一つ。


 キルシェは答えず、なお強くケルザの腕を抱きしめて、くっくっと笑うのだった。

 

Fin.

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