ーナマケモノ界編ー

睡魔と酔気が支配する靄の中、Sは一人立っていた。朝露の瑞々しさと古酒の香気がない交ぜになって、肺から全身を満たしていく。驟雨と木漏れ日が交互に降り注いで、灰褐の毛並みを嘗めていった。Sはひとたび身を震わせた。

Sは森のナマケモノである。ヒュプノスを拝し、バッカスを崇めて暮らしてきた。けれども惰眠と陶酔こそ至上として尊ぶ獣らの一員として、無気力と不摂生を至高として貴む者どもの一翼として、Sは明らかに異質だった。彼は早起きの悪癖を持っていた。彼の潔癖の前にはいかな酒精も無力だった。他の獣がようよう瞼をもたげる昼下がりの間までは、土砂降りの美しい渾沌も、殺気に満ちた灼熱の烈気も、彼だけのものだった。

ナマケモノは衆愚政治の夢を見るか?Sは酒池肉林の夢をみない。かわりに黎明を呼ばう鶏たちの黄昏を現に見下ろしていた。


見よ、我の一生のうちに、鶏社会は政体循環をなそうとしている。我が生まれた時、社会は君主制だった。やがて一人の賢人が現れた。彼は僭主となって、人民のために法を作り、人民を思って国家を築き、人民によって殺された。思いは一匹の政治家に引き継がれた。彼は傑出した個であった。彼は教育に力を入れ、自由で平等な社会を志し、信じられないほどの忍耐の末、全ての鶏が参政権を持つ直接民主制を実現させたが、それはつかの間の理想郷であった。彼が世を去ったあと、生涯をかけてつくりあげた民主政治が衆愚に陥りそうになった時、民衆は一匹の鶏に至尊の冠を戴いた。


太陽がゆるゆると上り、沈んでゆく。我は誰なのか。何者なのか。彼のみに許された思考の時を、Sはただその問だけに費やした。彼はナマケモノが嫌いだった。彼はクレタ人だった。沈みゆく太陽の1/10倍ほどののろまな思考速度が退屈で仕方なかった。ヒュプノスとバッカスに捧げるためだけにある生を呪っていた。自種に愛想をつかすほど、むしろ観察しているだけの異種に心奪われた。Sは鶏になりたかった。


「おはよう、よく酔えるように」

「おやすみ、よき夢が永久に続かんことを」


「飲もうぜ、極上の酒を」

「夢をみようぜ、兄弟」


獣らが起きだしてゆく。兄弟などではない、同類とも思いたくない。おまえには、我の孤独がわからぬ。失望も奈落も、わかるはずはない。


ある時からSの隣に現れたEは、怠惰と間抜けを型に流し込んだ、そんな生き物だった。その惰性を、怠慢を、心の底から軽蔑していた。Eに教養はなく、だがEに見えないものは何もなかった。鍛錬を知らず、しかしEの肢体はアルテミスのそれに比して類された。耳に古典の一音も持たず、しかしEのことばは鬼神をも動かすうただった。弁論術を知らないが、Eの論の一粒一粒はあらゆる者に観応した。すべての既知がEの前には瑞々しいものとして立ち上がった。よく見ればいい、耳を澄ませばいい、過去も未来も、すべてこの中にある。未知はEにそう言っていた。Eの活動時間は、その目に理知をうつすには短すぎた。低温で低速の世界にあって、Eはなおあまりに愚者だった。

彼女は笑うのだった。

「あなたのおかげで、私は幸せだ。あなたほど私をわかってくれる者はいない」

柔らかな言の葉が、今は肌を刺すように感じられた。英知など何になろう。君の見る世界の断片も我にはわからない。我には君がいるが、君が孤独なのは我のせいだ。だれもが無知なこの世界で、君だけが全知だ。誰にも理解されない才は愚鈍に等しい。君が愚物なのは、君以外のすべてが愚かだからだ。

しかし彼女は笑うのだ。

「私は軽蔑されるために生まれてきたのですから」

我は君を蔑視する。ゆえに己の無知を知る。

我は君の異端を知る。ゆえに君を敬さずにはいられない。

知音。彼のおとは、彼女のためだけにあった。

二人はそういう仲だった。


昇る太陽より遅く、レントよりもなお遅い、ナマケモノ界がとうとう動き出す。

「鶏界の第一人者プリンキパトゥスKと申す。ナマケモノ殿にお目通り願おう」

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早起きに疲れたニワトリ、ナマケモノを志す @sasa930

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