ままならないから:浩介の章
「
連日の残業から家に帰った途端、妻である
ここ数ヶ月の様子から、こう切り出されるような予感はあった。ある日を境にして真衣は何か諦めたような、夢を諦めた少女のような物悲しい顔をするようになったのだ。きっと、あの事故から歯車は狂い始めた。いや、初めから噛み合っていなかったのかもしれない。
真衣と結婚したのは八年前だ。当時二十八だった俺は、誰とも結婚だなんてと考えてはいなかった。両親からはいつになれば定職に就くのかだの結婚するのかだの言われていたが、適当に受け流していた。連日、友人と飲みに出掛けては寄ってきた女を引っ掛けて遊んできた。真衣もその中の一人に過ぎなかったのだ。
少し違うのは、真衣はどちらかといえばおとなしい方で、自分から積極的に寄ってきたわけではなかったことだ。俺が攻めてもその手が効いているのかいないのか、よくわからなかった。気づけば俺は真衣を追うようになっていた。今までと違うタイプがゆえに惹きつけられたのだ。
俺は真衣と付き合ってからも今までのように女たちとは隠れて遊んだ。将来だのなんだの考えるような人間でもなく、このまま生きていくのだろうと漠然と思っていた。しかし、真衣はそんな俺を何度も咎めた。浮気もそうだが、人生というものへの向き合い方についてもだ。今まで関わってきた女で唯一、呆れることもなく愛想をつかすでもなく俺に向き合った女だった。
そんな生活の中、真衣から妊娠を告げられた。
ああ、やっちまった、と狼狽える。どうする、逃げるか。それとも堕胎させるか。今までにないほど頭が高速で思考を巡らせ、返す言葉を探す。
「真衣、結婚しよう。責任を取る。」
気づいたらそう口に出していた。
一方の真衣はというと、俺のプロポーズに対して複雑な表情を浮かべた。
俺が責任を取る、君を選ぶと言ったも同然であるのにも関わらず、真衣は喜ぶことはなかった。切れ長の綺麗な目が俺をじっと見つめていた。
まるで心の中の全てを見透かすような、底の見えない湖のような黒い瞳。俺の言葉が格好つけと勢いだけであることは見抜かれていたのだろう。
真衣は賢く、強い女だった。
「それでは、旧郎旧婦のご入場です。」
司会のアナウンスが聞こえる。ふと真衣からの目線を感じたが、振り向く気にはなれなかった。会場への扉が開かれる。豪華なドレスのような装いの会場は別れの場にしてはいささか光が強すぎるな、と思う。
真衣と結婚してからは目まぐるしい日々だった。今まで適当に遊んで生きてきた俺が、家族を持つことになったとあればこのままで良いわけがなく、今までの人生のツケを払うような毎日だった。職歴なしの三十手前の男に世間の風当たりはあまりに強かった。真衣は俺を支えてくれていたが、当時はそれに気づくこともできず、口論する日の方が増えていった。
だが、
それを告げた時の真衣は初めて涙を見せ、笑った。
ふと気づくと、真衣の友人の挨拶が始まっていた。
この子は何かの機会に会うたびに俺を睨みつけながら真衣とのことに関して詰め寄ってきたのを覚えている。俺のことを非常によく思っていないこの子が挨拶をするとは。この式においては適任ではあるんだろうが。
「真衣、おめでとう。別れる決断をしたのは辛かったと思うけど、それが貴女の幸せに繋がると信じています。」言い終わった後に、石原はいつものように俺を睨みつけた。おめでとう、とはこれ以上ない皮肉だ。つい「参ったな」と口に出してしまう。だが、真衣の幸せに繋がるという意見には俺も同意だ。だからこそ、この式が執り行われている。
雅が生まれたことを契機に、俺は仕事に全力を注いだ。周回遅れの人間であったことは自覚しており、それを取り戻すには他人の何倍もの経験を積まなくてはならないと思っていた。
そんな日々でも真衣は何も言わずに過ごしていた。いや、言えなかったんだろう。
ある日、真衣に激しい怒りをぶつけられたのを覚えている。
雅の世話を任せきりにしてしまった挙句、真衣をここまで取り乱させてしまった事実に呆然とした。社会に出て、何か俺自身が変わったように思っていたが、何も変わってはいなかったのだ。
次に、俺の友人の
「それでも彼は真衣さんに本気でした。でも、想いだけでは家族になれませんね。」
ああ、その通りだよ、小野。
小野はよく他人のことを見ている男だった。もしも小野が俺だったら、こんな式は無かっただろうと思うんだ。
仕事も軌道に乗り、雅も四歳になった時のことだった。
俺が営業した家族の娘が事故で亡くなった。雅とそう変わらない歳の娘だった。原因はキックボード側の不具合による暴走。キックボードを止めることができず国道の大きな交差点で大型トラックと接触し、命を落としたのだと聞かされた。俺の会社とその製品はメディア・SNSで非難された。遺族が報道に出るたびに非難は熾烈になっていく。俺も担当者として責任を負い、何度も遺族の元へ足を運んだ。玄関先で報道陣に囲まれながら遺族に謝罪をしたが、幼い我が子を失った相手には到底聞き入れてもらえるはずがなかった。
「あなたにも子供がいるそうですが、もしもその子供があなたの会社の製品で亡くなったら、あなたは許せますか。もう、これ以上言わせないでください。」
最後に遺族の母親に会いに行った時、憎しみのこもった目を向けられながらそう言われた。そうだよな、許せるわけがない。
そんな日々に耐えかねた俺はその会社を退職した。だが、家族のために止まるわけにいかない。またしてもすり減る日々が始まった。
面接では営業職の経験を持ち出して話を進めたが、俺にとってはそれを語るたびに喉が焼けるような感覚に襲われた。
半年ほど経った頃、また別のベンチャー企業から内定が出た。
しかし、その会社は経営状況が元より芳しくなく、俺が入ってまもなく
真衣に別れを告げられたのだ。
俺は足元に大きな穴が空いて、そこに落ちていく感覚に襲われた。仕事を失い、真衣の心も失った。
俺はこれからどうすれば良いのだろうか。そんなことを考えながらいつものように真衣の作ってくれた夕飯を食べ、風呂に入り、寝る支度をした。その日のうち、真衣には何も返事ができなかった。当たり前のように用意された食事と風呂と服に対しても感謝を述べられなかった。そこで改めて、俺は何も変わっていなかったなと自嘲した。
ベッドに入ろうとしたところで、雅の寝顔が目に入った。ああ、そうだな、俺はこの子のためにこれからも生き続けないといけない。この子は真衣に似てくれるといいな。そう心から思ったことを鮮明に覚えている。
翌朝、真衣に返事をした。「別れよう」と。
この式を提案したのは俺だった。俺の甲斐性のなさから真衣を結婚式という晴れやかな舞台に連れていくことができなかったことがずっと心残りだった。
せめて、曖昧に始まったこの関係を明確に終わらせて、けじめをつけたかった。
これより、旧郎旧婦によるラストバイト、ケーキ入刀となります。」
式場のスタッフが大きなナイフを持ってきた。
俺と真衣の二人でナイフを持つ。これが俺たちの最後の共同作業。
真衣の小さな手に俺の手を重ねる。
ふと親族席で俺たちを見守る雅へ目を向ける。俺はこの子のためにこれからも走り続けないといけない。
ケーキにナイフが入り、やがてテーブルにトン、と当たる。拍手が起こることはなかった。
すかさずスタッフがナイフを回収し、代わりに大きなスプーンを真衣に手渡す。ラストバイトでは、ケーキを食べさせ合うのではなく、ぶつけ合うらしい。まったく、粋な演出を入れるものだ。
二人で切ったケーキの一部分をスプーンで掬い上げ、真衣が俺の眼前に掲げる。
「浩介、今までありがとうね。」
真衣は目を伏せながら、俺の顔面目掛けてケーキをぶつけてきた。
会場に今日、初めて少しだけ笑いが起きる。続いて、俺がスプーンを持ち、真衣の眼前にケーキを掲げる。真衣が目を瞑ったのを確認した後、真衣の顔にケーキを柔らかく当てた。
ケーキまみれのお互いを見つめて、俺たちは久しぶりに笑い合う。
真衣は昔と変わらない笑顔を向けながら、涙を流していた。
今思えば、ずっと俺は真衣を追いかけ続けていたな。
さようなら、俺の愛した人。
離婚式 秋田 優 @akita_yu
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