六
妙庵が宣言した通り、三日もすればお寧の体調は良くなった。だが、以前よりも暗く、口数も少ない。また子どもたちと遊べば徐々に明るくなると期待するも、無理に笑うような仕草をするばかりだった。
このような状況の中、さすがに宗介は、お寧が戻ってきてくれたうれしさに、浮かれることはできなかった。
「先生はどうして何も聞かないんですか?」
お寧自身、いつ何を尋ねられるだろうと、
「無理に言いたくもないことを尋ねたくはない」
「…………」
今までどこにいた。あの弥一という男は何者なのか。母の事件は……宗介がお寧に尋ねたいことは山の如しだ。しかしそれらを尋ねることは、お寧をさらに追い込んでしまうと理解している。
これ以上、お寧を苦しめさせる道理はない。
「ここにいるのは嫌か?」
お寧は即座に首を振った。しかし彼女はとても、辛そうだ。
何が、彼女をここまで苦しめている………?
「お願いします。あの人が迎えに来る前には出て行きますから、それまでここにいさせてください」
土下座までするものだから、宗介は
あの人とはつまり、弥一のことだろう。彼は一度お寧に会いに来て、十日後には迎えに来ると言っていた。あの人が迎えに来る前にという言葉も引っかかるが、宗介はどう答えていいものかを迷いあぐねて、結局何も言えなかった。
約束の十日後が明日に迫ったとき、宗介はすっかり三次との密会の場になっていた飯屋に向かおうとしていた。
「先生、どこかに行かれるんですか?」
「約束があって町に行ってくる。
手習いが終わった昼時、いつものようにおあむと千代吉が遊びに来てお寧が相手をしてくれると思い、宗介は三次と会う約束をしていたのである。
「…………」
お寧は何かを言いたげに宗介を見ていた。
「…………?」
どうした、と宗介が問う前に、いってらっしゃいませとお寧が見送った。とても快く送り出す感じではなかったのだが、かといって、自分が出かけてお寧が困ることもないだろうと、宗介は家を出た。
しかし道中、お寧の様子が気になった。
お寧やおあむたちと遊ぶ口約束はしていない。他にお寧の機嫌を損ねるようなことはしなかったはずだ。
それとも、話したいことがあったのだろうか。家を出てしまってから罪悪感を覚え、だがすでに三次との待ち合わせ場所に着いてしまっていた。
もしもこのとき、もっとお寧のことを気にかけ、家にいればよかったと、宗介はあとで後悔することになる。
三次はすでに飯屋に姿を見せていた。
「先生、ご足労をかけます」
「こちらこそ、いつもすまない」
お寧と再会してからは、彼女の看病もあって、宗介は事件の捜査をしていなかった。しかもお寧の前では事件の話などできないので、三次とじっくり話すのは、久方ぶりである。
「その後、お寧さんの調子はよろしいんで」
「熱は引いてくれたが、どうにも……」
笑顔を見せてくれなくなった。それが母が亡くなった哀しみだけの理由ではないことも察している。しかし、何も語ろうとも
「明日の朝には家を出て行くと言っていたが……」
ここで宗介は、三次に弥一のことを話した。明日になれば、弥一はお寧を連れ戻しにやってくることも。
「お寧さんはその弥一って男に、弱みでも
「弱みか……」
仮にお寧と弥一がいい仲であったとすれば、お寧は熱が引いてすぐにでも、弥一の元に戻るはずだ。恋人がいるのに、赤の他人の男の家に居座るのは、かなりふてぶてしい行為である。
しかしお寧は、口には出さないけれど、弥一の元に戻ることを渋っている様子だ。
「あんな様子では、今度こそ無理にでも引き止めようと思っている」
「それがいいでしょう。先生と一緒にいるのがお寧さんにとって、一番安全なはずです」
今日がお寧と過ごす最後の日だと覚悟すれば、三次とは会わなかった。一度守りたいと思った人と少しでも長く、一緒に過ごしたいと思ったであろう。いつか離れるときがきても、今日が最後ではない。
「ところで事件のことですが……」
三次の方はやっと収穫が得られた。
三次はお寧と母のおくみが以前に暮らしていた長屋を突き止め、捜査をしたのである。
「以前の長屋は六年ほど住んでいたんですがね、それ以前にはなんと十回も住んでいる所を変えてるんですよ」
「十回も……」
「長くて一年、短くて三ヵ月ってときもあったようで」
何度か引っ越しをするにしても、それはあまりにも多い数である。仕事の都合と考えるには合点もいかず、しかも何人かの証言によれば、二人は周囲と揉め事を起こすような性格でもなかった。
まるで……
「何者かに追われていて、逃げていたような回数だな」
「さすが先生、その線で間違いないと思われやす」
以前に二人が住んでいた何軒かの長屋には、今も二人のことを覚えている住人がいて、三次は話を聞くことができた。
「どの長屋にもある男が二人を探して訪ねて来たことがあるそうで。皆がおくみさんと歳が同じくらいのお武家さんと証言したんで、同一人物に違いありやせん。その男が訪ねて来た翌日には、二人は引っ越したとも口を
「二人はその男に見つかるたびに逃げていた、か……」
「あいにくお寧さんたちとその男の関係性や、何を話していたかまでを知っている人はいませんでした……」
おくみと同年代の武家の男という以外に、知り得るものは何もなかった。
「二つ前に住んでいた長屋は六年はいたと言っていたな。ということは、その間はめっきり音沙汰がなかったわけか」
「おそらく。そこの長屋では、武家の男が訪ねて来たと言っている者はおりませんで」
二人が住む最後の長屋となったところに越してきたのは、ただ仕事の都合などによるありふれた理由か。それとも、六年越しにまた武家の男に居所を知られてしまったからか。二人が引っ越した理由については誰も要領を得ず、差配も当時の人とは変わっているため、詳しく知ることはできなかった。
「その武家の男、おくみさんの事件に関わりがあると思うか」
「今のところは何とも……その男が犯人だとして、どうして今になって殺したのかも合点がいきませんし」
結局、ますます謎が増えたばかりである。
「そういえば、お寧さんの父親は……」
「わかりやせん。どの長屋にいたときでも、親子二人だったそうで、父親については話を聞いたって人も皆無です」
「そうか……ここはやはり、お寧さんに話を聞いてみようか……」
御用聞きの三次はともかく、宗介が勝手に事件の捜査をしていると聞けば、お寧はどんな反応を示すだろうか。どんな反応であれ、少なくとも三次は捜査を続けなければならない。母が殺された心当たりを聞くほかに、できることは限られている。
宗介が帰宅したとき、陽は沈みかける間際であった。今日も遊びに来たであろうおあむと千代吉も、すでに家路についているはずだ。
戸に手をかける前、ふと
「お寧さん、いま帰った……」
家の中はがらんとしていた。
もしや出て行ってしまったのではと家の中を探すも、姿がない。しかし庭に目をやれば、すぐにお寧を見つけることができて、ほっと息をついた。
「お寧さん」
背中を向けている彼女は宗介の呼びかけに気づかなかった。
井戸の前に座りこみ、夢中に何かを桶の中で洗っている。
「…………」
あまりにも必死に洗っているものだから、宗介は気になって近づいてみた。
後ろから覗き込むと、お寧の洗っている物が見えた。
赤い汚れが付着した手拭いである。
「怪我でもしたのか」
間近で声が聞こえて、やっとお寧は宗介の存在を認識した。
「血が……」
お寧の左頬に、なびいたような血の跡が付いている。どこか怪我をしてしまい、血のついた指で付けてしまったのたまろうか……
宗介は無意識に手を伸ばしていた。やましい意味などなく、ただ心配のあまり。
「いやっ……!」
瞬時にお寧は立ち上がり、再び宗介に背を向ける。
明らかに、宗介の手に恐怖を感じていた。
怖がらせるつもりはなかったと動揺するも、一番動揺しているのは他ならぬお寧である。
「ごめんなさい。びっくりして……」
「急にすまなかった。怪我は……」
「少し切ってしまったんです。もう血は止まりましたから……」
どこを切ったとは言わなかったが、お寧は手拭いで頬を拭くとそれを洗わずに、桶を片付けた。
少し気まずくなったような微妙な空気の中、お寧は夕餉の準備を始めた。
「今日で最後ですから、腕によりをかけて作りますね」
「最後……本当に、出ていくのか」
「……はい」
ここで別れてしまえば、もう二度と会えない気がする。
なぜ、なぜお寧は頑なに出て行こうとするのだ……
「うちが落ち着かないなら、六右衛門さんにおねがいして、しばらく厄介になればいい。あの人なら喜んで迎えてくれる」
「私、居させてもらえるなら、先生の家がいいんです」
「なら……」
「でも、だめ……私はもう、先生と一緒にいられない」
「…………」
お寧はずっと、何かを隠している。再会してからは、母の事件のこと以外にも、言えないことが増えたようだ。
「苧環屋敷はいいのか……家人が帰ってきたら、母御のことが何かわかるかもしれないのだぞ」
宗介の言葉で、彼が母の事件を知っていること、そして自分が苧環屋敷の家人の親戚だという嘘を見破られていることを、お寧は理解した。
「どうして……」
「ずっと、心配だったんだ……」
お寧が抱えているすべての思いはわからない。だが、一片でも知ってしまった宗介には、途中で投げ出すことなどできなかった。
お寧は自身の秘密の一部を知られてしまったことに、
再会したときのような、あの静かな目で宗介に言った。
「先生はもう関わらない方がいい。苧環屋敷は、何だかとても不気味なんです……」
それは事件を調べる中で、宗介も感じていたことだった。お寧の母の死には、複雑で怪奇な事情が絡んでいる。そしてお寧は、一人で事件と向き合おうとしている。あまりにも無謀な行動だ。
「俺は引き下がらない」
「先生……」
「無理やりにでも、
知られては不都合な何かを、お寧は秘めている。それが一緒にいられないという理由なのだろう。
たった一言、助けてと言えたなら、お寧はどれほど楽になれるのか……
「先生、わたし……」
お寧は何事かを打ち明けようとした。しかし、お寧の口からそれは発せられなかった。
やはり言うのをやめた、というわけではない。
とある人物が宗介の家に押し掛けたことにより、二人はその人物に集中せざるを得なくなったのである。
宗介の家にやってきたのは、役人だった。
「お寧と申す女はその方か」
「はい……」
急に何事かと驚きながら、お寧は小さい声で返事をする。
「番所まで来い。心当たりがあるだろう」
そう言うなり役人は、お寧の手を引っ張り連行しようとする。
宗介は
「いきなり来て無体な!お寧さんが何をしたっていうんだ」
役人は険しい顔で答えた。
「この女、弥一なる男の頭を殴りつけ、殺そうとしたのだ」
とてもお寧がしたとは想像もつかない言葉に、宗介は信じられない思いでお寧を見た。
苧環くりかえし 夏野 @cherie7238
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