林檎が好きな吸血姫の終わりなき旅~不条理な世界で見つけた希望の果実~

柿うさ

第1話 始まりの夜明け①

 ヘレンティーユ牢獄の雑居房は、無機質な冷たさがすべてを支配している。

 石造りの壁は粗雑で、冷たい湿気が肌にまとわりつく。

 無表情な灰色の石は、長年の風化でところどころ剥がれており、押し寄せる静寂に沈んだ廊下からは、かすかな水滴が落ちる音だけが響いている。


 夜の暗さは重く、絶え間ない沈黙が恐怖と孤独をさらに煽る。

 闇の中で唯一の光源は、廊下に並んだ松明の揺らめく炎と、格子窓から漏れ入る微かな月の光だ。

 その月光は冷たく、廊下に薄く白い線を描き、牢獄の重い空気にわずかながらの生命を与えている。


 雑居房の鉄格子から差し込む月の光が、牢内に陰影を作り出し、二人の囚人の姿をぼんやりと照らしている。

 暗がりに座る青年は、引き締まった体つきをしているが、その肩はどこか疲れた様子を見せている。

 彼の髪は黒く、無造作に乱れており、その瞳は鋭くも憂いを帯びた光を放つ。

 長い間拘束されていたかのような、ぼろぼろの服が彼の強靭さと同時に、過酷な日々の名残を物語っている。


 対して、もう一人の囚人は、その場に似つかわしくないほど美しい少女だ。

 彼女の白よりの金髪は、まるで月の光をそのまま身に纏ったかのように輝き、細く長い髪の一房が肩に滑り落ちている。

 彼女の肌は透き通るように白く、頬に影を落とす月明かりが、その美しさを一層際立たせている。そして、その特徴的な赤い瞳は、静かに何かを見つめるように淡く光り、まるで深い情熱と冷徹さが同居しているかのような不思議な印象を与える。

 彼女の姿は、この無機質な牢獄の中ではあまりに異質で、まるで囚われの姫のような存在感を放っている。

 冷たく暗い牢内でありながら、彼女の美しさが唯一の温もりのように、空間に静かな輝きをもたらしている。


 青年は、石の壁にもたれかかりながら、ちらりと隣に座る少女を見やった。

 松明の火が揺れるたびに、その白金の髪が光を帯びてちらつく。

 少女の存在は、牢獄という現実の中でそれほどまでに異質だった。

 彼女の静けさが妙に気になったのか、それとも単に退屈しのぎか、彼は口を開いた。


「君みたいな子が、なぜこんなところにいるんだ? 俺みたいなちんけな物取りとは違うだろう」


 軽い口調だったが、その言葉にはどこか警戒が混じっていた。

 青年の目は、彼女がただの少女ではないことを感じ取っていたのだ。

 彼女は膝を抱えて指を組んだまま、しばらく沈黙していた。

 月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、その赤い瞳が静かに青年に向けられる。


「長い話になるわ」


 彼女はゆっくりと、しかし確実な口調でそう告げた。


「どうせ、寝る以外にやることもない。時間はあるさ」


 青年は少し肩をすくめながら言った。

 彼もまた、何かを紛らわせたい気持ちがあったのかもしれない。彼女の静寂の中に隠されたものに、妙な興味を惹かれていた。

 再び彼女は口を開く。重々しく、まるで自分の記憶を掘り起こすように。


「今まで……私が何人殺したと思う?」


 その言葉が部屋に響いた瞬間、青年は驚きのあまり何も言えなくなる。

 彼の眉がわずかにひそめられ、彼女の顔を見つめたまま、言葉が出てこない。

 美しい外見とはかけ離れた、無情の告白に、冷たい現実が彼の意識に深く食い込んだ。

 それを見た彼女は、微かに口角を上げ、続けた。


「実はね、私も覚えていない」


 彼女の口調は淡々としていた。

 青年はその語り口に異様さを感じつつも、耳を傾け続ける。


「私には、故郷がない。名前もない。記憶も……ない」


 彼女の瞳が遠くを見つめ、何かを追いかけているようだった。

 月明かりが彼女の白い肌を照らし、その赤い瞳が不気味に輝いている。


「一番最初の記憶は、戦場だった。呆れかえるほどの死体の山と流れ出た血の川、阿鼻叫喚の地獄絵図と表現すればいいのかな」


 彼女は一瞬、瞳を閉じた。まるでその情景を思い出しているかのように、わずかに息を吸い込んでから、淡々と続けた。


「……綺麗だったな」


 青年は一瞬、彼女が冗談を言っているのかと錯覚した。しかし、その顔には何の感情も浮かんでいない。

 彼女はその美しさと冷たさが、絶妙に調和している。


「それからね、私は強盗、殺人、何でもするようになった。生きるために? いいえ、そうじゃない。ただ……そうしたくなったの。子供って虫をイジメ殺したりするでしょ。あれと同じ衝動に駆られたと言えばいいのかな」


 青年は息を呑んだ。

 彼女の無表情の中に、恐ろしい過去が隠れていることを感じ取る。

 その語りは、遠い昔の出来事、歴史物語でも話しているようで、そこに罪悪感や後悔といった感情は微塵も感じられなかった。


「終いには、どこかの組織に所属する殺し屋になっていたのよ」


 彼女は軽く肩をすくめて笑ったが、その笑みには悲しみも憎しみも含まれていなかった。ただ、空虚な微笑みだけが浮かんでいた。


「確かそのときからかな……」


 彼女はぽつりと、微かに声を震わせた。


「セリカ・ヴァーレンハイトって名前を与えられたのは」


 その名前を口にするとき、彼女の声はどこか無機質で、名前に対する愛着や自我はまるで感じられなかった。

 それも当然だ。「セリカ・ヴァーレンハイト」という名は、誰かに望まれて付けられたものではなく、彼女にとって意味のあるものでもなかった。

 虚構の名前、ただの偽りの存在として与えられたものに過ぎない。それは、彼女自身の空虚さを映し出す、無意味な響きでしかなかった。


「何百人殺しても、何千人殺しても、私の中ではすべてが夢みたいなもので実感がない」


 青年は重さに耐えきれず、再び視線をそらした。

 セリカの語る過去があまりに非現実的で、理解できないというよりも、理解したくないという本能的な拒絶が湧き上がってきたからだ。しかし、彼女の次の言葉が、その拒絶の感覚をさらに深く押し込んだ。


「なぜだろう……なぜ私は何も感じなかったんだろう」


 その問いかけは、誰に向けられたものでもなく、ただ彼女自身の内に向けられていた。自分自身に対する答えを求めていたが、心の奥底には何もなかった。

 ただ、故郷も名前も記憶もなく、誰に望まれるでもなく、生きる意味を見出せない無意味な存在として、生命に何の意味も見いだせなかったのだ。


「私の心の中には……何もないからかな」


 セリカは冷たく微笑みながら、自分の心を無意識に指差すように、軽く胸に手を当てた。

 その動作は、自嘲するかのようであり、まるで自分自身の空虚さを確かめるかのようだった。


「私は誰にも望まれない、生きる理由もない……孤独だったのよ」


 彼女はその言葉をつぶやくように言い、しばらくの沈黙が続いた。

 孤独という言葉は平凡でありながら、彼女の口から出たとき、それは深い闇の底を覗き込むような感覚をもたらした。そして、その沈黙を破るように、少女は続ける。


「あの日も同じだった」


 赤い瞳は遠い過去を見つめているようだった。

 松明の火が揺らめき、彼女の言葉に合わせて影がぼんやりと揺れる。


「どうってことない仕事のはずだった。真昼間の路地で、私は何人目になるのかさえ覚えていない、どこかの誰かを待っていた。もちろん殺すためにね」


 セリカの声は平坦で、冷静そのものだった。

 その冷静さが、青年には逆に恐ろしく感じられた。

 命を奪う行為が、まるで日常の一部であるかのように、彼女の言葉は静かに続いていく。


「でもね、そのどこかの誰かが来る前に一人の青年が通りかかった」


 彼女の瞳が一瞬、月明かりに照らされて淡く光った。


「黒髪の青年だった。彼は、私のことを一瞥すると、外套をかぶっていた私を物乞いか何かと勘違いしたのかもしれない」


 少し皮肉げに笑ったが、その笑みも一瞬のことだった。


「今みたいに、私は体育座りをしていた。彼は私の前に歩み寄って、何も言わずに林檎を差し出して、去っていった」


 その瞬間の記憶を語る彼女の声には、わずかに柔らかな響きがあった。

 それは過去の出来事の中に、彼女が感じた唯一の温かみを思い起こしているかのようだった。


「気まぐれだったのか、奉仕の精神だったのかは分からない。ただ、その差し出された林檎を見たとき、なぜか私の口の中に林檎の味が広がった」


 彼女は目を閉じ、その味を思い出すかのように小さく息を吸った。


「それだけじゃなかった。そのとき、私は思い出したんだ!」


 セリカの声がわずかに高くなり、その響きには感情が込められていた。

 普段は冷静で、何も感じていないかのように振る舞っている彼女が、その瞬間だけは感情をあらわにしていた。

 青年はそんな彼女の変化に気づき、無意識に息を止めて耳を傾ける。


「週に一度、誰かが私にアップルパイを作ってくれていた。私は、それが大好きだった」


 赤い瞳が遠くを見つめ、まるでその記憶の片隅にある風景を追いかけているようだった。

 その横顔は、いつもの冷ややかで美しい表情とは異なり、わずかながらも温かみを感じさせる柔らかさがあった。

 彼女は、冷たくも美しい月光の中で、過去に戻ったかのようにその記憶を語った。

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2024年10月22日 18:30

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