エピローグ
朝から雨が降り続いていた。
せっかくの休日なのに、じめじめとして蒸し暑い。
気温はそれほど高くないはずなのに、俺の部屋は人いきれでむっとしていた。
リビングから担いできた座卓を俺と妹と茜姉と、それから優実で囲っていた。
座卓の上には教材や文房具が散乱している。
「さあ、試験まで時間がないから、今日もびしばしと行くよ」
「は、はいっ」
茜姉が言うと、優実が緊張したように返事をする。
もう何度も顔を合わせているのに、まだ茜姉に人見知りしているのが微笑ましかった。
一方、茜姉は優実の生真面目さや素直さに好感を抱いているようだった。
優実がほんの数週間前まで白に近い金髪だったと教えれば、きっと仰天することだろう。
面白半分で
優実はあの後すぐに髪を黒に戻し、ピアスを外した。
穴はあけたばかりだったらしく、もうほとんどふさがっているそうだ。
俺は真崎のほっとしたような表情を思い出す。
「転入試験はいつだっけ」
俺は誰にともなく訊いた。
「八月の十一日」
教科書に視線を落としたまま妹が答えた。
ちらっと見ると、徳川家康の顔に落書きしていた。
何してんだよ。
よく見ると俺の教科書だった。
いや、ほんとに何してんの。
「受かりますかね」
優実が気弱なことを言う。
「時間はないけど、詰め込めば間に合うと思うよ。理解も早いし物覚えもいいし、私も一所懸命教えるから」
茜姉がぐっと拳を握る。
優実は頷いたけれど、表情は強張ったままだった。
「受かる受かる。平気平気」
「またお兄ちゃんは、いい加減なこと言って」
妹の言う通り、なんの根拠もない無責任な発言だ。
でも優実にはそれが必要なんだと思う。
優実は他人に対して依存心が強い。
周りに合わせて髪を染めたりピアスをあけたりするのがその顕著な例だ。
環境によっては何色にも染まってしまう。
よく言えば純真で、悪く言えば意志薄弱だ。
だから誰かが言ってやるべきなのだ。
「大丈夫、何も心配しなくていいから」と。
晴香の中学に転入しないか、と優実に打診したのは俺だった。
嶋中の脅威を排除しても、周囲の環境が改善されたわけではないのだ。
いろいろ考えたんだけど、それ以外に解決策が浮かばなかった。
もちろん俺の一存で決められることではない。
一番の問題は学費だ。
こればかりは優実が家族と話し合うしかなく、手助けや助言ができなかった。
幸いなことに、優実の両親は快諾してくれたようだった。
初めは茜姉にお願いしてワンツーマンで試験対策をするつもりだったのだけれど、優実に「お兄さんも一緒に教えてくれませんか」と恥ずかしそうに頼まれたのだ。
初対面の相手と二人きりになるのが気まずいのだろうと察し、俺も同席することにした。
すると妹も楽しそうだからと勉強会に加わるようになり、現在に至る。
茜姉の都合次第だけれど、週末になると、こうして俺の家に集まっていた。
夕刻になり、散会する。
「あの、ありがとうございました」
優実は毎回、律儀に頭を下げた。
こちらが恐縮してしまうほど丁寧に。
「お兄ちゃん、駅まで優実ちゃんを送ってくるね」
「ああ」
一人になると、窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。
風があり雨が入ってくるが、仕方がない。
窓の傍から本を避難させる。
もう梅雨入りしてかなり経つけれど、このじめじめした空気には一向に慣れなかった。
三十分ほどして、妹が帰宅した。
すぐに俺の部屋を訪れベッドに腰掛ける。
「雨やだねー」
「そうだな」
「お兄ちゃんはインドアだし、そんなに困らないんじゃないの」
「そんなことねえよ。走りに行けないし、洗濯物は乾かないし」
「あー、洗濯物は大変そうだね」
妹は靴下を脱ぎ部屋の隅に放った。
湿っていて気持ち悪かったのだろう。
「優実ちゃん、受かるかな。受かって欲しいな」
妹は独り言のように言った。
「同じ学校に通えるもんな」
「それもあるけど、今の学校から早く離れてほしいんだよね。この辺の公立中学って、荒れてるところが多いって言うし」
伝聞なのは妹が実際に公立中学に通ったことがないからだろう。
「そうだな。俺のとこも、かなり荒れてたし。ガラスとか毎日のように割れててさ。いくら新調してもキリがないからって、最後の方はガラスの代わりにベニヤ板はめてたからな」
「うへぇ」
妹が心底嫌そうな顔をする。
俺は何の気なしに言った。
「よかったな、今の学校で」
「うん。というか、だから受験したんだけどね」
「え、そうなの」
初耳だ。
驚いて
「女の子に囲まれて学校生活を送りたかったとかじゃなくて?」
妹は噴き出した。
「そんなわけないじゃん。公立中学にだって女の子はたくさんいるんだし、なによりそんな理由で、小学校からの友達と離れ離れになることを選んだりしないよ」
「そうか、そりゃそうだよな」
「そうだよ。お兄ちゃんだって、お父さんに私立の中学に行くように言われてたでしょ」
「ああ」
よかった、妹が女子に囲まれて学校生活を送りたいがために受験するような変態じゃなくて……。
ほっと安堵の息を吐くと同時に、ふと疑問が沸いた。
「ん? なんだよそれ」
「なにが?」
俺はさきほどの妹の言葉を頭の中で反芻した。
お兄ちゃんだって、お父さんに私立中学に行くように言われてたでしょ。
「……それじゃあまるであの人が、俺を荒れてる中学に入れないために、受験させたみたいじゃねえか」
妹はきょとんとした。
「そうだよ。そのために、お父さんは私たちを私立の中学に入れようとしたんだよ」
俺は鼻で笑った。
「そんなわけないだろ。だってあの人、俺が受験に失敗してから、しつこいくらい学校はどうだ、真面目にしているかって言ってきて」
「お兄ちゃんがイジメられてないか心配してたんだよ!」
その声の大きさに、妹自身が驚いていた。
ハッとし、声を幾分落としながら、それでも強さを残したまま続けた。
「だってお父さん、よく私に言ってきてたもん。『あいつに変わった様子があれば、すぐに教えろ』って」
妹の声が、脳裏で父の武骨な声に変換される。
「いやでも、俺が高校に入ってからは急に何も言ってこなくなったし、会話だって全然しなくなって」
「お兄ちゃんがお父さんを避けてるんでしょっ。……それに、お兄ちゃんの高校にはマチさんがいるし」
「マチさん?」
「橘先生」
元ヤンの噂がある担任教師を思い出す。
なぜここで、あの人の名前が出てくるのだろう。
俺は黙って頷くことしかできなかった。
「
「え?」
「だから、その繋がりで、お兄ちゃんの学校でのことはお父さんの耳に入ってるの。お父さんは、妻子のいる身分で若い女性と個人的な連絡は出来ない、なんて堅い事言うから、連絡を取り合ってるのは私なんだけど」
「……ああ、だからお前、俺の高校のことにやたらと詳しいのか」
俺のクラスに留学生がやってくる、なんて話も、事前に聞いていたのかもしれない。
妹はしまった、と顔を強張らせた。
しばらくあたふたしてから、
「そうだけど、なにか?」
と開き直る。
俺はなにも答えられず、ただ部屋の隅をじっと見つめていた。
古い過去の記憶が蘇る。
提灯の淡い光と、軽快な祭り
記憶の劣化に伴い、幻想的な風景を作り出していた。
幼い日の、祭りの夜だった。
そうだ、思い出した。
俺はあの時、父に背負われていたのだ。
俺がベビーカステラに興味を抱いたことに気づき、父は足を止めた。
そして肩越しに俺を見る。
その目に宿る穏やかな色に、俺はぬるま湯に漬かるような安堵感を覚え、気づいた時には眠りの中に落ちていた。
なぜそのことを、今の今まで忘れていたのだろう。
「……お兄ちゃん?」
覗き込んできた妹が、何かを察してそっと部屋から出ていった。
本当に、気が利く妹だ。
みっともなく泣いてる姿を妹に見られたいと、ましてや慰められたいと思う兄は、きっとこの世にいないだろう。
パタン、と優しく扉が閉められる。
もう駄目だった。
耐えられなかった。
*
その日の夜。
俺は久しぶりに家族と食卓を囲った。
約一年ぶりのことだったから、かなり勇気が必要だった。それでも俺は、一歩を踏み出した。
階下に下りてリビングの扉を開けたところで妹と鉢合わせる。
ちょうど俺の部屋に食事を運ぼうとしていたところだったらしく、手にはトレイを持っていた。
今日は鶏の唐揚げのようだ。
刻みネギの浮いた味噌汁と鮮やかなサラダ。
それから白いご飯。
妹はきょとんと俺を見つめてから、心底嬉しそうに微笑んだ。
踵を返し、三人分の食事が用意されたダイニングテーブルの、ぽっかりとあいた空白に、俺の分の食事をのせていく。
俺は無言で近づいて、自分の席に腰を下ろした。
隣に妹がいて、向かいに父が、斜向かいには母がいる。
初めこそぎこちなかったものの、妹が執り成してくれたおかげですぐに和やかな空気になった。
両親はどこか嬉しそうで、母に至っては少し涙ぐんですらいた。
大袈裟だなと思ったけれど、それだけ気苦労をかけていたのだと気づき申し訳なく思った。
父は相変わらず無口だったけれど、記憶にあるよりもずっと表情が豊かだった。
会話はやがて、俺の進路の話になった。
母が言う。
「大学はどこ行くか決めてるの?」
「いや、まだだけど」
「お兄ちゃんね、大学行く気がないんだって」
「おい、なにチクってんだよ」
妹はしれーっと無視して味噌汁をすすった。
母は困ったように微笑み、首を傾げた。
それは母の癖のようなもので、その仕草が俺はどうも苦手だった。
何と言うか、母の女性的な部分が垣間見えるのだ。
若いころに、そうやってたくさんの男を籠絡してきたんだろうな、みたいな。
「どうして」
「いや、まだわかんないけど」
「やっぱり、このご時世だし、大学くらいはちゃんと出ていた方が……。ねえ、あなた」
母は父に同意を求めた。
母はよくそうやって、父の後ろ盾を得ようとするのだ。
苦いものが胸の内に広がり、自然と伏し目がちになる。
けれど父が口にしたのは、母の意に沿うものではなかった。
「大学が全てじゃないさ」
「いいのかよ」
俺は反射的に尋ねていた。
視線が合う。
父の顔を、久しぶりにまともに見たような気がした。
その目には、あの祭りの夜と同じ穏やかな色が、確かに宿っていた。
「行きたいなら行けばいい。四年間の学費くらいは用意してある。早く独り立ちしたいなら、高校を卒業してすぐに働き始めてもいい。専門学校というのも一つの手だ。手に職をつけるのだって立派なことだ。もしやりたいことが見つからないなら、見識を広めるために世界中を旅してみるのもいいだろう。もちろん、安全に十分配慮していたらの話だがな」
父は言った。
ぶっきら棒に。
まるで突き放すように聞こえる声音で。
「好きにしろ、お前の人生だ」
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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
こちらは新人賞用に製作したものなので、これで完結となります。
これまでを一巻とすると、全六巻になるように構想を練っていた話なので、いつか続きを書く機会が来たらなー、と密かに願っております。
応援してくださる方は、ぜひ最後に⭐︎⭐︎⭐︎をよろしくお願いいたします!
妹の妹による妹のためのハーレム計画 相上和音 @aiuewawon
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