≪Babel≫

柊木ふゆき

≪Babel≫

 イヤホンを通してケイティの声を初めて聞いた時、その芯の通った低い声をとても美しいと思った。《Babel》によって変換された日本語は当然のことながら流暢なのだが、意図がはっきりとストレートに伝わる言葉選びに新鮮さを覚えた。愛想が良く礼儀正しい女性だった。香港出身の母親を持つケイティの髪と瞳は黒く、顔立ちも何処となく親近感を覚えるものだった。交換留学の条件で、ホストファミリーとして提携校の生徒を迎えることになった私は、数ヶ月前から文面でのやり取りを続けていた。事前に送られてきたプロフィールも、写真も確認していたが、それらは薄ぼやけた印象として、実在するかわからない頼りない存在として認識されていた。まだ秋の影も見えない、暑い八月の終わり、母の運転する車で空港へ向かい、本物のケイティを目にして初めて、それらの情報はケイティという実体に変化した。

 写真を見ていても、ゲートから出てくる人々の中から彼女を見つけ出すのは難しいことだった。私と母が首を左右に揺らしたり、背伸びをしたりして必死に探している間に、ケイティの方が先に私たちを見つけて、微笑みながらこちらに歩いてきた。ケイティは大きな赤いトランクに、ボストンバッグとリュックサックを持っていた。ケイティは遠慮したが、私はトランクを、母はボストンバッグを半ば強引に預かって、車へ向かった。

 道中、会話はそれほど弾まなかった。母と私は当たり障りのないこと、フライトの話や、彼女の母国の話、留学のきっかけなどを尋ねたが、彼女は短い言葉で端的に答えるので、すぐに沈黙に行き詰まった。狭い車内は、他の場よりもいっそう人を内気で不器用にさせる。

「時差もあるだろうし、まだ走るから寝ていてもいいのよ」

 と母が言うと、ケイティはドアの方に頭を傾けて眠ってしまった。おそらく本当に眠かったのではなくて、気をつかったのだろう。

 家にたどり着いた頃には、夕方の四時を過ぎていた。家で待っていた父が、荷物を降ろして二階に運ぶのを買って出てくれた。ケイティは、姉の部屋に滞在することになっていた。姉の部屋は私の部屋の隣にある。姉が結婚して引っ越した後、少しだけ物の減った姉の部屋は、そのままで、二週間に一回くらい私が空気を入れ替えて掃除機をかけるのがここ数年の習慣だった。ひとつだけ使わない部屋があるのも勿体無いし、姉はほとんど帰ってこないので、何か別の用途に使用しようという話は何度も持ち上がったが、重い勉強机やベッドを撤去して、服や小物や本類といった荷物を整理するのは手間のかかることで、なかなか腰が上がらなかった。そうして何年も経って、私の家でケイティを受け入れることになり、私たちは「部屋あのままにしてて良かったね」と笑い合った。

 ひとり増えただけで、家が随分賑やかになるように私には感じられた。これから半年の間、これが日常になるわけだが、まだ来客のある日の特別な気分だった。ケイティの存在によって、家の空気や明るさまで変容したように思えた。

 夕飯の準備をする間、リビングでいるか、部屋でゆっくりするか尋ねられたとき、ケイティは来客に慣れない私たちの気持ちに配慮して、部屋に上がっていった。喜びや期待とともに気詰まりを感じていた私たちは、ふうと息をついた。特に母はそうだった。

「いい子ね」

 気楽になった母が言った。

 その日は私たちとケイティの共同生活の第一日目だったので、これから半年間続く習慣の下ごしらえとしては大切だが、足元をしっかり固めるには余裕があった。私たちは学校を通して交換されたプロフィールと車中での短い会話以外の材料を持たず、何かを組み立てるには、まだ足りなかった。日本らしく、かつ歓迎の意を示せるようにということで、夕飯はすき焼きになった。かつては姉のもので、今はケイティのものとなった部屋の扉の前に立ったとき、私はいまだ浮遊するような非日常の中にいた。扉には私が手書きで作ったネームプレートが掛けられている。並んだ二つの扉はそっくりなので、ケイティが間違ってしまうかもしれないし、ネームプレートがあったほうがきっとケイティも歓迎されていると感じられると思ったからだ。私は今までノックなんてしたことのないその扉をコツコツと叩いた。

「はい」

 ドア越しでもよく聞こえる声が答え、すぐに扉が開いた。瞬間、嗅ぎ慣れた姉の部屋の匂いにまじって、なんとも言えないスパイスのような香りがした。ケイティの匂いだろう。

「夜ご飯だよ」

「ありがとう」

 私が先に立って、一列に並んで階段を降りた。階段まですき焼きの甘くて芳ばしい匂いがのぼってきていた。

「すき焼き?」

 弾んだ声だったので、顔が見えなくても喜んでいるのがわかった。

「うん。食べたことある?」

「両親と旅行に来たときに食べたの。とても美味しかった」

「お店で食べたのはそりゃ美味しいだろうなあ。うちのも舌に合うといいけど」

 リビングに入ると、両親が同時に顔を上げた。母は満面の笑みで、大袈裟に声を高めて「ケイティ」と呼びかけた。

「よく休めた?」

 ケイティは落ち着いた声で「ええ」と答えた。テーブルの真ん中には、黒く浅いすき焼き用の鍋ののったガスコンロが置かれ、すでに具材がぐつぐつ煮えて湯気が出ていた。四人分並べられた小皿と茶碗と箸はどれも最近買った新しいものだ。私はケイティを促して、二人で並んで席に着いた。私の向かいは父の席、ケイティの向かいは母の席だ。全員が座ると、一瞬間が空いた。みんながみんなタイミングを推し量っているようだった。ケイティと目があった父は、弱気な笑みで会釈した。ケイティは絶えず浮かべている微笑みを深めた。落ち着いているのはケイティだけで、迎える側の私たちはみんな動揺してはにかんでいた。

「それじゃあ、いただきます」

 母が言うと、私たちは口々に「いただきます」と続いた。

「ケイティ、お箸は使えるよね?」と父が尋ねた。

「はい。母は香港人なので。うちでもお箸をよく使いますから」

「すき焼きも食べたことあるんだって」

「カナダで?」

「日本に旅行に来たときです」

「いつ?」

「一昨年です。すき焼き専門のレストランに行きました」

「料亭? 料亭のすき焼きなんかにかなうかしら……。ああ、卵の殻はちょうだい」

 最初の質問以降、会話に入れないでいる父は、箸を口に運びながら、横目でテレビを見ていた。両親ともにテレビが好きなので、うちのリビングでは常にテレビがついている。今日は音量は小さめだ。毎週やっている音楽番組がかかっていた。

「このアーティスト、知ってる」

 ケイティが指差して示したのは、アニメの主題歌なども歌う、最近人気のロックバンドだった。

「友人がファンです」

「カナダでも日本の番組はしてるの?」

「どうでしょう?  私の家にテレビはないので。友人はいつもラップトップで観てますね」

「まあ、テレビないの」

「ええ」

 波に乗ったと思ったら、また沈黙。私はこの、何か喋らなくてはいけないと思って焦り、余計に胸が詰まって何も言えなくなる沈黙が苦手だった。テレビの音のおかげで、かろうじてそれは軽減されている。話題がなくなると、うちではみんな自然とテレビの方を見る。いつもは手持ち無沙汰になるからだけど、今日は沈黙から逃れるためだ。私たちは無言で、テレビに視線を釘付けにして、箸を動かし続ける。この空気が一番堪えるのは、客人であるケイティだろうと思うが、案外に彼女は平気そうな顔ですき焼きを堪能している。

 夕飯の後順番に風呂に入った。もちろんケイティが一番風呂。母は今朝、いつも以上に風呂場もトイレも掃除していた。私が風呂に入っている間に、ケイティは自分の部屋に戻ったらしく、タオルを首からかけてリビングに入ると、両親しかいなかった。

「ケイティちゃんにお茶持って行ってあげてくれる?」

 母は温めた、ケイティ用に買ったマグと私のマグ、をお盆にのせて、ティーバッグの入ったポットにお湯を注ぎながら言った。入浴後にお茶をして一息つくのが私の家の習慣だった。

「何淹れたの?」

「アールグレイ。ケイティは紅茶の方がいいと思って」

 お盆を持って部屋を出ようとする私に、母が「あっ、《Babel》つけた?」と声をかけた。私は耳が見えるように顔を傾けた。

 ノックするとケイティは「はい」と返事をして、ガタガタと物音を立て、しばらくして扉を開けた。

「お茶飲む?」

「もちろん」

 ケイティがお盆を受け取って部屋に入ったので、私は一瞬躊躇して、部屋に入った。ケイティの来る前に家具以外は全部外に出してしまったので、少しもの寂しい室内だった。入って右手がすぐ壁で、備え付けのクローゼットがあり、左手には勉強机と大きな木製の簞笥が扉側の壁に向けて置かれている。その背後にベッドが、こちらは扉から見て向かいの壁に沿ってある。ベッドの横には出窓がある。ケイティはすでに荷解きを終えていた。おそらく、私たちが夕食の準備をしている間にしたのだろう。本が何冊か、勉強机の棚に並んでいる。勉強机の上には友人との写真が、ベッド脇の出窓には家族写真らしいものが、シンプルな木目模様の写真立てに入れて飾られている。タンスの上にはスキンケア用品やメイク道具などが、几帳面に並べられている。大雑把で物が多かった姉の部屋とは、広さも家具も同じなのに全く違う部屋に見えた。

「アールグレイね」

 ケイティは、お盆を持ったまま、ポットに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をして笑った。

「匂いでわかるの」

「うん。お茶好きだから」

「すごい。私は紅茶かなってことしかわからない」

 ケイティは返事の代わりに微笑んだ。勉強机にお盆を置いて、お茶を注ぐ。

「一緒に飲むでしょ?」

「うん、あ、ごめん。ありがとう」

 お客に給仕させてしまっていることに気付いて、私はバツの悪い気持ちで言った。

「どうして謝るの?」

 どうして、と言われても答えを持たず、私は情けない笑みを浮かべることしかできなかった。

 部屋には勉強机と付属の椅子以外、ベッドしか座る場所がなかった。カーペットを敷いているので床に座ることはできるが、そうするとマグを置けない。私はクローゼットに、姉が昔使っていた折りたたみ式のローテーブルを置きっぱなしにしていたことを思い出した。

「クローゼットにテーブルがあるから、出していい?」

「お願い。ありがとう」

 テーブルは部屋に合わせて淡いピンク色だった。私はそれをクリーム色のカーペットの上に置いた。クッションは無かったが、毛の長いカーペットなので、直接座るのはそれほど苦ではない。ただ、夏場はクーラーを付けていないと蒸れて暑い。私は扉側に、ケイティはベッド側に向かい合って座った。ケイティが私に差し出したマグは私のではなくケイティのだったけど、それをわざわざ言うのは気が咎めたので黙っていた。ケイティのために買ったマグは、花柄の美しいもので、私のは長年使っている黄色い水玉のものだった。

「お茶はよく飲むの?」

 何か話さなければと思った私は、とりあえず先ほど話題に上ったことを口にした。

「うん。お母さんも好きだから。紅茶も飲むし、日本のお茶も飲む」

「へえ」

 私はマグに口をつけた。淹れたての紅茶はまだ熱くて、少し口に含んだだけでテーブルにマグを戻した。

「奈緒のお母さんも、お茶が好きなの?」

「うん。お母さんはお茶好きだね。私の家では毎日こんな風にお風呂あがりにお茶するんだけど、それもお母さんが飲むついでに淹れてくれるからなの」

「そうなの」

 両親がいないと、歳の近いもの同士の馴染みで、会話が随分しやすいように感じられた。それでもぎこちなく、沈黙は胃をキリキリと痛くするが、テンポがずっといい。

「ケイティって、家では何語で話すの?」

 これはふと湧き出た疑問だった。ケイティの母は香港出身だと聞いている。もしかしたら、ケイティも中国語が話せるかもしれない。あるいは、家でも《Babel》を使ってたりするのだろうか。

「英語だよ」

「お母さんとも?」

「うん」

「中国語は話せるの?」

「広東語は少し。勉強したから。でもカタコト。日本語よりはマシかな」

「広東語?」

「香港で話されてる言語だよ」

「へえ、香港の方言なの?」

「まあ、そんな感じ」

 ケイティはちょっと肩をすくめて、そっぽを向いて笑った。

「お母さんに教えてもらったの?」

「母は小さい頃からカナダに住んでるし、おじいちゃんとおばあちゃんには会ったことないの。だから、自分で勉強した」

 黒い髪と瞳のアジア人らしい見た目に親近感を抱いていだ私は、身勝手な話だが、内心残念に思った。ケイティにとって、香港というルーツがどれほどの意味を持っているのかはまだわからない。想像で埋めていた空白に、正しい情報が入ってくるたび、彼女の印象が変わっていくのはおもしろかった。

 一度調子付くと、会話は途切れることなく続いた。私たちには埋めるべき空白が山ほどあったので、上手く波に乗れば話題に事欠くことはなかった。共感と新鮮な驚きの混じり合った友情の姿がぼんやりと浮かび上がってくるのが見えた。ほとんど口をつけていない紅茶はすっかり冷めてしまっていた。私たちは、入ってきたときよりも親しい気持ちで「おやすみ」を言い合い別れた。


 それから、ケイティの部屋でお茶をするのが日課になった。大学が始まるまでまだ半月ほどあったので、バイトがない日は二人で出かけることもあった。両親が休みの日は車で遠出もした。ケイティは好奇心旺盛で、どこへで行くのも喜んでついて来た。それほどお喋りなわけではなく、自分が話したいタイミングで話し、興味が湧くと質問したが、場の雰囲気を読んで話題を率先して提供することはない。最初こそまごついたが、それがわかってしまえば、むしろ沈黙が心地よく感じられた。

「ねえ、《Babel》を切ってもいい?」

 数日後、いつものようにお風呂あがりのお茶を飲んでいる時、ケイティが言った。

「いいけど、どうして?」

 ケイティは耳の後ろをさすりながら答えた。

「日本に来たのは語学のためじゃないけど、私はあらゆることを吸収したいと思ってる。この半年間でね。日本語の練習もしたいの。でも、《Babel》なしで生活はできない。みんなあるのが当たり前だからよ。カタコトの外国人なんて、疎ましく思われるだけ。だから、あなたと練習したいの」

「日本語の授業はないの?」

「あるって聞いてる。けど週にたった三回。あなたとは毎日話ができる。ほんの三十分だけでいいの。お願い」

 断る理由はなかった。《Babel》なしに日本語話者でない人と話すのは初めてだった。物心ついた時にはすでに普及していた《Babel》は、よっぽど、生きていくのもままならないほどの貧困に陥っていないかぎり、大抵の人が持っている。《Babel》やタブレットの文字翻訳機能に頼りっぱなしの在日外国人が多いので、《Babel》なしでの生活は困難だ。友人の声でさえ、イヤホン越しに聞くことが多い。

 私たちはイヤホンを外した。つけている時間の方が長いイヤホンも、外してしまうと異物なのだと実感する。面倒なので家でもお風呂に入るまでは付けっ放しのこともしばしばある。イヤホンを通した音と、耳で直接聞いた音にそれほど差はない。ただ、耳の辺りの圧迫感に、イヤホンを外した瞬間気がつくのだ。こんな小さなビー玉ほどのサイズのワイヤレスイヤホンで、世界ががらんと変わってしまうのだから不思議なものだ。今の私は外国語話者の会話を理解し得ない。イヤホンを外したケイティは、日本語をどの程度理解できるんだろうか。突然、目の前にいる女性が、空港で出会った時よりもずっと遠い、異質の存在のような感覚に陥り、私はどう話を切り出すべきか戸惑って黙り込んだ。

「変な気持ち」

 苦笑して言ったケイティの声は、馴染みのあるものだったが、不自然なイントネーションのせいで全く別人の声のようにも聞こえた。

「そうね」

「奈緒の日本語、聞くのはじめて。変なの」

「英語に変換されて聞こえてたもんね」

「うん」

「どう?」

「どう?」

「日本語を話すのは、どう?」

「とても難しい」

 ケイティははにかんだ。私と同い年のはずなのに、年上の女性のように見えたケイティが、年相応に見えたのはその時が初めてだった。

 どの程度の日本語ならケイティがきちんと聞き取れるのかわからないので、会話は手探りだった。この数日でできあがりつつあった、聳え立つ塔のように頼もしく自立したケイティの人物像が、たどたどしい日本語のために揺らいだ。《Babel》を通して英語で話すケイティと、日本語を話すケイティは、モノクロカメラとカラーカメラで撮った写真みたいだ。同じものを写しているのに、全く別物に見える。言語の透明の壁の向こうにぼやけていくケイティ。《Babel》で変換された日本語のケイティと、何ものも介さないそのままの英語のケイティも同じくらい違うのだろうか。本物のケイティは、英語を話すケイティ? ケイティ、あなたは一体何者なの? あなたには私はどう見えているの?


 大学が始まると、昼休みと放課後以外はあまり会わなくなった。時間割が違うので、家を出る時間もバラバラだ。留学生のみの授業の日は、一限からなのでケイティは私よりも早く家を出る。三年生で授業の少ない私は、出来るだけ遅い時間の授業を取るようにしていた。朝が弱いからだ。大学までは電車で一時間ほど。昼前まで寝ていることもある。ケイティはいつでも八時には起きていた。

「どうしてそんなにたくさん眠れるの?」

 睡眠時間が短くても平気なケイティは、よく不思議そうに言った。

 お風呂上がりのお茶と日本語勉強会は続いていた。会話の練習に加え、大学の宿題を手伝うこともあった。ケイティの日本語レベルは、日常生活を送るには問題ない程度だった。時々言葉が出てこないことがあっても、簡単な単語で違う言い回しを用いることに長けていた。込み入った話題は避け、身近で易しい話題を中心に会話をするようにすると、受け答えもしっかりしている。ぼやけた霧の向こうに、一本筋の通ったケイティの思想が見えた。ふたりのケイティが次第に溶け合っていくのを感じた。きっと、そもそもケイティというのは複数なのだ。ケイティだけじゃなく、全ての人が。あるいは、流動体のように流れる場所によって形をかえるフレキシブルななにかなのだ。

 大学の創立記念日で休みだった日、私たちは百貨店のイベントホールで開催されていた蚤の市に出かけた。ヨーロッパを中心とした国のアンティークや手芸品を扱う店がいくつも並んでいる中で、ケイティは陶器でてきた、キャンバスのように四角い形をしたのに、優しい色合いの牧場の絵が浮き出ている置物を見つけた。

「これ、すごく素敵」

 ケイティは慎重な手つきでその陶器の置物を持ち上げた。店主がこちらを横目で見た。ケイティは陶器の表面のでこぼこを、指先でゆっくりなぞった。重い瞼の伏し目がとても魅力的に見えた。

「本当」

「目で見つめるのには限界があると思わない?」

 音を立てず、元の場所に陶器を置いたケイティは、私を振り返って言った。唐突だったので、私は返事を思いつかなかった。ケイティは構わず続けた。

「愛しく感じるものは、指でなぞって確認したくなるの。輪郭を指でなぞると、瞳では触れられないところまで深く触れることができる」

「わからない」

「人それぞれだよね。美術館に行くといつも思うの。この絵も触れることができたらなあって。名画ってどこか遠く感じるけど、そのせいだと思うのよね」

「ふーん」

 そのまま次の店へ向かって歩き出したケイティに、「買わないの?」と尋ねると、「相応の値段。でも手が出ない」とケイティは答えた。落としていけないので、そっとその置物を持ち上げて、裏の値札を確認し、私はすぐにそれを戻した。

 私たちはそのフロア内にあるオープンカフェでお昼を取ることにした。平日だったので、それほど混んでいない。ホットケーキやカツサンドのような、馴染みあるメニューのチェーンのカフェで、ランチメニューもある。私はオムライス、ケイティはピラフのランチセットを注文した。店員がメニューを抱えて立ち去ると、私は屋台のように店が連ねるイベントホールを見渡した。最上階に位置するこのホールは他の階より天井が高く、開放感がある。イベントは定期的に入れ替わり、季節に合わせたイベントが行われるときには、ホール全体が飾り付けされる。クリスマス時期は真ん中に背の高いクリスマスツリーが現れ圧巻の眺めだ。ホール全体に人々の騒めきが反響している。休日となると人がひしめき合い、騒めきはさらに高まり、ほとんど耳がおかしくなってしまう。話し声と話し声と話し声が混じり合って、言葉は要領を得ない。それに比べて、今の騒めきは静かな興奮のようなもので、不快感はない。

「何を見てるの?」

「いや、何も」

 私はぼーっとホール内を漂っていた意識をケイティに向けた。ぼーっとするのは心地いい。思考は自動で流れるBGM、ほとんど無意識になにかを考えながら、実際はなにも考えていない。考えてるのはきっと私じゃない誰かさん。誰かさんの独り言。

「奈緒はよく、上の空になるね」

「そうかな?」

「うん。離したら飛んでいっちゃう風船みたい。しっかり握ってて、私といるときはね」

 そう笑顔で言いながら、テーブルに右肘をついていた私の手を、ケイティは左手を伸ばして軽く触れた。二、三度さすって、ゆるく握りしめ、笑みを深める。

「奈緒はデイドリーマーね」

 ふと、先ほどの陶器の置物を触るケイティの滑らかな手つきと言葉を思い出した私は、その左手に込められた意味は何かと考え、一瞬息が詰まった。そしてすぐに、馬鹿馬鹿しい考えだとそれを一蹴した。

「夜も昼も寝てるのね。寝坊助さん」


 ケイティを意識しはじめたのはいつだろう?  手を握りしめられたとき?  はじめて《Babel》なしに会話したとき?  それとも、はじめて空港であったあのとき?  はっきりしているのは、私はあるふとした瞬間に自分の気持ちを、まるで天啓でも受けたみたいに理解したということだ。そうなってしまうと、まるで私は彼女のことを私の人生の始まりから愛していたかのような錯覚に陥ってしまった。そして、いつまでも、愛し続けるかのように。気付いてしまったことは取り消せない。一度見つけると、今まで気にもしなかった、すっかり溶け込んでいたのが、どうしたって気になってしまう間違いのよう。でもこれは間違いじゃない。愛情は突然湧いてくる。友情などの感情を隠れ蓑にして、私の肌の下を流れていた水脈が、少しずつ威力を増して、ついに溢れ出す。いつだってそうなのに、恋は私を驚かすのが大の得意だ。まさか、と思う瞬間にやってくる。そして離れてくれない。今までもそうだった。人を好きになるのは、それどころか、女の子を好きになるのはこれが初めてじゃない。恋愛に対して後ろめたさもない。だが、今回は別だった。ケイティは留学生だ。まだあと数ヶ月ある滞在が、私のせいで台無しになってしまう可能性がある。多分、私はケイティに思いを伝えないほうがいい。少なくとも、ケイティが帰るときまで。

 ケイティは意欲のある学生で、話すうちに一緒にいる人たちも感化されてしまう。あらゆることに興味を示すケイティとの会話は楽しい。私たちの就寝前のティータイムに、それとは別の楽しみを見出してしまったことに罪悪感はなかった。ケイティに知られなければいいだけの話なのだ。ケイティが帰るまでの時間を、存分に堪能できる立場に私はいた。

 私はケイティがあらゆる日本の文化に触れそれを手土産にカナダに帰ろうと意気込んでいるのと同じように、あらゆるケイティの側面に触れようとした。日本語勉強会も大事な時間だった。《Babel》を通さないケイティの声、仕草、その全てを愛した。もはや複数のケイティは別人ではなく、グラデーションになった一つの肖像画、見つめ、指先でなぞるべき愛しいものだった。ケイティが陶器の置物を撫でる指先の意味が、今の私にはわかる。それを教えてくれたのは、おそらくケイティの左手、私の風船を掴もうと差し伸ばしたあの手だったのだろう。


 すっかり家での生活に慣れてしまうと、ケイティはリビングに長居することが多くなった。私がリビングのソファで昼寝して、起きると、知らない間にケイティがソファの隅の方に座っていることもあった。自然と目覚めるときの、なにも覚えていない、赤ん坊のような状態が私には至福だったのだが、その上はじめに目に入るのが他の何者でもなくケイティであるというのは、とてつもない幸せだった。

 私たちはよくタブレットで映画やアニメを見た。リビングのテレビは両親が占領してしまっているし、私たちはシリーズものを一気に観るのが好きだったからだ。お風呂上がりのお茶の時間に、勉強そっちのけで見ることもある。そんな時は二人でベッドに寝転んで見た。レポートの提出があって寝不足だった日、いつものように二人で映画を観ている間に、私はつい居眠りをしてしまった。目覚めると、ケイティはもう映画を観ておらず、なにやらタブレットで検索しているようだった。私がケイティの方を向こうと寝返りを打つと、ケイティはタブレットから顔を上げた。

「あ、起きた」

 ケイティは両肘をついて寝そべっており、私は一つしかない枕を奪ってそこに頭を沈めたまま、ケイティの方を向いていた。

「寝坊助」

「寝不足なの」

 瞼が今にも落ちてきそうで、私はまた目を瞑った。気分が良く、このままもう一度眠ってしまいたかった。意識が落ちかけたとき、頬に何か触れるものがあった。私はそれが何か瞬時には分からなかった。反射的に目を開くと、ケイティが片肘をついて私の方を向き、もう片方の手で私の頬を撫でていた。ケイティはそのまま鼻やおでこに手を滑らせ、人差し指で毛の生え際をなぞった。そのまま耳の前を通り、顎をなぞる指がこそばゆい。

「何してるの」

「触ってるの」

 ケイティは顔を撫でていた手で、私の両頬をつかんで、声を立てて笑った。

「寝ちゃダメだよ」

「でも眠い」

「歯を磨かないとダメ」

 ケイティは立ち上がり、私を跨いで、ベッドの下に飛び降りた。まだ眠気が去らず、重い身体を私も起こして、目をこすり、しばらくそのまま動かないで座っていると、ケイティに腕を引っ張られた。ケイティに腕を引かれるまま、洗面所に向かう。

 歯を磨きを終えると、ケイティは再び私の腕を引っ張って二階に連れて行った。

「歩きながら寝ちゃダメだよ」

 私たちはケイティの部屋に戻って、一緒に布団に入った。電気を切る前に《Babel》を外し、ベッド脇の出窓に無造作に置いた。

 電気を消すと私たちは向かい合って寝転んだ。

「私、たまに奈緒の夢見るよ」

「私何語話してるの?」

「英語だったりする」

「日本語は?」

「たまに。でもあまり夢日本語でない」

 暗闇に目が慣れてくると、ぼんやりとケイティの顔の輪郭が見えてきた。私はなんとなく手を伸ばして、さっきケイティがしたみたいに頬に触れた。

「何してるの」

「触ってるの」

「なぜ?」

「そっちは?」

 答えを持たなかった私はそう切り返した。

「奈緒のこと大好きだから」

「私も」

「うそ。それ、まね」

 闇の中に、ケイティの白い歯が見えた。

「ほんとだよ」


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≪Babel≫ 柊木ふゆき @daydreamin9

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