梅香 ~うめがか~ (二)
結風香は、先ほどから良い香りを嗅いでいるように、ときどき鼻を上に向ける仕草を続けながら話を聞いていたが、本人は無意識の仕草だった。
「それから何十年もたったけれど、ひいお婆ちゃんからお婆ちゃんが引き継いだまま、その娘さんが取りに来るのを、ずっと待っていたのよ。
あなたも知っている通り、お婆ちゃんは一人っ子で、お爺ちゃんは入り婿だったから、建て替えてはいるけど、この家で待てたのね。
でも、その娘さんを知っているお婆ちゃんも亡くなってしまったから、この機会にこのノートをどうするか決めたいと思ったの。
娘さんを知る人がいなくなっちゃったしね」
そう言った母の声は、哀しみを含んでいた。
「その娘さんを捜して、これを返すってこと」と結風香は訊ねた。
「それができれば一番良いのだけれど…そうじゃないわ。
その娘さんはご存命でも相当なご高齢になっているし、これは私の考えで失礼だとは思うけれど、もう亡くなっていると思うわ」
「じゃあ、そのご遺族を…」
結風香の発言に、途中で母が言葉を被せた。
「それも、難しいかもしれないわね。
もし娘さんが家族に話していたなら、とっくに取りに来ているだろうし、今でもここにあるということは言わなかった可能性が大きいし、そもそもご家族がいないのかもしれない。
空襲があったり疎開があったりして、たくさんの人たちが、家族と生き別れになったり家族を失ってしまったりしていた戦争中の話だし、身元も分からないからね…」
それからしばらくの間、母は黙っていたが、やがて、
「それでね、私は読ませてもらっていないから、これに何が書いてあるのか知らないのよ。
それに、あえてひいお爺ちゃんじゃなくて、ひいお婆ちゃんに託したのには、あなたも察するとは思うけど、それなりの理由があったと思うのよ。
日記かもしれないし、何かの勉強用かもしれないけど、それなら他人に預ける必要なんてないから、戦争中のことだし、やっぱり他人に見られたくない日記みたいなものだと思うのよ。
これは私の考えでしかないけどね」と、最後の言葉だけはつぶやくように言ったが、戦時中のスパイ行為の記録だという、想像力を必要とする考えまで飛躍するには至らなかった。
「それで、どうして私に相談するの」
「それは、あなたの今の年齢が、私が知っている持ち主の娘さんがノートを置いていったときの歳と同じだから、これを読んで判断してほしいと思ったの」
「身元が分からないって言ったし、読んでもいないのに、どうしてその人の年齢が分かるの」
結風香は当然の質問をしたが、母の答は、
「年齢はね…、ひいお婆ちゃんが書いたっていうメモがノートに挟んであるのよ」という簡単なものだったので、結風香は「なぜそれに身元が書いていないのか」と思った。
母は、娘の表情からそれを察し、
「教えて貰ったのがそれだけだったのか、書けない理由があったのかは分からないわ」と言い、
「それで、私もあなたも戦争中のことを知らないのだから、同じ立場なら、今さら私が読むよりも、同じ年齢のあなたが読んだ方がより共感できて、良い判断ができるような気がしてね。
さっきも言ったけど、ひいお婆ちゃんに頼んだってことは、男の人には読まれたくないことが書いてあるかもしれないのは、あなたにも分かるでしょ。
だからお兄ちゃんたちには頼めないのよ」と続けて、そっと結風香の前にノートを置いた。
結風香は、母の口調に幼かった自分に語りかけていた頃の優しさを思い出しているような、柔らかい表情を浮かべていた。
そして、目の前に置かれたノートをそっと手に取った。
ノートを手にして気がついたのだが、その終わりの方は数ページが糊で貼り付けられ、封印されていて、そのままの状態で読むのは不可能だったが、それは母も当然知っているだろうと思い、それについては、あえて何も訊かなかった。
「このノートって、相当古いものよね」
結風香は、母に訊ねた。
「戦争中のものだからね」
「でも、これ、古いものだって言うのに、さっきから梅の香りがしているんだけど…」
結風香の言葉に母は驚きの表情を浮かべたが、同時に先ほどから娘が見せている仕草の意味が分かったようだった。
「埃っぽくはあるけれど、梅の香りなんかしないわよ」
今度は結風香が驚く番だった。
「しているじゃない、お母さん、分からないの」
母は、その言葉にほんの一瞬だけ焦りの表情を見せ、チラっとエプロンを見たが、すぐに、
「あなたは感受性が強いところがあるから、私の話を聞いて、このノートを見て、そしてお婆ちゃんのことを思い出して何かを感じたのかもしれないわね。
私が小さいときもそうだったけど、あなたも小さい頃はお婆ちゃんと一緒に、天神様にもよくお散歩に行っていたしね」と言った。
結風香は納得のいかない表情をしたが、特に反論はしなかった。
「とても綺麗で優しい方だったって、お婆ちゃんが言っていたわ」
母は結風香の沈黙を無視して言ったが、言葉を受けるはずの結風香も、その言葉に応えずにノートを見つめていた。
「さっきも言ったけど、私は表紙をめくったこともないの。
ひいお婆ちゃんが亡くなったときに初めて見て、綺麗だなと思ったけど、決して中は見せてくれなかったから、何が書いてあるのか全く知らないけど、メモだけは見せてくれたの。
もしかしたら、読めば身元か、それに近い何かが分かるのかもしれないけど、ひいお婆ちゃんも、お婆ちゃんも他人様のものを勝手に読むなんて、失礼なことはしていないんでしょうね」
母は繰り返し、内容について、自分たちは何も知らないと言った。
結風香は強く興味をそそられながらも、いくら預けられたままになっているとはいえ、他人の遺したノートを当人の了承を得ないで読むという後ろめたさを、その表情に同居させていた。
「そういうものを、私が読んで良いのかな」
手にしていたノートを正座した膝の上に置き、その上に両手を重ねた姿勢で結風香は問いかけた。
「さっきも言ったけど、お婆ちゃんが亡くなって、その娘さんを知っている人が居なくなってしまったから、この機会にこのノートをきちんとしておくのも、私たちの責任だと思うのよ。
もし、この娘さんが生きていらっしゃるならお返ししたいし、亡くなっていてご遺族がいらっしゃるなら、そのご遺族に返さなければならないと思うわ。
ただ、さっきも言ったけれど、ご本人もご遺族も、捜すのは難しいとは思うけれどね。
それで、引き取り手が分からないのなら、また考えなければならない。
実名を出してネットで捜すなんて失礼だし危険だし、どこか公的な機関に委ねるとかね。
このまま捨ててしまうのも、一つの選択だけど…」
「そうだね」
「あなたに全てを任せるのは荷が重いと思うから、あなたが悩んだときは私も一緒に考えるけれど、あなたが読んであなたが判断するなら、私はその判断を尊重することを約束するわ」
いつになく「知らない」と念を押した母の目は、真っ直ぐに結風香の目を見つめていた。
結風香はその目に、真実と母の強い決意を見取って深く頷いた。
彼女はノートを持ったまま話していたが、母が目前にいるその場ではそれを開かなかった。
母はノートについては、それ以上何も言わずに立ち上がって去ろうとしたが、立ち去る際に、
「もう少ししたらおにぎりを持ってくるわ。
話が長引いているんで、お昼は簡単なものにしたからね。
今年も、お婆ちゃんはあなたの大好物をちゃんと用意しておいてくれたからね。
今年のものが最後になっちゃったけど」との言葉を残した。
襖を閉めるその後ろ姿には、信頼する娘に全てを任せた親の力強さがあった。
部屋に残された結風香は、膝の上に乗せているノートを再び手に取った。
彼女は確かめるように鼻を近づけて、ゆっくり匂いを嗅ぐと、
「梅の香りがするじゃない」と小さくつぶやいた。
普段の彼女なら気がついたであろう疑問の簡単な答に、このときは全く気がつかなかったし、それに気がついた頃には、
「もう過ぎた話よ」と言って笑いとばし、多くを語らなかった。
このときの彼女は、祖母の見えない圧力を無意識のうちに感じ取って暗示にかかってしまい、彼女のなすがままになっていたのかもしれないし、それは母も同じだったかもしれない。
母はおにぎりを作っていて、そのエプロンにはピンク色の染みがあったのだ。
次の更新予定
風待草の香るとき あきよし あやひろ @akiyoshi_ayahiro
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