風待草の香るとき
あきよし あやひろ
梅香 ~うめがか~ (一)
残暑厳しい九月のある休日の午前中、東京都内の公立高校に通う二年生の小峯結風香(こみねゆうか)は、母の実家で、一人、スマートフォンで小説を読んでいた。
父母たち大人は、先日亡くなった祖母の遺産や今後についての話し合いをしているので、彼女や彼女の二人の兄、従兄弟たちは時間を持て余し、彼女一人を残して出掛けてしまっていた。
彼女も誘われたのだが、兄や従兄弟たちと出掛けても、彼女以外は全員が男で、彼女が楽しめる場所には行かないことが分かっていたので遠慮した。
幼少の頃から彼らと自分では興味の対象が違うと思っていたし、それは長じてからも変わらなかった。
会話も続かないのだから、一緒にいても気を遣ってしまい、お互いにつまらないだけだ。
直接そう言ったわけではないが、兄の一人が彼女の表情を見て、それを察したのだろう。
彼らは、強く誘わずに出て行き、それから一時間ほどが経っていた。
東京都下にある古い住宅の縁側までは、庭の木々の影は届かず、彼女は昼近い日光から逃げるように、クーラーの無い部屋の、日の当たらない所へ少しずつ移動していた。
古い扇風機が首を振っていて、何が当たっているのか、カタン、カタンと一定の間隔で音を出していた。
スマートフォンで小説を読んでいる彼女は、普段から印刷された本も好んで読んでいたが、この日は祖母の葬儀の直後でもあり、失礼になると思って、本の持ち込みを遠慮したのだった。
しかし、まさか時間を持て余すとは思ってもいなかったので、兄たちのように他に時間をつぶす手段もなく、以前から気になっていた電子小説を読み始めたのだった。
彼女は漫画も好んで読むが、それ以上に小説が好きだった。
以前、友人との会話で、それについて、あくまでも彼女の考えとして語っていたことがある。
漫画は、著者のイメージしたストーリーが、その画力と卓越したコマ割りで情景の描写を必要とせずに、視覚を通してテンポ良く進行していくのが良いと言っていた。
一方の小説は、著者が推敲を重ねた文章を追うことで想像力が刺激され、視覚に頼らないために、自分の経験や思想、思考、知識が自分なりの情景を作っていく。
様々なシーンが、漫画や映像になった場面を思い描きながら物語を読み進めていくことも、彼女の楽しみ方の一つだった。
それが著者の意図と多少ずれてしまっても、また実際に映像化されたときに自分の想像と違っても、制作者の思惑を尊重しながら自分の捉え方との差を、客観的に見て楽しんでいた。
視覚に頼らないので、著者の文章力や自分の読解力、経験や知識にも支配されることになり、百パーセント著者の思惑通りにならずに、読者の想像力に委ねる部分があることなど、ある程度、読者の自由を許す文芸の懐の深さは、彼女の好むところだった。
そんな彼女だったが、部屋にこもっての読書だけではなく、同世代の友人たちと出掛けるのも好きだった。
友人たちの様々な考え方は彼女にも刺激になっていたし、広く世間を見ることは、文字で表された小説の景色を、自分なりに想像するのにも役立っていた。
小学生の頃に、物語の時代や社会などの背景を知ってから本を読み始めることで、想像も広がり登場人物への共感も深くなると知った彼女は、ジャンルを問わずに様々な物語を読むために、兄たちの参考書や書籍なども使って、それぞれの背景を勉強しているうちに、歴史や地理、文化だけでなく、数学や物理などに対する理解も深くなっていった。
そしてそれは、論理的に思考する癖を彼女にもたらしてもいて、中学校に進学する頃の彼女は、学年でも上位の成績になっていた。
しかし、
「自分の楽しみのために調べるのだから、学校の勉強とは違うのだ」と、彼女はそこに一線を引いていることを周囲に言っていた。
もちろん、ファンタジー物語のように、読み進めていくうちにその世界に入り込み、イメージが広がっていく話も好きであったし、論理的思考を求められる推理小説もよく読んでいた。
そんな彼女でも、前述したような事前の準備もせず、なんとなく手に取った小説を読み始めることも普通にあったが、それまでの知識では足りないと思えばすぐに必要なことを調べて、それを充足させていた。
彼女は肌に突き刺さって来るような強い日光を避けた部屋の中で、スマートフォンの電子小説をしばらく読んでいたが、珍しく集中できないようで、このまま読み進めても文字を追っているだけだと気がつき、スマートフォンの画面から目を離した。
画面から目を離し、良い香りを嗅ぐように鼻を上に向けたのと同時に襖が開いて、お昼ご飯の用意をしていたのか、少し染みの付いた白いエプロン姿の母が部屋に入って来た。
「あなただけなの」
母は娘を見下ろしながら言い、娘の返事を待たずに、
「ちょうど良かったわ」と続けると、娘の前に座った。
「ひいお婆ちゃんから、お婆ちゃんが受け継いでいたものについて、相談があるの」
母は唐突にそう言うと、娘の前に、手帳より少しだけ大きい、色が褪せてしまっている古いノートを置いた。
表紙はアールヌーボー調のデザインであるが、右開きになっているので日本製だろう。
その表紙には綺麗な字で、
『西野悠子』
と鉛筆で書いてある。
突然のことに、結風香は目の前に置かれたノートを見つめることしかできず、母の次の言葉を待った。
ただ、母の雰囲気に若干の緊張を覚えたのか、わけも分からずに姿勢だけは正した。
母は少し間を開けてから再びノートを左手に取ると、その上に右手を乗せて静かに話し始めた。
「これは私のお婆ちゃん、つまりあなたのひいお婆ちゃんが、ある人から預かったノートなの」
そう言って結風香の顔を見たが、その表情は、突然の事態に面食らって思考が停止しているのか、それとも、これから何が起こるのか分かりかねているのか、無反応であり無表情だった。
「そして、あなたのお婆ちゃんが、その役目を引き継いでいたの。
でも亡くなってしまったから、私かあなたがその役目を引き継がなければならないの。
それが、必ず取りにくるって言った、このノートの持ち主である娘さんとの約束だからって。
そのことは、ずっと彼女を待っていたお婆ちゃんたちの無言の遺言でもあるのよ」
結風香は言われている内容は理解したが、そのノートがどのようなものかが分からないために黙っていた。
「本来の順番なら、当然、この家の長女である私が引き継ぐべきなのだろうけど、あなたの今の年齢がこれを託すのにちょうど良いと思ったから、あなたに相談したいの」
結風香は鼻をかく仕草をした。
「これは、何なの」
その言葉を聞いた母は、静かに話し始めた。
「このノートを預けていった娘さんは、この家にわずかな間だけいたって、聞いているわ。
私も生まれていない、もう随分と昔のことよ。
お婆ちゃんがまだ小学校に通う前、戦争が終わる数日前に、その娘さんは怪我をして、天神様の鳥居の、前の道に倒れているところを、ひいお爺ちゃんに助けられてこの家に運び込まれたんだって」
「このノートは、その娘さんのものなのね。
にしのゆうこさん…高校生なのかな…」
結風香の問い掛けに母は静かに、
「学生さんかどうかは分からないわ…今とは制度が違っていたらしいし…」と言い、続けて、
「それで、私も聞いた話でしかないのだけど…」と前置きをしてから、
「それから数日家で看病していたらしいんだけれど、娘さんの容体は悪くなっていくばかりで、結局病院に引き取られることになって、運ばれていくときかその前に、必ず取りに来るので預かっていてほしいと、ひいお婆ちゃんに頼んでこれを預けていったんだって。
お婆ちゃんは小さかったけれど、その娘さんのことを覚えていて、どんな怪我だったとかの話は覚えていないのか全くしなかったけど、今の話だけは私も聞いていたわ。
だから、私が知っているのは、今言ったことだけなの」と続けた。
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