第5話
平塚泉水の説明は分かりやすく、簡潔だった。
亜希子は、これから暮らす施設での部屋が、狭いとはいえ一人部屋であることと、高校卒業まで一切学費や生活費の心配をしなくていいことを知り、ほっとした。
「それからお父様の残された遺産に関しましては、すべて現金化したうえで、こちらで適切に運用させていただきます。元手もそれなりの額ですし、将来の大学進学や一人暮らしの初期費用に、かなり役立つかと思います」
「良かった~」
亜希子は素直に嬉しかった。
しばらくお金の心配をしなくていいことも。
そこに家族のお金が関わっているという事実も。
まるで、これからの生活を応援してくれているかの様な気がしたのだ。
「ところで、これから向かう施設は県外になります。もうしばらくはここに帰ってこれないので、今のうちにお別れを言いたい相手などいましたら、今のうちに連絡を取られた方がいいかもしれません」
ここで平塚泉水は少しだけ言葉を切った。
「たとえばお友達とか」
亜希子は少し考えこんだ。
頭はすっきりしていたので、答えを出すのにあまり迷わなかった。
亜希子は軽く首を振った。
「みんな、もうすぐ中学入学の準備で忙しいだろうし、今は止めときます。落ち着いたら、メールくらいはすると思いますけど」
「そう」
平塚泉水はにっこりと笑った。
「それがいいわ」
亜希子が軽い足取りで、迎えに来た施設の人間と連れ立って部屋を出ていくと、ちょうど入れ違いに一人の太ったスーツ姿の男が入ってきた。
中年の男で爽やかさはなかったが、どこかユーモラスな雰囲気をまとっていた。
「相変わらず素晴らしい」
軽く拍手しながら、男は本心からの口調でそう言った。
「先生のセラピー。確かあえて悪夢を見せることで、夢から覚めた時にむしろ現実世界を好ましく思わせるんでしたよね。いや、児童養護施設というだけで、みんな嫌がってね。どんなに施設の環境を良くしても、最初から否定の感情では、どうしても悪いところしか目につかなくなってしまうものでして」
平塚泉水はただ、うっすらと笑みを口に浮かべただけだった。
男はさらに続けた。
「いや、これならいっそ私も悪夢を見せていただきたいですよ。夢から覚めた時に、どんなにかホッとするでしょうな」
「およしになったほうがいいかと」
平塚泉水はそれだけ言うと、男の隣をすり抜けて、静かにドアに向かった。
「ああ、一つ聞きたいのですが」
「夢を見させる方法ですか? 他人を、意図的に睡眠状態に陥れる方法でしたら、薬物、一定の温度と湿度、経穴刺激、音楽、マッサージ、いくらでもありますよ。特定の暗示条件を満たせば、見させたい内容の夢を見させることも可能です。方法は職務上の秘密とさせていただきますが」
「いえ、私が知りたいのは、悪夢の内容についてなんです」
男の言葉に、ドアを開けようとした平塚泉水の手が止まった。
「見せている悪夢の内容は、すべて先生の完全な創作なんですよね?」
平塚泉水は一瞬振り向いた。
なぜか男の目には、平塚泉水の目がほんの少しだけうるんだように見えた。
それからすぐ、平塚泉水は部屋を出て行った。
男はその後ろ姿をしばらく見送っていたが、やがて先ほどまで亜希子が座っていた椅子に腰掛けた。
やけに夕陽が眩しかった。
男はこれまで、児童養護施設の経営者として、あるいは地元でも有力な学校法人、塾、予備校のオーナーとして多くの子供達を見てきた。経営が決して綺麗事ではないことも、年端もいかない子供というだけで無垢な善人なわけでもないことも、百も承知していた。
ただそれでも、あの子達のこれからが、幸せであることを願わずにはいられなかった。
もしそれが夢なら、神様、今度はずっと眠りにつかせたままでおくわけにはいかないのでしょうか?
男はしばしのまどろみを味わうかのように、ゆっくりと目を閉じた。
完
高潔なる悪夢 白兎追 @underscary
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