ep.11-3.密偵《スパイ》
定吉には、弥切は苦手な相手だった。
ある意味、助五郎よりも厄介な相手だ。
助五郎は感情の起伏が激しく、すぐに怒り出す分、考えが分かりやすい。
だが、弥切は違う。
全く感情が読めない‥
「
同情しているような弥切の口調、本気かどうかわからない。
「そんなことはありません」
「ソの河の工事が進んでねぇんだろ、そのことで言われなかったか?」
弥切が自分と世間話をしたいはずがない、一体、何の話をしたいのか分からないが...
「そのことなら、夏までに完成すればいいと、おっしゃってました」
「へぇ、オヤジは寛大だな、お前もそう思うだろ?」
定吉は返答に、ほんの一瞬詰まった。
「はい」
「嘘つけ」
驚いて弥切を見た。
弥切は、何事もなかったような顔で、店の親父におでんを注文している。
「おめぇも食えよ、俺のおごりだ」
「‥はい」
定吉には、弥切が「嘘つけ」と言った意味を問いただす度胸は無い。
「酒は?」
「いえ、今日はこれから現場に一度寄って、帰るつもりなんで」
定吉は酒の勧めを断る、が弥切はそういうことは気にしない。
助五郎なら怒りだしそうだが、タイプの違う
ちくわぶの熱さに「あち、っ」と、弥切が言いながら、咀嚼している。
弥切は、助五郎と定吉が何を話したかに興味があるのだろうか? ただの会話のつなぎのような気もする。
「由の話だろう?」
ドキリとした。
聞かなくても、全部お見通しなのだろう。
弥切は自分を呼び、一体、なにがしたいのか?
「そうです」
定吉は、俯き加減で呟く。
「そうか、お前はデキのいい
定吉の顔色が、ドス黒く変化している。
全く味のしないおでんが、胃の中に溜まっていくせいではない。
怒りで、喉元から腹の奥底まで、むかむかしているせいだ。
そんな定吉の様子を、弥切は冷たく眺めている。
その感情は、外からは見ても理解できないものだろう。
「由のところに女がいるだろう」
定吉は黙っていた。
(お前に云う必要はない)
もう、この男に殴られようが、どうされようが、どうでもいい。
席を立とうとする。
「まあ待て、言い過ぎたよ。そう怒るな、悪かったよ」
弥切は立ちあがろうとする定吉の腕を掴み、無理やり座らせると、肩をポンポンと叩く。
「親父、そこのこんにゃくと、たまごもくれ」
店の親父は、注文通りに皿にのせて弥切に渡し、それを弥切は、定吉の目の前に置く。
怒りがまだ収まらない定吉の顔を覗き込み、ニコリと笑う。
憎めない顔だ、人たらしとはこういう奴の事を言うのかもしれない。
「つるって女だ、夫は‥目暗の按摩、知ってるだろう」
「... ...知ってますよ」
定吉は、もうこの男と話をするなと言う自分と葛藤しながら、なんとか返事を絞り出した。
「そうか、お前、俺の仕事も頼まれてくれねぇか?」
「密偵ってことですか?」
「根に持つなよ」
ぽんぽん、弥切が肩を叩く。
「このずっと向こう、町はずれの安宿に、あの目暗が泊ってる。そこから、按摩の仕事に行ってるらしいが、おまえ知ってたか?」
遠くの今言った宿の方向を指さしながら、弥切は定吉の顔を見ている。
探るような弥切の目。
一瞬、正直に言うかを迷ったが、必要以上のことは言わないと決め、正直に答えた。
「知ってます」
弥切は、ニヤっと嗤った。
俺は、お前が知っていると分かっていた、そう言われてる気がした。
弥切は、全て調べた上で質問をし、その反応を見る。
正直に答えるか、どんな風に嘘をつくのか、その仕草、表情、ときには怒らせ、
「そいつに仕事先を世話してやれ、俺がその先を見つけてやる。心配するな、金払いのいい上客だ。それならいいだろ?」
「・・・その代わり、はなんですか?」
「按摩の様子を伝えてくれ、見たこと話したこと全て、食い物の好き嫌いまで、どんなくだらない事でもだ、お前が知った範囲でいい、あいつがどんな奴かを知りたい」
弥切は徳利を片手に、ぼんやりと前を見つめている。
その姿には、策略や計算は感じられない、定吉は初めてこの男が少しだけ、素の部分を晒しているような気がした。
「どうしてか聞いてもいいですか?‥」
徳利を傾け、手酌で杯に酒を注ぐ。
ゆれる杯のなかの酒を見つめながら、弥切が応えた。
「お前がそれを知って、なにか良いことでもあるのか?」
そう言うと弥切は、すっと懐から紙包みを取り出した。
それをテーブルに置き、定吉の方へ押し出す。
「なんですか?これ」
「金平糖、甘菓子だそうだ。妙に持って帰ってやれ」
定吉は、受け取るのを躊躇する。
これは、賄賂を受け取っているような気がする。
八九三は、こういう小さな何でも無い所から人の弱みにつけ込んで来るものだ。
「これは、俺の個人的な頼みだ。逆に言えば、
つまり
上手く話をするものだ。
弱みと言っても、何とでも言いわけが出来る、たいした秘密ではない。
「それだけだ」
弥切はそう言って話を切った。
定吉は押し黙り、考える。
(石さんを売りたくない)
目の前の六つ切り鍋のなかでぐつぐつと煮えるおでんを、会話の途切れた二人が所在なくただ、見つめている。
定吉が意を決して、この話を断ろうとするのを分かったかのように、弥切がその言葉の手前を遮り、話はじめた。
「俺の頼みは聞いておけ。俺は頼みを聞いてくれた奴のことを覚えている。必ずいつか得をすることになるぞ。それに、石を悪いようにするつもりはねぇよ。さっきも言ったが、ただ個人的に興味があるだけだ」
「‥知り合いですか」
にわかに弥切の言葉を信じることはできないが、どうしてもそれを聞いておきたくなった。
「さあな?、向こうは知らねぇだろう‥俺の片思いかもな」
弥切は、自分の表現に、気色悪そうに薄ら嗤いを浮かべた。
定吉は、逡巡する。
弥切の頼みを聞き、強いツテを築いておくのは、これからもこの土地で生きていくなら、悪い話ではない。
助五郎の一家のナンバー2とも謂われる代貸し、助五郎一家の裏仕事を全て仕切っている男。
心を許せない、相手に隙を見せない厄介な人間なのに、なぜかこの男の言った言葉は信用できる気がする。
おそらく上客を紹介してくれるのは本当だろう…それに石を害する気は‥無いように思えた。
どちらかと言えば、弥切は石に対して、敵意より憧れを抱いているような雰囲気さえある。
「わかりました。助五郎の旦那に報告する、そのついででいいんなら‥」
「構わねえよ」
弥切は、定吉を助五郎のように呼びつけるつもりはないようだ。
話はここで終わったなと思い席を立つ。
「おやじさん、ここにおいとくよ」
定吉は、自分が食った分の金をテーブルに置いた。
その意味は弥切に向け、あんたの言いなりになるつもりはないという意思表示だ。
弥切はそれを理解しただろうが、特に気にするふうでもない。
「これは、あんたの為に貰っときます。ちゃんと、妙に渡しますよ」
金平糖を置いて帰ることも考えたが、大事に包み紙で覆ってまで持ってきたものだ。
本心から、妙にやろうと思って持ってきたのだろうと思えた。
なにも言わず、弥切は箸を持ち直しておでんをつまみながら、酒を口にしている。
(よく分からない男だ...)
定吉が弥切を見つめていると、視線を感じたのだろう、定吉を振り向きもせず、杯を口に当ててままで不愉快そうに弥切が言った。
「なんだ?」
「いえ、...それじゃ帰ります」
定吉が、そう言って背を向けると、背後から声がした。
「子毛に来たら、必ず帰りに此処に来いよ」
定吉は、何も応えずそのままおでん屋から離れた。
一瞬、後ろからなにかされるかもと思ったが、なにもない。
しばらく歩いて振り返ると、弥切は店の親父と笑いながら話し込んでいた。
定吉は、棒鼻を過ぎて子毛山道へと出ると、すぐの小道へと入った。
最初から現場に戻るつもりはなく、帰り道に石のところへ立ち寄るつもりだったので、小道を
弦に石の様子を見て来て欲しいと言われていたのと、どこで得た知識がわからないが、物知りの石と話したいことがあったからでもある。
しばらく歩くと、遠くに竿を持ち、ひとり川岸で佇んでいる石を見つけた。
「石さん、釣れてるかい?」
定吉が声をかけると、石が答えた。
「ぼうずだよ。皆が飯の残り汁を撒くもんだから、あしのマズイ餌なんか食いつきやしねぇぜ」
石が本気で悪態つく姿を見て、定吉は笑った。
気分は少しだけ晴れやかになっている。
座頭の石 とおのかげふみ @to_nokagefumi
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