第5話




「いらっしゃい」


 翌日の土曜日。昼過ぎに相澤が恐る恐る家を訪ねると、笹埜が普段通りの調子で出迎えた。


 だが、普段と決定的に違うのは。アパートの廊下から差し込む陽光を受けて映える、デニムのエプロン。微かにカレーの香りがする。相澤は唖然としてその場に立ち尽くす。


 もはや昨日のような問答はない。笹埜は訝しがるように眉根を寄せ、大きくドアを開けた。


「何してんの? 入りなよ。それとも漏らした?」

「大丈夫、漏らす時は笹埜さんの枕元って決めてる――それより、それエプロン?」

「これがアウターに見える? それとも飛び跳ねたカレーを付けて出迎えればよかった?」

「ああよかった。いつもの笹埜さんだ。お邪魔しまーす」


 減らず口を叩く笹埜だが、相澤はそれにより本人認証を済ませて安心しながら中に入る。


 昨日はカップ麺の香りがしたワンルームも、今日は香ばしく炒められた野菜と溶かされたカレールーの香りがした。同時に、モクモクと湯気を出す炊飯器の米の香り。相澤が買って置きっぱなしにしていた木のまな板には野菜くずが残っており、包丁が無造作に置いてある。


「笹埜さんが料理?」

「殺害現場にでも見える?」

「炊飯器、昨日まで無かったよね。どうしたの?」

「朝一に家電量販店で買ってきた。徒歩で」

「行動力!」


 相澤は驚きつつ鞄をその辺に置いて防寒着を脱ぎ、普段の場所に畳んで置こうとして――部屋の隅にハンガーラックが新設されているのが見えた。ハンガーは二つ。笹埜が視線でそこを使えと促してくるから、嬉しそうに戸惑いながらそれを使った。


「鍋の中見ていい? ――ってうわ! 玉ねぎ大きくない⁉」


 返答を待たずに蓋を開けた彼女は目を剥いて声を上げる。


「いや、なんか……加熱したら縮むと思って」

「葉物は縮むけど、このサイズの玉ねぎは流石に無理だよ。もーこれ、どうするの?」

「どうしよう。どうすればいい?」


 笹埜が困り顔で案を求めるから、相澤は少し嬉しくなりつつ指を二本立てる。


「案が二つ。一つ目は引っ張り出して一個ずつ切り直す」

「面倒くさい」

「じゃあ二つ目だね。がっつり加熱して存在感を消す」

「採用」


 笹埜が指を鳴らして躊躇いなく鍋の火を強火にするから、「こらこらこら!」と慌てて相澤が火を弱火に落とす。「なぜ邪魔する」「あのね」相澤は袖捲りをしながら講釈を垂れた。


「強火にしたってカレーの温度は百度を超えないんだから。高温をキープできるなら弱火でいいの。というか、火加減が分からない初心者がチャレンジする料理の大半は弱火か中火でオーケー。強火にすると大体焦げるしガスの無駄だったりする」


 笹埜は半信半疑で疑わしそうな目を向けてくるが「私、先輩」と相澤が不敵な顔を見せると、笹埜は不満そうに唇をへの字に曲げた後、苦笑をして「了解」と肩を竦めた。


 相澤は以前まで使っていたエプロンを着けて笹埜を見る。


「手伝うよ。何かオーダーはありますか? シェフ」


 相澤が腰に手を置いて楽しそうに言う。笹埜は視線を虚空に投げた。


「分からん。見切り発車だから献立は現状白米とカレー。残りは君が考えたまえ」

「足りないのはカルシウムとか加熱に弱いビタミン系かな? ヨーグルトと生野菜とか」


 そう言って相澤が考える素振りと共に冷蔵庫を開ける。そして呆れた顔で閉める。


「ある訳ないだろそんなもの」

「よくそんな偉そうに言えるよね。ビタミンは大事だよ!」

「カップ麺にはどれくらい入ってる? そのびたみんとやらは」

「横着するな。ちゃんと摂りなさい。……カップ麺も美味しいけどね?」

「ふぅ――――――まあ、色々と調べて試行錯誤するよ」


 てっきり面倒くさいと返されると思っていた相澤は驚きに目を丸くして、何度か瞬きをする。だが、笹埜なりに変わろうとしているのだということに気付いて微笑み、頷いた。「私も詳しい訳じゃないけど、多少は分かるから。聞いて」とその歩みを肯定した。


 昨日の話がどれだけ彼女の人生に影響を及ぼしたか、相澤には分からない。


 だが、少なくとも彼女は変わろうとしている。明らかに。だから、その邪魔はしたくなかった。その変化に関して自分から言及することもせず、ただ手伝いをすることにした。


 もはや彼女にはフラれた身だ。交際を目指すのは無駄な足掻きと言えるだろう。だが、自分を救ってくれた一人の友人として、今度は相澤が笹埜を支える番なのだ。


 笹埜は流しに腰を預けて腕を組み、レースのカーテンの向こうに広がる青々とした空を眺める。相澤もそれに倣い、カレーの中の玉ねぎが消失するまでの時間を二人静かに過ごす。


 やがて――じっくりと躊躇った後、どうにか笹埜がぽつりと呟いた。


「……こんな私でも、誰かを愛することができるって言ったじゃん」


 笹埜がそう前置きするから、相澤は緩やかに頷いた。「うん」


「だったら先ずは、自分を愛してみようと思う」


 少し照れ臭そうに笑ってそう続けた笹埜に、相澤は目の奥が熱くなるのを感じた。だが、それを仄めかしては泣き虫だと思われる。だから、嬉しさを全て笑みに変えた。


 彼女は既に、様々な部分で自分の人生を豊かにしようと試みている。


 例えば、ハンガーラック。着る防寒着に皺が付かない。素敵だ。


 例えば、炊飯器。お米が好きなら自分で炊いてみるのもいいだろう。


 例えば、料理。自分の食べたいものを作れるのは魅力的。ちょっと手間だが。


 例えば――――と、これからきっと、彼女はそんな変化を繰り返していくのだろう。些末な存在であったとしても、ほんの少しでも彼女の人生を好転させられたなら、あの日の恩返しができただろうか。相澤は穏やかに笑って頷いた。


「うん。凄く良いと思う」


 笹埜は微笑み返し、安堵の溜息を吐いた。相澤はこつんと肘で笹埜をつつく。


「お仕事はどうするの?」

「流石に学校を休むのは度が過ぎた。今後は控えるよ。でも――会社は能力を高く買ってくれてるし、高校か大学か、卒業後の進路として向こう側も真剣に検討してくれている。まあ、愛想を尽かされないくらいには真面目に、これからは程々に頑張る」

「ちゃんと湯船に浸かる時間が確保できるなら、ヨシ!」

「いや、タブレットを買って風呂の中でもやることにした」

「お馬鹿。ちゃんと休みなさい!」


 相澤が呆れて説教をすると、笹埜は楽しそうにクスクスと笑う。


「そっちは? 配信の予定とか展望は?」

「私は変化無し! 3Dモデルの需要が高まってきたから用意したいとは思うんだけどね」

「高い?」

「高いのは前提だよ。完全特注で評判の良い人に頼むと百万超えるもの」


 流石に理解し難い金額で笹埜は目を白黒させる。


「まあ、今まで散々投げ銭の類を貰ってるし、収益的には問題ないんだけどね。ただ、せっかく作っても3Dを活用した配信をそこまでの頻度ではできないし。機材を家に置くスペースも無い。やるとしても大学に入って独り暮らししてからかな。だから、それまでは普段通り」

「コラボ無し、企業所属無し。数字有りの完全個人Vtuberだ」

「一長一短だよ。私は今が居心地いいもの。――まあ、税金関係がちょっと大変だけど」


 古結メメに関する話をしている時の相澤はとても楽しそうだった。その笑顔を眺めた笹埜は、腕を組みながら虚空を眺め、わざとらしい声で言った。


「あの時の気弱で根暗な真面目ちゃんが。変わったもんだね」


 隣の相澤の顔が強張る。


「……お、思い出したの?」

「君の配信アーカイブを観た」


 途端、どんどん茹で上げられたように相澤の顔が赤く染まっていく。


 相手に聞かせることを想定していないラブコールほど恥ずかしいものも無いだろう。相澤はもにょもにょと唇を動かし、不満そうに笹埜を睨み付ける。笹埜は肩を竦めた。


「ま、根っこは変わってないけどね」

「……そう? これでも頑張って人気者になる努力はしたんだけど」


 相澤は赤い顔で不満そうに言い返す。笹埜は鼻で笑って吐き捨てた。


「泣き虫」


 ぐ、と言葉を詰まらせて昨夜の醜態を思い出す相澤。そこに、笑って続けた。


「でもって、真面目で善良」


 相澤は嬉しがっていいのか文句を言っていいのか分かりかねる曖昧な表情で黙り、唸りながら照れ隠しにグリグリと肘で笹埜の脇腹を小突いてくる。可愛げのある意思表明だ。


 笹埜は少し考え、躊躇った後――そっと、真横に居る相澤に腕を伸ばす。


 目を白黒させて戸惑う相澤。直後、笹埜はその身体を軽く腕で抱き寄せた。


 「――――――――⁉」絶句しながらも言葉にならない声で絶叫をする相澤。彼女は爆発寸前ではないかと錯覚してしまうほど赤く染めた顔で、笹埜の腕にされるがまま身体を靡かせ、忙しなく目を泳がせる。不明瞭な言語を繰り返して身を強張らせた。


 そして笹埜は、彼女のエプロンの向こう側にあるポケットへ何かを落とした。


 ストン、と。その物体の重量に引かれて相澤のエプロンが真下に引っ張られ、相澤は夢から覚めるように目を丸くした。まだ頬は上気したまま、だが正気に返った様子で、笹埜が自分のポケットに何かを忍ばせたことに気が付く。笹埜は素知らぬ顔で目を逸らす。


 相澤の目が笹埜を見た。笹埜は虚空を見ながらそっと手を外す。喉が固唾に動いた。冷や汗が浮かんでいる。本当はもう少しこっそりと忍ばせる予定だったのだろう。


 相澤は確かめるようにエプロンのポケットへ手を伸ばす。


 そして、その腕を笹埜が反射的に掴んで止めた。


 「待った」「待ったなし。何入れたの?」「核爆弾のスイッチ」「大変だ、撤去しなきゃ」「私がやるよ。爆発物処理の資格勉強中」「私はもう持ってる。だから私がやる」――中身のない言い合いの裏で筋力の競り合いをすること十数秒、身長では笹埜がやや勝るが、料理に家事と真っ当な人間的生活を送ってきた分だけ相澤が勝った。ポケットに手が入る。


 笹埜が悩ましそうに額に手を置く傍ら、相澤はその正体を確かめた。


 それは、銀色に輝く――鍵だった。どこのものかは、もう確かめるまでもない。


 相澤は呆然とした顔でそれを見詰め、そして濡れて揺れる目で笹埜を見る。笹埜は決まりが悪そうな表情で視線を逸らし、何も言わずに相澤のリアクションを待った。相澤は今にも泣き出そうな顔で鍵を暫く見詰め、そして、大事そうに抱え直して言葉を詰まらせる。


 やがて、どうにか飄々とした笑みを取り繕い、笹埜を小馬鹿にした。


「な――何さ、もう! 私のこと好きじゃんかぁ!」


 相澤はそう言って笹埜の脇を肘で小突くが、笹埜は笑わずに頷いた。


「……大事にするべきだと思った」


 自分の行動を省みるような笹埜の呟き。


 相澤は泣き出しそうな顔にどうにか笑みを貼り付け、視線を泳がせる。どうにかこの場を明るく楽しく切り抜ける方法を探すが言葉が出ず、今の笹埜の言葉を理解し、顔が段々と熱くなる。泣きそうだし、恥ずかしいし、嬉しいし、その感情を誤魔化す方法を相澤は知らない。


 相澤は真っ赤な顔で目を濡らし、期待するように笹埜を見た。


 もう少し言葉を用意してから切り出すつもりだった笹埜は、思いがけぬアクシデントに話が飛躍してしまったことを後悔しつつ、伝えるべき言葉を探す。昨夜、彼女から貰った多くの言葉の数々。それ以前に貰った色々な感情。何となく自分の中に生まれつつあった感情から目を背け、無い物として隠して過ごしてきた。だが、直視したなら誤魔化せない。


「私に本当に心があるなら、自分を愛そうと思った」

「……うん」

「ただ、まあ。その――何だろう。リソース? そう、リソースの話」


 笹埜は照れ隠しにそれらしい言葉を探し出して、それらしい話をする。


「他にも誰かを愛する余裕があるなら、相澤がいい」


 ジワリ、と。相澤の目尻に涙が膨らむ。笹埜は照れ隠しに顔を背けたまま言った。


「まだ私に愛想を尽かしてないなら。試験的に。相澤と交際をしたい」


 相澤は目を忙しなく瞬きさせ、ぽつぽつと雫を落として鼻をすする。エプロンで涙を拭って、固唾を飲み、返答をしようとして――少し様子のおかしい笹埜の言葉に思い出し笑いをする。リソース。試験的に。そんな告白の仕方があるだろうか。でも、嬉しかった。


 相澤は掠れる呼吸を何度か繰り返し、どうにか言葉を紡ごうと試行錯誤。


 やがて、俯いたまま掠れる声で「ぜひ」と小さく呟いた。


 笹埜は安堵の表情で小さな溜息をこぼした後、窓の外を一瞥。外は仲冬に冷え込む。そろそろ冬休みの時期だ。十二月も半ば。来年には受験が待っている。


「仕事――しばらく無しにしてもらってるからさ」


 そう前置きをして、考えていたことを語った。


「クリスマス、どこかに行こう。二人で良い場所を探して」


 返答は言葉よりも先に抱擁で告げられた。すすり泣く相澤が縋るように笹埜に抱き付く。


 存在を確かめるように背中に回した手が力強く笹埜を抱き寄せる。相澤は頻りに頷いた。


 エプロンに塩気の多い涙が沁み込む。ぐつぐつと煮えたカレーが空腹を刺激した。眺めた外の景色は寒そうだが、暖房の効いた室内で身体も心も温かかった。ほんの少し前までは一人だったこの空間も、気付けばもう一人。


 複雑な感情から逃げるために全ての結果が定まっている電子の文字の世界に逃げ込んだが、結局。この乾いた心を癒してくれるのも、単純な四則演算だった。

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