第4話




 それから数日が経過した。


 ある朝、少しずつ立ち直り始めた相澤が遅刻寸前で慌てて教室に顔を出すと、笹埜咲良の席が空いていた。どうやら欠席しているらしい。またバイトだろうか。


 色々と思うところはあるが、ぐっと堪える。自分の恋愛感情が成就しなかったからといってそれをいつまでも引き摺って他人をコントロールしようとするのは、褒められた行動ではない。苦しみも悲しみも抱いて当然だが、それは腹の内に留めるべきだろうと自制する。


 そんな具合に、どうにか普段通りの学生生活を送るべく苦労して迎えた昼休み。


 ある人物が相澤の席を訪ねた。


「やっほ、委員長。ちょっとお昼……付き合ってくれる?」


 風呂敷で包んだ手作り弁当を揺らしながら接触してきたのは、眼鏡に三つ編みが印象的な藤トリオの一人、近藤であった。普段一緒に食事をしている加藤と佐藤はこちらの様子を窺いながら二人で食事をしており、「四人で?」と相澤が尋ねれば「いや、二人」と返される。


 承諾した相澤と近藤は校舎の中庭にあるベンチに並んで座り、冷える冬の空気に箸を掴む手をかじかませながら「場所を間違えたかも」「ね」と言い合い食事を始めた。最初は他愛のない雑談から入り、下らない話から授業の話まで。そして弁当が半分まで進んだ頃、本題に移った。


「委員長さ、笹埜と仲良いでしょ」


 相澤は卵焼きを掴んだ箸を止めて硬直。そして複雑な感情を含んだ目を返す。


 『今は仲良くない』という言葉が頭の中で先行し、次いで、周囲には隠していた関係をどうして彼女は察しているのかという疑問を抱く。


 それらをどのように伝えるか悩むと、近藤はすぐに察した。


「いや、ここ最近ぎこちなさそうだったから。ぎこちないってことはつまり、元々、それなりに親しい関係だったんだろうなと推測した。前に、笹埜の件で尋ねてきたしね」

「……んー、もしかして探偵稼業をやってらっしゃる?」

「ま、私にかかればたった一つの真実を見抜く程度は造作も無いっすよ」


 相澤は脱力するような笑い声を上げた後、微かに肩を落として返答を紡ぐ。


「生憎、私は仲が良いと思ってたんだけどねぇ。向こうは――友達なんかじゃない! ってハッキリ言ってきた。面と向かって吐き捨てられたよ。だから今は……クラスメイト?」

「……いやー、それはアイツの嘘なんじゃない?」


 相澤が眉を顰めると、近藤は軽薄に肩を竦めた。


「アイツは思ってたことを結構ハッキリと言うからね。つまり、傍に居てほしくない人間が傍に居れば躊躇いなく突き放す。そうせずに一緒にいたなら、笹埜にとって委員長は『手の届く場所に居ていい相手』だったってことでしょ。それはもう、友達だと思うけど」


 相澤は自分の涙腺が疼くのを感じ、どうにか笑みを貼り付けて呟く。


「ああやばい、泣きそうかも」

「何、アイツそんな滅茶苦茶な言い方したの⁉」

「や、待った待った。私も大概な言い方してたから! なんか理由もあったっぽいし」


 相澤は「ひー」と言いつつ目尻を指の関節で拭いて、深呼吸を何度か。


「まあ……でも、私もそう思いたいよ? 本当は友達と思ってくれてたって。でも、私からその関係を壊そうとしちゃったし。うん、私は笹埜さんの言葉を尊重したいと思う」


 そう結論を出した相澤を、近藤はどうしようもない善人を見るような清濁を併せ持った目で観察し、溜息と共に認めるよう頷く。


「それで、今日の用件はその話?」


 相澤が本筋に戻すと、近藤は「そうだった」と指を鳴らす。


 そして彼女は弁当に箸を置くと、少し止まった後、悩ましそうに肘をベンチの背もたれに置いて寄りかかる。そして氷が融けるのを待つように、綺麗な冬の白昼を眺めた。何やら話しづらい内容のようで、相澤も急かすことはせず同じように景色を堪能した。やがて、


「この前の委員長からの質問に対する返答。私は少し、知っている」


 そう呟いた近藤の横顔を、相澤は見開いた目で見詰めた。穴が開くほど見てくる相澤に苦笑し、近藤はおどけた顔で肩を竦めて視線を返した。


「私とアイツが特別な関係って訳じゃないから、嫉妬はしなくて大丈夫」

「…………はい? してませんけど、何の勘違いですか?」

「探偵なので観察眼には自信があります。まあ、安心しなよ。吹聴の趣味は無いから」


 どうやら弁明の余地はないらしい。相澤は唸った後に白状する。


「ならついでに言っておくと、もうフラれたので。気を遣わなくて結構です」


 相澤がやけくそに言うと、近藤は少し気まずそうな顔で口を半開きにして視線を逸らす。


 「ぅおぅ」と不明瞭な相槌を打って頷いた後、深呼吸を挟んだ。「アイスブレイクはいいか」とやや強張った笑みを覗かせた近藤は、胸ポケットから一枚の紙を取り出した。色は蛍光色。形は正方形で一辺が数センチ程度。恐らく付箋の一枚を剥がしたものだろうと推測できる。


 近藤はそれを人差し指と中指に挟んだまま、こちらに差し出さず逡巡を顔に覗かせる。


「――本来は徒に他人に吹聴していいものじゃない。私は正直、これを他人に話すか、相当悩んだ。実際、この前委員長に聞かれた時は言えなかった。本人にも、私が知っているって話はしていない。アイツは誰にも知られていないと思っているはず」


 近藤が真面目な表情で前置きをするから、相澤も真面目に聞き届ける。


「言うべきじゃないと思うなら聞かないよ」

「いや、言うべきだと思った。誰かしらに、じゃない。ちゃんとアイツのことを考えてアイツの傍に居ようとしてくれる人間が知るべきだろうと思う。本来は肉親や保護者がやるべきことを誰もしないのなら、アイツが気を許した友人が、これを知るべき」

「なんで近藤さんはそれを知ってるの?」

「特別なことはしていない。ただ、アイツの家庭環境が異常で――アイツの旧姓を職員室で小耳に挟んだことがあったから。興味本位で調べて、知った。でも口頭で説明するとどこかで語弊が生じる。この言葉で調べた以上のことは知らないから、これで調べてもらうのが早い」


 そう言って近藤は遂に決意を固めて、付箋を相澤に差し出した。


 仰々しい前置きをしっかりと理解し、その上で受け取ることを決めた相澤は指に挟んで受け取り、そして、そこに書かれている手書きの文字を読む。


「調べ終わったら――この付箋はちゃんと破いて処分して」


 ――相澤は絶句し、悲痛な顔で近藤を見た。








 ――その人を好きになった経緯? 仕方ないなあ、ちょっとだけだよぅ?


 話は遡りまして、小学校時代のことです。実は私、凄い真面目だったの。でね、真面目に何かに取り組む人間じゃなくて、ただ真面目であるだけの融通が利かない人間だった。私自身はそれが悪い事だとは思わなかったし今も思っていないけれど、ただ、ね。そういう年頃だと真面目な方が割を食うことも多いし、かといって真面目を周囲に納得してもらう立ち回りも上手じゃなかった。


 例えば、普段の言動とか? 私はこう――ビシッと手を挙げてハキハキと喋るタイプなの。今も昔も。だってその方が、相手が聞き取りやすいじゃん? でも、やっぱり小学生規模で見ると特徴的な話し方だったから、よく小馬鹿にされたんだよね。そういうのを切っ掛けに、なんとなーく、馬鹿にしていい相手だって皆が思い始める雰囲気になった。


 決定打はあれかな、あのほら、先生が授業を忘れて職員室に居る時。私、アレを何も考えずに呼びに行っちゃったの。そしたらもう、陰で滅茶苦茶言われてたみたい! 真面目アピールだとか、自分だけ良い顔してるとか。今思い出しても胸が痛いよ。


 それでさ、段々と日直の仕事とか掃除とか全部一人で押し付けられるようになった。


 小学校はそうやって卒業して、で、中学校に上がったの。まあ人間ってそんなさ、所属がちょっと変わっただけで根本が変化する訳ないじゃん? で、公立中学校だから同じ小学校のメンバーも居てさ、もうあっという間に私は馬鹿にしていいんだって雰囲気が出来上がった。


 中学一年の半分くらいは一人で日直の仕事とか掃除をやってた。皆当たり前みたいに私に押し付けていくんだもん。でも私もさ、なんか、一人二人ならともかく全体の雰囲気がそんな風になってたら反抗するのも辛いし、何となく受け入れてたんだよね。


 正直、どこかで壊れるんじゃないかと思ってた。辛かったよ。


 で、中一のある日の出来事です! 普段みたいに日直の相方が帰っちゃってね、で、教室の掃除当番が私の班だったんだけど――みんな帰ろうとしたの。で、先生が『お前ら当番だろー』って呼び止めたんだけど、皆、あ……『古結さんがやりますー』って言って。でさ、先生も『おおそうか、じゃあよろしくな』って普通に職員室に帰ったの! 酷くない⁉


 いやまじか、先生もかーって悲しくなって、ちょっと泣きそうになりながら日直も掃除も一人でやってたのさ。そしたらね、帰っちゃった日直の人が戻ってきたの!


『悪い、普通に忘れてたわ。残りやっとくから帰っていいよ』


 って。そう言って余計な口を叩かずに残ってた作業をどんどん片付けていくの。――その人が好きな人かって? うへへ、まあまあ聞いてくださいよぅ! でね、私はお言葉に甘えて日直の仕事を任せて掃除をしてたんだけど、この人、他の人とはちょっと違うなーって思って、こう訊いてみたの。


『○○さんは私のこと変だって思わないの?』


 って。そしたら、


『はぁ?』


 意味が分からないみたいな顔されて、そりゃそうだよねと。あ、別にこの人は私の味方って訳じゃなくて、ただ自分がそうすべきだと思ったからそうしてるんだな――って分かった。だからさ、ちょっと気が楽になって、自分の話し方とかのコンプレックスを相談したの。


『話し方を馬鹿にする奴は居るかもしれないけど、聞き取りづらいよりは全然マシ。平凡よりもずっと長所になると思う。真面目な性格も悪じゃない。馬鹿にする奴が馬鹿なだけ』


 って、もうハッキリと言ってくれた! もう家族にも相談できてなかった私はそんなこと初めて言われたからさ、泣いちゃうわけよ! で、ちょっと冷たい雰囲気があるその人も、ただならぬ状態だと察したみたいで、色々と聞いてくれたの。私は全部話した。


 そしたらその人、その足でそのまま職員室に怒鳴り込んでね。


 しどろもどろな先生を差し置いて、デスクの電話でそのまま教育委員会に電話した。


 ――ふふ、あはは! 凄くない⁉ 中一でこんなことする人が居るんだと思ったよ。


 で、結局苛めだったと判断されて先生には処分が下って、先生は反省してそういうのを見たら物凄い剣幕で止めてくれるようになって、段々と私への嫌がらせが消えていった。


 数年間――ずっと、一人で悩んでたんだけどね。その人、たった一日、三十分でそういうのを全部ぶっ壊して私を助けちゃった。だったらもう、好きになるしかないじゃん?


 で、その人が声とか話し方を褒めてくれたから、私はVtuberをやってる。


 まあその人、中二に上がってからクラスが変わっちゃったし、そしたら頻繁に学校を休むようになっちゃって、殆ど接点が無くなったんだけどね。先生に訊いても苛めとかでは断じてないって答えてたし嘘じゃないんだろうけど――って悩んでたら、高校も同じだった。


 あんまり話せてないんだけど、ずっと好きなんだよね。今でも私のヒーロー。


 え? 同じ高校を狙った? 違いますよぅ! 偶然! それじゃストーカーじゃん!




 ――画面上で楽しそうにそう語った古結メメを、笹埜はカップ麺を啜りながら眺めていた。


 時刻は二十時。高校を欠席してまでハードスケジュールで案件を仕上げた笹埜は、すっかり寂しくなってしまった自室で一人夕食を済ませていた。以前までは相澤と他愛もない雑談をしていたが、その習慣が消えずに彼女を求めたか、彼女の配信アーカイブを適当に眺めていた。


 そんな中で見付けたのが、活動初期のまだ再生数が多くない雑談配信。


 笹埜が彼女の告白を断った時に言っていた通り、本当に古結メメはガチ恋――世間的に、『推し』や『応援』、『憧れ』或いはキャラクター的な『好き』ではない『実在的な恋愛感情』に当たるものを当初から拒絶していた。その理由に対する説明が先程の話な訳だ。


 ジャンキーな油を久しぶりに堪能しつつ、笹埜は画面上で楽しそうにはしゃぐ古結メメ――その向こう側の相澤茉奈を眺めながら苦笑をし、呟く。


「そんなこともあったなぁ……変わり過ぎだ」


 まるで記憶になかったが、ここまで言われれば薄っすらと記憶が蘇る。


 確かにあの頃、そういう話題で困っている同級生が居て、どうにか問題を解決した。だが、その時の相手というのがとても自分に自信を持たないおどおどした少女であり、その性格を表すように伸ばした前髪が瞳を隠していた気がする。外見も性格も、まるで今と違う。


 気付けという方が無理である。そう自己弁護をする傍らで、あの気弱で割を食ってばかりだった少女が今や、いつも輪の中心に居て人気商売で稼いでいるという事実が愉快だ。誰もそんなことは知らないだろうが、頑張ったんだろうなと微かな笑みをこぼす。


「ヒーローねえ」


 柄じゃない。そう胸中で付け加え、そこに更に「どっちが」と呟いて、持ち主の居なくなった、デスクの上の合鍵を掴んだ。まだ薄っすらと彼女の温もりが残っているようなそれを握る。


 『忙しそうだし、邪魔しちゃってるのは承知だけど――やっぱ、心配。ちょっと休んで』


 あそこまでハッキリと自分に何かをしようとしてくる人間と、初めて出会った。煩わしいと思う反面で心から拒めない自分も居て、彼女もまた、自分のヒーローになろうとしていたのだろう。そして――同時に数日前の去り際の彼女の悲痛な顔を思い出す。


 あれから何度か高校で顔を合わせているが、目を合わせることもなければ会話もしていない。どちらが、ではなく、どちらも、だ。お互いに合わせる顔が無いのだろうか。笹埜は一人の人間として持ち合わせた権利を行使したという自覚はあるが、言い方が感情任せになったという反省点もある。あの時は明確に、彼女を傷付けて黙らせようとする意志があった。負い目だ。


 対する彼女は非など無いが、ああまで手酷く断られれば愛想も尽かすだろう。


 近い内に謝罪をしようか――笹埜は頬杖を突いて合鍵を置き、その手でブラウザを閉じる。そして、前面に出てきたコードエディタを眺める。誤って展開した無題のファイルだ。それをそのまま閉じようとした笹埜は、その白い画面の向こう側にあの夜を思い出し、マウスを握る手を止めてそっと溜息を吐いた。


 代わりにキーボードに指を乗せ、適当な関数を作成。coutの中に四則演算を打ち込む。


 4-3


 ――実行。出てくる数字は1。


 それを十数秒黙って眺めた笹埜は、そっと視線を切って椅子を立つ。食べ終えたカップ麺を流し台に運び、すっかり元通りになってしまった食生活を憂いながら相澤の為に買った調理器具の数々を見下ろした。


 いつ頃、これを処分しようか。そんなことを考えていた時だった。


 インターホンが鳴った。笹埜は思わず顔を上げて時計を確認する。


 時刻は二十時。勧誘には少し遅い時間だろう。配達の心当たりは無い。誰が何の用で――笹埜は考えるよりも確かめる方が早いと、ドアモニターを確認する。すると、そこに立っていたのは見知った少女だった。夜に紛れるような癖のないボブカットの黒髪。冬の冷気に微かに紅潮した綺麗な頬。飄々とした印象を与える穏やかで貼り付けたような笑みはインターホンに備え付けられたカメラに向けられており、こちらの気配をどう察したか、笑みを濃くしてヒラヒラと手を振ってきた。――相澤茉奈だった。


 正気かと疑った。あの酷い拒まれ方をしてよくもまあ、また来たものである。


 笹埜は少し考えた後、ドアモニターのボタンを押して通話を繋いだ。


「まさか、あの拒み方をしてまた来るとは思っていなかったよ」

「あはっ、来ちゃった。開口一番に君らしい言葉が聞けて嬉しいな」

「何の用? 忘れ物でもした?」

「確認が先なんだ。てっきりすぐ入れてくれるものとばかり」


 相澤は食えない表情で寒そうに片手を口元に運び、はー、と白い息で温めた。


 昨日まではお互い顔を合わせても会話すらしていなかったというのに、日を跨いだ途端にこれである。笹埜はその場で腕を組み、目を瞑って溜息を吐いた。「あ、溜息吐いたでしょ」と見透かしたように向こう側で笑うから、「共用部分で騒ぐな」と吐き捨てて返す。


「もう一回訊くけど、何の用?」


 笹埜が繰り返して冷徹な声を掛けると、彼女は向こう側で片手を持ち上げた。正確には、その手に提げていた白い箱を。そしておどけた笑みで箱を誇示した。


「お誕生日おめでとう。これ、ケーキ」


 そう言う相澤に、笹埜は表情を失って首を傾げる。じっくり数秒の沈黙が二人の間を流れる。カメラの向こう側の相澤は当初、少し自慢気な表情を見せていたものの、沈黙が続くにつれて恥ずかしそうに頬を染め「あれっ?」と焦ったような声を上げた。


「違った? 今日じゃない? もしかして私、恥ずかしい奴?」

「――今日、何日?」

「十二月十七日。君のラインIDの末尾番号が1217だったから……てっきり」


 少し恥ずかしそうにしつつ口を窄めてケーキの箱をまた持ち上げる相澤。今日の日付や記念日の類をすっかりと失念していた笹埜は、少々唖然としながら返した。


「ああ、じゃあ誕生日だ。今日」

「ねえ! なんで本人が気付いてないのさ。私の恥じらいを返してよ」

「だから、共用部分で騒ぐな」

「じゃあ開けてよぅ。寒いよぅ」


 相澤はケーキの箱を両手で持って胸元に示し、あざとい表情を見せる。笹埜は何度目かも分からない溜息を吐いてガシガシと頭を掻き、唇を曲げて液晶の彼女を眺める。数秒の沈黙で言葉を選んだ笹埜は、我慢強く待つ相澤に冷たく言い放つ。


「要らない。頼んでないよ」

「うん、知ってる。でも、どうしても君を祝いたかった」

「なら気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう、相澤。だから持ち帰って」

「ケーキ、二つとも私が食べるの? 折角買ったのに」

「なら置いていって。君が帰ったら回収するよ」

「うーん、強敵だぁ」


 しばらくの沈黙。視線を泳がせて様々な葛藤を抱いた相澤は、自省の念を強く瞳に宿してどうにか固い笑みを浮かべる。眉尻を下げ、唇は結ぶ。そして、自分のやり方がやや強引であったことを自覚して、罪悪感に基づく謝罪の言葉を捻出した。


「ごめん、ちょっと駄目なやり方だった。反省する――置いとくから、嫌だったら捨てて」


 泣きそうな顔をどうにか笑みで誤魔化すような、この前、別離の際にも見た顔だ。


 それを見た途端、笹埜は力任せに荒々しく通話終了のボタンを乱打する。そして舌打ちをして髪を掻きながらズカズカと玄関に歩み寄って鍵を捻り、そのドアを開けた。


 冷たい風が吹き込んでくる中、ドア脇に箱を置こうとする相澤の姿が見えた。彼女はその姿勢で、突如扉を開けた笹埜を「へ」と呆然とした顔と共に見詰めている。言葉が出ない様子だ。


 笹埜は譲歩の言葉を自分の口から紡ぐのも癪で、彼女の冷たい手を黙って掴む。


 そして、そのまま部屋の中へと引っ張った。相澤は「わ!」と体勢を崩しつつ転がり込むようにして玄関に入り、笹埜にもたれかかる。笹埜はそれを身体で受け止め、シャンプーの香りが鼻腔を擽る中、相澤の身体越しに扉を閉めて鍵を掛けた。


「あんまり共用部分で喋るな。ご近所さんに迷惑だし、誤解をされる」

「……ごめん」


 それからしばらく、笹埜はその姿勢のまま色々と思い浮かべた苦言を彼女に叩きつけてやろうと考える。だが、握りっぱなしだった彼女の手が嫌に冷たくて、そっちに意識を奪われた。「あの?」と相澤が頬を様々な理由で紅潮させながら首を傾げるから、笹埜は乱暴に訊く。


「通話の前からしばらく外に居たでしょ。何分?」


 はぐらかしたら追い出すと目で警告して訊けば、相澤は恥ずかしそうに目を背けた。


「……ほんのちょっと」

「馬鹿が。早くインターホン押しなよ」

「流石にちょっと、私でも勇気が必要でして。へへ」

「どうせ押すなら早く押せ。悩むなら家でやれ。風邪をひくでしょ」


 笹埜はそう吐き捨てて手を離し、部屋の中へと踏み込んでいく。


 相澤は手にジンジンと残る熱を大事そうに握った後、「お邪魔しまーす」と靴を脱いで上がる。


 そして勝手知ったる様子で部屋に入ると、カップ麺の香りとコンロ上のヤカンを見て眉尻を下げ、物言いたげな顔を笹埜に向ける。だが、笹埜はそんな視線を感じながらも言及をすることなくキッチンからフォークを二つ引っ張り出してテーブルに置く。


 すると相澤は普段のように上座に座り、箱からケーキを二つ出した。ショートケーキとチョコレートケーキが一つずつ。どちらがどちらだと彼女を見れば、彼女も視線を返してくる。


「どっちがいい?」

「どっちでも」

「じゃあ半分こしよう!」


 相澤は急いでキッチンから包丁と皿を持ってきて、各ケーキを半分に。


 チョコレートケーキは底辺を二等分して中点を求めて一刀両断。だが、ショートケーキは中央に苺が乗っている。どうするのだろうかと笹埜が眺めていると、相澤は口笛を吹きながら苺を避けて不格好な分割をして、苺が乗った大きい方を笹埜の皿に乗せた。


 「主役なので」と笑う彼女に、笹埜は「ビタミンは間に合ってる」と嘘を吐いて皿を交換。彼女は物言いたげな顔をしつつも了承した。


 そうしてケーキの分配を終えると、相澤は微笑んで小さく手を叩く。


「お誕生日おめでとうー!」


 笹埜は色々と言いたい言葉を一先ずぐっと飲み込んで頷いた。


「ありがとう」

「じゃあご斉唱ください! はっぴばーすでーとぅーゆー」


 相澤が手を叩いてリズムよく歌う様を、笹埜は頬杖を突いて行儀悪く眺めた。まるで追従する気配のない笹埜を相澤は恥ずかしそうに不満そうな顔で眺めつつ、最後まで歌い切る。そして、「わー!」とパチパチ手を叩くから、笹埜は投げやりに手を叩いて言った。


「食べよう。いただきます」「はーい!」


 お互いに先日のことは一切話題に触れず、祝う者と祝われる者として、一先ず卓上のケーキを片付けることにした。


 数分程度でゆっくりとケーキを食べ終えた二人は、空いた食器を流しに片付けて食後の休憩を取る。相澤はテーブルに座ったまま穏やかに暖かい室温に身を委ねる。笹埜も彼女の対面に座ったまま、足を組んで白湯を飲んでいた。紅茶などと洒落たものは淹れない。


 どれほど静かな時間が経っただろうか。やがて、笹埜の声が静寂を揺らす。


「それで? 今回は何が目的で来た?」


 もはや確かめ合うこともないだろう。裏の目的があることは分かり切っている。


 相澤は曖昧な笑みで言葉を探し、珍しく溜息を置く。少し真面目な顔で口を開いた。


「素直に誕生日を祝いたかった――っていうのは、嘘になる。話したいことがあるの」

「よく懲りずに来たね。あんな言われ方したら普通は嫌いになると思うけど」

「別に私が悪口を言われた訳じゃないし? 自覚ある? この前の笹埜さんの話、全部ただ自分を手酷く言ってただけだよ。私は傷付いてない」

「だったら何の用で来た」


 笹埜が投げやりに尋ねると、相澤は固唾を飲む。




「――君にも、心はあるんだって証明しに来た。今度こそ。リベンジ」




 笹埜は呼吸を止め、半分閉ざした眼差しを鋭く相澤に投げつける。


 相澤は普段の軽い雰囲気を押し殺し、優しい笑みも踏み潰す。真剣に、真面目に。笑っていい話ではないと理解しているからこそ、ただ実直に心の内を曝け出す姿勢だ。


 笹埜は彼女の覚悟を認めつつもハッキリと言い切る。


「感情は数学とは物が違う。証明なんてできない。妄言なら自宅の寝室でやって」

「逃げるの?」


 ――空気が凍る。裂けんばかりに笹埜の眦が見開かれ、その瞳孔の奥に明確な怒りが覗いた。初めてだ。初めて彼女はパフォーマンスではない心の底からの激怒を覗かせた。彼女からの告白の日に覗かせた微かな怒りとも別物。或いは掴みかかってしまいそうなくらいの怒り。


 笹埜は「は?」と嗤うような声を上げ、唇を濡らし、相澤を見詰め返す。


「悪いけどいつもの冗談も今日だけは勘弁してほしい。冗談で処理できる気分じゃない」

「冗談じゃないよ。本気で言っている――君は、今、私の話から逃げようとした」

「いつ、どこで。何をもってそう判断した?」

「本当に無駄が嫌いなら、帰ろうとする私を引き留める必要はなかった」


 相澤の真剣な言葉に、笹埜は口を噤む。仄かに怒りが揺らぎ、そこに葛藤が滲んだ。


「仮に私の話が馬鹿げた妄言だったとしても、私の下手なバースデーソングを最後まで聞くよりは幾らか有意義だと思う。だって、私に心の定義を訊いてきたんだから。君は心の話を聞き流せる人じゃない。大事だと分かっている。その上で逸らしたから逃げたと言った」


 笹埜が反論をせずに押し黙ると、相澤はテーブルの上で手を組んで真っ直ぐに笹埜を見る。


「……でも、ごめん。話をするために攻撃的な言葉を選んだのは本当。ごめんなさい」


 狡い女だ。そう謝罪をされたら咎めることもできず、ただ嫌な話題を掘り下げられただけだ。こんな詰め方ができる相手だと知っていれば、最初から彼女の問いを素直に認めてこの話題から逃げていた。今はもう、逃げだし方も分からない。笹埜の手に汗が握られる。


「証明ね。まあ、好きにしなよ。1+1=2いちたすいちはにだし、2+2=4にたすにはよんだ。それで証明できるなら」

「できるよ――――4-3=1よんひくさんはいち


 笹埜の目が愕然と見開かれ、口が微かに開いて戸惑いの息が漏れ出る。


 相澤はその顔を真っ直ぐに見詰め、自らの持ってきた理屈が全て正しかったことを悟る。同時に、笹埜も、相澤が自分の隠し事を全て知っているのだと察し、血液が冷たくなるのを感じた。眩暈を覚えて椅子の背もたれに上体を預け、深い呼吸と共に顔を背けた。


 笹埜咲良は言った。プログラミングのアルバイトに没頭する理由を尋ねられた際、4-3=1であるからと。その時、相澤は単純な四則演算の一例としてそれが挙がったのだと解釈していた。だが、実際は違う。本当は、別の理由が彼女の根底にずっと残り続けているのだ。


「君の……旧姓は東堂」


 相澤が道を踏み外さないよう慎重に言葉を紡ぐ傍ら、笹埜は処刑を待つ罪人の如く微かに俯いて首を晒す。相澤は笹埜を傷付けないよう丁重に、それでいて彼女の破滅的な在り方を否定するための原因追求として、彼女の過去に起きた出来事を言葉にした。




「四年前。東堂一家無理心中事件。家族四人の内、笹埜さんだけが生き残った」




 真相は母親による無理心中だった。つまり、単なる心中で片付けていいものではなく、法律上は『殺人』として扱われる傍迷惑な拡大自殺である。


 笹埜――東堂咲良はある夫婦の下に生まれた平凡な少女であった。ただ少し非凡であったのは、家庭環境。母親が狂気的な実力至上主義と挫折と学歴コンプレックスを抱えた復讐者であり、父親はそんな彼女と避妊をせずに性行為に及んで第一子――つまり咲良を生ませた無責任な男性であった。そして、そんな妊娠の果てに結婚をした二人の間に愛情は無かった。


 母親は異常な暴力を以て咲良に教育的指導を繰り返し、しかし思うように結果が出ない度に半狂乱になった。だが――二歳遅れで生まれた第二子、つまり咲良の妹は対照的にとても勉強のできる優秀な子供であった。彼女が勉強で好成績を出す度に母親の狂気は和らぎ、父親は安堵し、そして二人の愛情の全てが妹に注がれていき、咲良は自由になった。


 自分の家庭が異常であることは咲良も理解していた。


 だが、何の根拠も無く、歳を重ねるにつれて真っ当な家庭になると思い込んでいた。両親は不出来な自分を愛してくれるようになると思っていたし、滅多に会わせてもらえない妹とも、将来的には仲睦まじい姉妹として様々な話ができるようになると、そう思っていた。


 その能天気な期待が壊れたのが、中学二年生の秋の出来事だった。


 当時小学六年生だった妹が、中学受験をさせられようとしていた。だが、彼女は小学校で同学年だった少年と交際をしており、彼と同じ中学校に行けないことを嫌がり、拒んだ。母親は怒り狂い、父親はそれを宥め、妹は泣いていた。


 それを知った咲良は――自分の言葉が届かないと知っても尚、妹の為に母親に言葉を尽くした。『勉強も学歴も大事である。だが、子供の人生を親の一存だけで左右していい筈がない。どうか折衷案でも良いから妹の想いを汲んでほしい』と。


 思えば彼女は一度も咲良を見なかったし、返事もしなかった。


 ――翌日、図書館で勉強をしてから家に帰ると、自宅に立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。酷い雷雨の日だった。紺色のレインコートを着た警官達が頻繁に出入りをしており、赤色灯を輝かせたパトカーが何台も家の前に泊まっていた。


 死因は全員、刃物による失血性ショック死。凶器は包丁。指紋は母の物。


 家族四人。三人が死んだ。残されたのは一人。4-3=1。それが全て。




「ごめんなさい。旧姓を小耳に挟んで――ネットで調べたら、出た。本人に直接問い質すなんて最低だと思う。だけどどうか、聞いてほしい。君の破滅的な生き方は見てられない」


 相澤は人の傷口を無遠慮に抉った非礼を詫びつつ、近藤の名前を出さずに全ての責任を自身に集約させた。


 笹埜は酷く気落ちすることも責め立てることもせず、静かに相澤の言葉に耳を傾ける。


 動揺はすっかり収まって、今は落ち着いていた。無意識下で行っていた現実逃避という名の図星を指摘されたが故の怒りも、今は過ぎ去った。笹埜は卓上で手を組む。


 何のことか分からないと嘘を吐いて否定することもできた。だが、そこで嘘を吐いて彼女は騙せても、或いは説き伏せることができても、自分の心までは騙すことができない。すると、そこから先の彼女の言葉に反論する余地は無くなってしまう。何故なら、知らない話を展開されても言い返せないから。


 そうするくらいなら素直に彼女の言葉を認めよう。笹埜は淡々と言った。


「確かに――そんな過去もあったかもしれない。でも、それが私の人生に及ぼした影響は測るまでもない些末なもの。私の心がどうこうっていうのは全くの見当違い」

「……そうだよね、ごめん。話を変えるべきだった」


 まるで深掘りされたくない過去だから話をはぐらかしていると解釈されたかのように、相澤は自己嫌悪を瞳に宿して話題を逸らそうとした。巧い駆け引きだ。


 笹埜は分かっていても尚、半ば反射的に彼女に言い返す。


「同情をするな。それに私の現状とあの事件には何の関係もない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「嘘だよ。だって……君は、ずっと。………………それに囚われてる」


 次第に相澤の語気が熱を帯びていく。その顔が悲哀に歪み、目が濡れた。涙を堪えるように頻繁に瞬きを繰り返し、不安定な呼吸で心を落ち着かせようとしている。


 笹埜は追及から逃げるように顔を背けて目を瞑る。奥歯を軽く噛み締めた。


 ここで、その過去がどれだけ笹埜にとって苦しいものかを説けばきっと、相澤を黙らせることができる。それを双方が理解していた。それでも笹埜がその切り札を使えないのは、彼女の言葉が笹埜を追い詰めるためのものではないと知ってしまっているから。その顔が、他人事だというのに今にも泣き出してしまいそうだったから。


 そして、相澤は笹埜がその切り札を切る猶予を沈黙で設けた後、それでもカードを切らなかったことを確かめてから、涙と一緒に固唾を飲んで深呼吸を置き、言った。




「君が自分に心なんて無いと思うのは――家族と一緒に死ねなかったから」




 笹埜は張り裂けんくらいに目を見開き、真正面から相澤の顔を見詰めた。


 微かに開いた口が何かを紡ぐ。『どうして』――それを知っているのかと。


 知っている訳ではない。だが、合理的に考えたらこの結論に至るだけだ。


 笹埜は不規則に吸い込んだ空気を吐き出し、唇を閉ざして目を泳がせた。そして静かに観念し、相澤の言葉に耳を傾ける。


 相澤は思わずといった素振りで椅子を立ち、そして真っ直ぐに笹埜を見詰めた。


「ここからは、私の推測が大半」


 笹埜は何も言わずに相澤を見詰め返した。


「今日、色々と調べたの。無理心中は――大抵の場合、『子供を残して死ねない』だとか『子供も一緒に連れていってあげたい』だとか、利他を装った独善的で利己的な動機が大半。ただ、それでも根底には独善的で歪で身勝手で卑怯で狡くて、馬鹿馬鹿しいけど……愛がある」


 そうだ、その通りだ。かつて笹埜も同じ結論に至った。


 笹埜が肩の力を抜いて弱々しく頷くと、そんな笹埜の顔を見た相澤の顔が一層辛そうに歪んだ。何かを堪えるような濡れた吐息をこぼし、唇を噛んで目元を腕で拭う。「だから」と震える声で言葉を繋ごうとして、一度固唾を飲んだ相澤は悔しそうに続けた。


「だから、笹埜さんは。取り残された理由を、愛されていなかったからだと解釈した」


 悔しそうな彼女の双眸からポロポロと球粒の涙が落ちる。他人事だというのに、感受性が豊かなものだ。そう冷笑する傍らで、彼女のように激情を露にしてくれる人間が居て初めて救われる心もあった。彼女は――推測が大半だと前置きした。だが、見事な推論であった。


 この期に及んで無駄な抵抗をする気力もない。笹埜は「うん」と認めた。


 相澤はぐっと唇を噛んで感情を押し殺そうとして、できず、開き直って涙を落としながら言った。


「そして、愛されなかった理由を――自分には心が無いからだって自分に言い聞かせた。自分の感情に蓋をして、心を持ち合わせていないと思い込んで。心無い人間のフリをすることにした。そうすれば! 全部……納得できるから」


 机に突いた彼女の手の指に熱い涙が落ちた。笹埜は静かにそれを見詰める。液面に映るシーリングライトを見惚れるように眺めて、その静謐な目を相澤へと戻した。赤の他人の話だというのに、心の底から悲嘆して同情して怒って、忙しない人物だった。


「凄いね。殆ど証拠も無いのに……立派な妄想だ」

「間違っているなら、それでいいの。そうであってほしい」

「いや、正解だよ――――――――正解だ。よくもまあ、分かるもんだね」


 笹埜が正解を伝える。クイズや試験ならきっと少しは喜んだだろうか。だが、相澤はぐっと歯を食い縛って固唾を飲んだ後、濡れた目を逸らして目を開閉し、涙を止めようと足掻く。


「分かるよ。だって、ずっと見てきた。好きだったから」


 笹埜は肺の中の空気を全て吐き切り、大きく吸ってどうにか活力を入れ直して言う。


「でも一つ、誤解をしていることがある。私は別に、ただ自分に言い聞かせている訳じゃない。本当に、心無いどうしようもない奴なんだよ」


 そうして自己嫌悪と自嘲を繰り返すと多少は気が楽だった。まるで中学二年生のような言い回しに自分で自分を可笑しく思って笑っていると、相澤は酷く悲しそうに見詰めてくる。


 笹埜は彼女に自らの首を差し出すように、ぽつりと語った。


「――家族が死んでから、ただの一度も泣けてないんだ」


 相澤の目が大きく揺れる。震える呼吸はどちらのものだろうか。


「悲しいと思ってたはずなんだ。家族の訃報を聞いた時は動揺したし後悔した。現場に立った時はショックも受けた。その場で吐いた。でも、悲しむことができない。ただの一度も泣いてないんだよ。家族を想う涙が眼孔から出てこない。――愛してたはずなんだよ! 大切な家族だと思ってた! あんな両親でも肉親だし十何年も一緒に過ごして欠点も魅力も分かって来たし、困ったことがあったら支えたいと思ってた! 母さんは最低な人間だったけど腹を痛めて私を産んでくれたし、父さんは内緒でこっそり夜更かしをしてくれたこともあった。妹とは殆ど話せなかったけど、いつか普通の姉妹のように話したいと思ってた! 下らない話をしてさ、漫画みたいに、冷蔵庫のスイーツを取り合って喧嘩とかしてみたかったんだよ! …………私に! 心があるって言うなら! なんで私は泣けない? 教えてよ、相澤」


 いつの間にか苛烈になってしまった声量を少しずつ抑え、最後には懇願するように彼女の名前を呼ぶ。相澤は笹埜の激情を優しく聞き遂げ、そして憂うように目を伏せた。


 それを見た笹埜は頬を歪めて笑い、こう結論を出した。


「私は――家族を愛していなかったんだと思う。心無い最低な人間なんだよ」


 魂の慟哭を聞き終えた相澤は、目を濡らしながら首を左右に振った。


「……嘘だよ」

「嘘じゃあない。全部本当だよ、私だって泣きたかった」

「そうじゃないよ。家族を愛していなかったっていうのが嘘。だって君は、愛情深い人だもん」


 相澤はもう手遅れなくらい頬を濡らしている癖に、涙を堪えて唇を噛み、そのまま笹埜の方へ歩み寄る。逃げようともせずテーブルに着き続ける笹埜の隣にしゃがみ込み、その手に手を重ねて置いた。お互いの手が熱くなっていた。相澤は手を握って目を見詰める。


「さっき、帰ろうとする私の手を握ってくれたじゃん。温かかったよ」

「……君が外に居て、私が中に居たからね。当然だよ」

「そうだね。中が暖かかったから、私を入れてくれた」

「ただ気が引けただけだよ。ケーキを買ってくれたクラスメイトを追い返すのが」

「気が引けたと言えば初めてご飯を作りに来た時も。私と一緒に床で食べてくれた」

「あれはテーブルを買ってない私が悪い」

「うん。だから君は、その次には食べる場所を用意してくれた」


 何を言ったところで彼女は好意的に解釈してしまう。困ってしまった笹埜は呆れて笑いながら露悪を尽くそうとするが、相澤はこの一か月少しを懐かしむように濡れた顔で微笑む。


「君が、家族に取り残されてしまったことも。家族の死に涙を流せないことも。君に心が無いからなんて自分を罰するような理由で納得しなくていいんだよ」

「じゃあどう納得すればいい? 何で私だけ一緒に死ねなかった? なんで私は家族が死んでも平然としている? まともな人間なら家族が死んだら泣くと思う」

「子供を道連れに心中するような親が形成する家族は――まともじゃないよ。笹埜さん」


 相澤にしては珍しいくらい単刀直入で強い言葉に、笹埜は思わず怯む。だが、相澤は少しの罪悪感を瞳に乗せながらも言葉は撤回しなかった。


 笹埜は今更そんな理屈を理解して、目から鱗を落とす。


「一緒に死ねなかった理由なんて、考える必要は無いよ。だって、家族を殺して自分も死のうとする人の行動原理なんて分かりっこない。もしかしたら本当に笹埜さんはお母さんから愛されていなかったのかもしれない。でも! それは、笹埜さんの問題じゃない。絶対に違う。君の前でお母さんを悪く言い続けるのは申し訳ないけど、悪いのは全部、君のお母さんだよ」


 干からびた心に数滴の雫が落ちるのを知覚してしまい、笹埜は悲痛に顔を歪める。


 誰かを恨んで誰かに責任を押し付けて――そうして心が楽になるのは狡くて楽な逃げ道だと思っていた。或いは真っ当な人間としての使命感のようなものに突き動かされていたのかもしれない。真っ当な生活など送ってもいないくせに。


「だとしても……別離を悲しめないのは私の問題だ」


 そう食い下がった笹埜を、相澤は優しく見詰める。


「私がもしも戦争に参加していて、敵軍と交戦中だったとするじゃん? その時に家族の訃報を聞いても、同じように悲しめないと思う。もしもスカイダイビング中にパラシュートが壊れたとして、多分その落下中に大切な人が死んでも、同じように悲しむ余裕は無いよ」

「……何の話?」

「笹埜さんが悲しめないのは、四年前からずっと、地に足が付いていないからだと思う」


 笹埜は静かな目で相澤を見詰める。相澤は正面から視線を受け止めて続けた。


「独りになって、一人暮らしをさせられて。誰にも話せず、一人で考えるしかできない。答え合わせをできないし、そうなったら間違った方向に進み続けてしまう。それが原因。だから先ずは、落ち着こう。美味しいご飯を毎日三食バランスよく食べて! 寝る前に温かいお風呂に入って身体を温かくして! 毎晩、ちゃんと七時間くらいは寝て、学校にもちゃんと行って。退屈な授業を聞いて、たまに手を挙げて優越感に浸ってさ、放課後は友達と遊んで、流行り物を馬鹿にしながら軽く触って、それで、夜は私とお話しよう。自分の為に、人生を生きようよ」


 笹埜はもう何も言わなかった。ただ、目の前の――友人の言葉に耳を傾け続けた。どんな顔をすればいいのか分からなかった。馬鹿になんてできない。全部を受け入れて受け止めるのも、まだ少し難しい。だが、この心優しい人物に対して、できる限り誠実で在りたかった。


 その表情から、この言葉には意味があると思えたのだろう。相澤は微かに頬を綻ばせ、安堵に再び瞳を濡らし、既に赤くなってしまった双眸を服の袖で拭う。


「『人が誰かを愛するための機能』が心なら、それは多分、大勢が持ってると思うの。君が心の無いキャラクターだって言ったVtuberだって、中の人は辛いことがあれば傷付くし、悲しむし、恋だってするよ? だったら君にだってあるよ! そんなもん!」


 相澤はポロポロと泣きながら笹埜の手を強く握る。


「二回も助けられたよ? 私。覚えてないと思うけど、中一の時と、この前の誕生日配信。あと、私のコンプレックスを褒めてくれたし、合鍵だってくれた。ご飯を美味しいって言ってくれたし、私にショートケーキの苺をくれた! なんだよぅ、私の事好きじゃんかぁ!」


 情けなくポロポロ泣きながら冗談めかした声を上げ、笹埜を肘で小突く相澤。


「――だからほら、君は人を愛せるよ」


 笹埜は目の奥が熱くなるのを感じてしまい、逃げるように顔を背けようとした。だが、それは駄目だろうと思い直して、どうにか相澤を見詰め続ける。


 相澤は真っ直ぐ言い切った後、震える肺を抑えるように深呼吸をする。


「自慢じゃないけど、私は家族仲が凄い良いからさ、本質的に君の理解者にはなれない。共感はできるけど、できるって言うのも傲慢だと思う。でも、君を好きなのは嘘じゃない。だから、できることなら私の言葉を信じてほしい。だって、たぶん、世界一君を好きだよ?」


 相澤は茶化して笑った後、笹埜の服の裾を摘まむ。


「私は……そんな魅力的な人間じゃないし? まあ、立派でもないよね。人生経験は浅いし、意外と不器用。大体、何やってもそこまで上手くはできない。だから愛されるような人間じゃないとは思う。でもさ――」


 相澤は自嘲気味に笑った後、ずっと抱えていた想いを吐露した。


「別に相手が私じゃなくても良いから、誰かを愛してよ。心が無いなんて――そんな、寂しいこと言わないで? 私は君の心が好きなんだから」




 ――――気付けば時刻は二十二時を回っていた。


 目を開けた笹埜は、膝に誰かの重みを感じる。どうやら相澤の慟哭を全て受け取り、物思いに耽っている内に椅子に座ったまま眠りに落ちていたらしい。


 そして、相澤も泣き疲れて笹埜の膝を枕に眠ってしまったようだ。目元が真っ赤である。


 笹埜は思わず頬を綻ばせた後、そっとその頭に手を伸ばす。シャワーを浴びてからこっちに来たらしき髪は柔らかく指をよく通す。そっと頭を撫で、そして笹埜は彼女を起こさないよう、静かに椅子と彼女の頭の間から足を引き抜く。枕が蠢いたことで彼女の眠りが微かに浅くなったが、「んん」と呻きながら温もりを帯びた椅子を枕にし直したので、安堵する。


 強張った身体を大きく伸ばした。長年溜め続けた膿が全部出たような気がする。


 ちらりと時計を確かめた笹埜は、二十三時を回る前に彼女を家に帰すべきだろうと考える。だが、あんまりにも彼女が心地よさそうに眠るものだから、もう少し寝かせることにした。


 そうなると残りの時間をどう潰したものか。仕事――をしようかと思った手を止め、笑うような溜息。少なくとも今日はやめておこうと、そう思えた。


 代わりに彼女の――古結メメの配信アーカイブでも視聴しようかと作業デスクに掛けてパソコンのスリープを解除すると、そこには相澤の来訪前に書いていた下らない簡単なコードが。


 タブを閉じようかと考えた笹埜は、ふと、その手を止める。


 そこに書かれた四則演算が何者かによって書き換えられていた。




 4-3+1




 大きく目を見開いた笹埜は、考えるまでもないその犯人に思わず目を向ける。ぐっすりと心地よさそうに眠る彼女を見て目尻に雫を膨らませた後、笑いながらコードを実行。


 するとエラーが発生。改めてエディタの画面を見ると、赤い波線が問題点を強調していた。


 プラスが全角だった。


 笹埜はふっと息を吹き出して笑い、やがて堪えきれずに肩を揺する。だが、不思議とポロポロと涙が落ちてくるから、それを服の裾で拭いて、今日の最後の作業を、デバッグをする。自らの手でプラスを半角に直し、幾つかのコードを加筆。


 そして最後にエンターキーを押してcoutを実行。


 画面に数字が出る。――4-3+1=2

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