第3話




「なんだよぅ、今日笹埜休みかぁ」


 翌日の昼休み。弁当を持って笹埜の席に着いた加藤がそうぼやく。


 いつものように席の周辺に集まった加藤佐藤の藤コンビが「どうせバイトだ」「出席日数大丈夫なんかね」と言い合いながら昼飯を取り始めた。


 相澤は昨晩笹埜に振る舞った夕飯の残りを食べつつ、自席からぼんやりそれを眺める。無意識に、ちらりと鞄の中にあるキーホルダーを付けた合鍵を一瞥した。


 すると、先ほどの二人に少し遅れて近藤が合流する。


「ま、アイツにも色々あるんだよ。馬鹿じゃあないから心配はしなくていいでしょ」


 まるで知ったような口を利く近藤を、相澤は卵焼きを食べながら眺めた。


 どうにも近藤は笹埜について何か知っている様子だ。思えば一か月前、Vtuberに関して四人で会話していた時も、他二人と違って笹埜の事情を把握しているような口ぶりだった。


 相澤も、笹埜がアルバイトに打ち込む理由そのものは聞いた。バイトが好きで、だから一生懸命に取り組んでいると。だが、それだけの言葉で納得できる道理もない。1+1=2で、4-3=1であるという機械的な四則演算で果たして彼女は何が言いたいのか。


 昨日の夜から考えているが、答えは見えない。


 黙って弁当を食べ続けていた相澤はその手を止め、頭の中で軽く理論武装をする。


 そして席を立った。


「お話し中ごめん! ちょーっとだけ、質問いいかな。もうほんと、一瞬」


 相澤が三人に歩み寄って手を合わせて申し訳なさそうな顔をすると、歓迎の表情が返る。


 「おー」と近藤、佐藤は「どした?」と眉を上げた。「どうしたの?」加藤はニコニコと迎えてくれる。笹埜と違ってこの三人はとても愛想がいい。


「笹埜さんって度々休んでるけど、何か、理由とか知ってる? 委員長として心配で」


 罪悪感を覚えながらも話を円滑に進めるための嘘を混ぜると、三人は顔を見合わせた。


 代表して答えたのは佐藤だ。彼女は首を傾げながら悩ましそうに言う。


「いや、私達も詳しいことは何も分かんないんだよね。普段からバイト漬けだから、その辺で休んでるんだろうとは思うんだけど……」


 佐藤や加藤達の知る情報も、やはり相澤とは大差無さそうであった。だが、近藤は――


 何か知っていそうだが、と相澤が視線を向けるも、彼女は眼鏡をくいと持ち上げて素知らぬ顔で口を噤んだ。表情を見る限りでは何か知っていそうだが、教える気は無さそうだ。


 嘘を吐いて近付いたこちらにそれを追及する手段も無い。


 相澤は笑って「そっか!」と応じた。


「ありがとう、それだけなの。お食事中失礼しました」


 ひらひらと三人に手を振って自席へ戻り、誰にも聞こえない大きさで溜息をこぼした。




 数日後。クリスマスも近付いてきたある日の酷く冷える晩。


 「ぴっ」と電子音のような悲鳴が聞こえて、笹埜はタイピングの手を止めた。


 およそ人間が発するものとは思えないほど甲高く短い悲鳴に眉を顰めて相澤を見ると、テーブルに置いたノートパソコンを見詰める彼女の表情が酷く強張っていた。目の前の光景が信じられないと言いたげな様子で見開いた目を画面に向け続け、マウスを執拗にクリックしている。


「あれぇ……?」


 相澤が配信をすると言って準備を始め、間もなくの出来事であった。


 彼女はノートパソコンに繋いでいたケーブルを何度も繋ぎ直し、OBSを操作して機材の読み込みをリセットし続ける。だが、配信に載せる仮想画面には一向に彼女の美麗なアバターが表示されなかった。トラッキング用のスマートフォンには表示されているのに、何をどう操作しようともパソコンには出力されない。


 ――機材トラブルか。笹埜は放っておいて作業に戻るのも躊躇われ、後ろ髪を掻いて様子を見守る。相澤は冷や汗を浮かべながら口を押さえて目を泳がせ、頭の中で原因を探し続け――眺めていても事態は好転し無いように見受けられ、笹埜は余計なお世話をすることに。


「どうした」

「や……あの、今日誕生日配信の予定だったからさ、普段通り準備してたんだけど――OBSがスマホをキャプチャしてくれないの。設定は何も弄ってないのに」


 普段の彼女から想像できない弱々しい声で悲痛に説明をする。


 そういえば誕生日が近いことを仄めかしていたが、今日だったか。笹埜は祝辞を言う機会を逃したなと考えながら、目に見える情報から問題の原因を考える。


 設定は弄っていないと言っている。OBSを自力で操作できる程度にはソフトに精通しているのなら、『何も触っていない』は信じていいだろう。


 そうなると、勝手に何らかの変化がパソコンに加わったか。


 少し考えた笹埜は、自分のパソコンを一瞥。Windowsだ。対する彼女はMac。もしや、


「OSアップデートした?」


 ぞわ、と彼女の首筋に鳥肌が立つ。目を見開いたままこちらを振り返った彼女の表情は絶望に染まっていた。半開きになった口から掠れた息を吐き出し、彼女は震える手でOSのバージョンを確認する。そして、頭を抱えて叫んだ。


「やっちゃったぁああああ!」


 彼女は机に額を叩きつけ、笹埜は額に手を当てて溜息を吐き出した。


 普段ならばともかく、記念配信のような大きなイベントの前には様々なリスクを考慮しておくべきだろうに。そう思いつつも、自分が同じ立場だったら完全に回避できたとも言い難い状態だ。馬鹿にはできない。


「え、でも、今までこんなこと無かったんだけど。だってOBSじゃなくてOSアップデートだよ? スマホだけ映らなくなるなんてある?」

「滅多にないけどね、OSアプデでプライバシーポリシーの変更とか関連する互換性に手が加わることがある。見た感じ他の画面キャプチャは生きてるから、スマホ周りで何か変化が入ったんだと思う。一旦Twitterで情報を見てみよう。OSのバージョン名と関連ワードを突っ込んで検索してみな。個人の問題じゃなければ情報が出る」


 笹埜の指示通りに相澤がSNSの検索画面へ文字を打ち込んで検索をかけると、ある投稿がヒットした。相当拡散されている。曰く、MacのOSアップデートでAndroidスマホのキャプチャに支障が出ているとのこと。スマホの配信をしたい人はミラーリングをするかOBS側のアップデートを待つようにするべき。――そんな文字を見て、相澤は両手で顔面を覆った。


「ど、どうしよう」


 相澤が泣きそうな顔で笹埜を見る。笹埜は呆れを隠さず答えた。


「確実なのはOSのダウングレード。ただ、回線状況とPCスペック次第で所要時間が変わる。早ければ一時間程度で済むだろうけど……相澤のやつは相当古そう。三時間くらいは見積もっておくべきだと思う。その他諸々の作業時間も含めてね」


 時計を見た。時刻は十九時過ぎ。日付は変わらないだろうが、青少年育成条例がある。泊まりこみ前提ならそれでも問題はないかもしれないが、愛娘が急遽クラスメイトの家に泊まると言って快諾する親も滅多にいないだろう。連絡作業等々を考えると、最終手段としても怪しい。


 少なくとも相澤に即決できる手ではない。


「笹埜さんのパソコン――は、借りられ、ませんよね? 仕事用だもんね」

「無理じゃない。ただ、Windowsは勝手が違うし、古結メメの配信画面に使っている各種素材の移動作業とかOBSの初期セットアップとか、後、そもそもポートがUSB-A。君の機材を使うならType-Cとの変換器が要る。今から家電量販店に走る?」


 すると相澤が椅子から崩れ落ち、床の上で仰向けに倒れた。顔を手で覆っている。


「終わりました……」


 結局、延期をするのが一番手っ取り早く確実だろう。笹埜はそう結論を下す。


 相澤も同じ考えに至ったか、しょぼしょぼとした顔で肩を落としながら床に転がり、スマートフォンを取り出してポチポチと操作し始める。


「配信延期のツイートします。お騒がせしました」


 相澤は唇を噛んで弱々しい表情で文字を打ち込んでいく。


 笹埜はその様子を半眼で眺めた。同情の余地は大いにあるが、突き詰めると自己責任だ。仕方がない。そう思う反面――例えば視聴者からの好意を厚意として返そうとする彼女のスタンスや、『心』に関して語った彼女の見解を思い出す。彼女のような人間になりたいかは別として、その生き様には一定の敬意を表するというのが本人には言わない笹埜の本音だ。


 自身のパソコンを一瞥して手持ちの作業量を思い出した笹埜は、深い溜息を吐いた。


「――待った。パソコン貸して」


 そう言って笹埜が返事も待たずに椅子に座ると、相澤はスマホを触る手を止めて起き上がる。


「い、いいけど……何する気?」

「もしかしたらもう少し短い時間で問題を解決できるかもしれない」


 相澤は目を疑うように丸く見開き、言葉を失って笹埜の横顔とパソコンの画面を見る。


「で……できるの⁉ そんなこと」

「あくまで可能性がある程度だけどね。確約はしないからツイートの内容も可能性を仄めかす程度にしておきな。駄目だったら早めに言うから、文章だけ準備しておいて」

「分かりました。分かりましたけど……どうやって直すの?」


 相澤は手元で文章を打ち込みつつ、笹埜の作業を不思議そうに見詰めている。


 笹埜はそんな視線を気にする余裕もなく、大量のソフトを次々と展開していく。そして相澤の使っているスマートフォンの機種を調べつつ、ソフトウェアの配布サイトを開く。そこに保管されているファイルをダウンロードし、それを展開して大量の文字列と睨み合った。


「そもそも今のOBSはオープンソースって言って、ガイドラインの範囲内で好きに使っていいって構造から何から何まで開発元が公開してる。その中からOSとの兼ね合いで今のスマホのキャプチャに支障を来している部分を特定して直せれば問題を解決できるかもしれない。ドライバとかAPIから手を加える必要があったら無理だけど、そうじゃないなら可能性はある」

「つ、つまり?」


 難しい用語が湯水の如く流れ込んできて、相澤はどうにか意味を整理しようと要点を訊く。笹埜は手を止めずに舌で唇を湿らせて返した。


「要は、今ここでMacの最新OSに対応したOBSの次世代バージョンを開発する」


 表情を失った相澤は、どうにか言葉を捻り出す。


「――そんな、言うほど簡単にできるもの?」


 笹埜は画面に表示された大量の文字列を流し読みしながら呟いて答える。


「普通は無理。というか普通に無理。それこそOBSを開発してるような有能ならいけるかもしれないけど。ただ、以前に仕事の関係でOBSのソースコードを読んだことがあるから、最低限の知識はある。開発環境は無いしレビューしてくれる人は居ないぶっつけ本番のバグだらけのクソビルドだし、本当に、根本問題は何一つ解決できない。ただ、君のスマホ限定で、取り敢えず映すだけのその場凌ぎの改修ならできるかもしれない。あくまでも、可能性だけど」


 笹埜は疲れの溜まった目をぎゅっと押さえ、呟いた。


「何とかするよ。大事な配信なんだろ」


 隣で床に膝を突く相澤は、嬉しそうな表情で眉尻を下げ、返答に窮した。言葉を発したら感情が堰を切ってしまいそうだったから、波が落ち着くのを待ってから、そっと頷いた。


「……うん」




 ――そうして一時間と三十八分が経過し、笹埜は最後のエンターキーを押下。


 プログレスバーが滞りなく蓄積し、作業の完了を表示した。


 笹埜は大きく突っ伏して大きく溜息を吐き出す。全身が酸素を求めるから大きな深呼吸を五回ほど繰り返した後、一気に補填された酸素に眩暈を覚え、天井を仰ぐ。


 何が何か分からないまま作業の手を眺めていた相澤は、成功か失敗か判断に難い笹埜の様子を見て、ハラハラとした様子で言葉を待つ。笹埜は「最終確認」と言ってビルドしたアプリケーションファイル――OBS(仮)を起動。設定等々は既存のファイルに保管されているため変更前のまま。無言で相澤から受け取ったスマートフォンをケーブルで接続し、キャプチャ。


 すると、画面上に古結メメの顔が表示された。


 自画自賛をする訳ではない。ただ、事実として支障なく一度で目的の成果を得られたというのはコード作成の観点からして奇跡に近い。笹埜は「よかった」と一人呟いた。


 相澤が目の前の光景とその言葉に作業の完了を確信し、安堵に大きく息を吸う。


 代わりに大きく息を吐いた笹埜は、カメラの前で軽く首を動かしてトラッキングが問題なく反映されているのを確かめた後、椅子を立った。そして相澤にそれを示す。


「はい、終わり。動作の安定性は保証しない。パソコン再起程度でも動かなくなるかも」


 その言葉を待ち侘びていた相澤は、様々な感情に駆られた表情で笹埜を見詰め、多くの言葉が溢れ出して言葉に詰まり、それを、頭を下げることで示した。


「大丈夫、ありがとう。本当にありがとう、笹埜さん」


 笹埜は酸素が足りなくて頻りに深呼吸をしながらその様子を眺め、失った時間を数える。


 一時間半。誰かの為にこれだけの時間を使うなど馬鹿馬鹿しいと思う反面、存外、悪い気はしなかった。そんな自分を馬鹿馬鹿しく思いながら、笹埜はデスクからイヤホンを引っ手繰る。


「今回の配信が終わったらOBSを再インストールしてOSは必ずダウングレードすること。そんで対応したOBSがすぐリリースされるから、そしたらアップデートするように」

「分かった、ありがとう」

「私は疲れたから仮眠する。声は気にしなくていいから、帰る時に起こして」


 そう言うや否や、笹埜は返事も待たずにイヤホンを装着し、部屋の隅に置いておいた寝袋に潜り込んで丸くなった。一日通して頭を使って手を動かし続けた疲労か、あっという間に意識に靄がかかり、気付けば眠りに落ちていた。


 急いで配信の準備を進めつつも、相澤はそんな笹埜の姿を愛おしそうに見つめていた。




 ――夢を見ていた。


 それが夢だと分かったのは、それを見るのがもう何度目かも分からないから。


 笹埜は、雷雨が降り注ぐ住宅街の路側帯も無い狭い道路の中央に立って、ある家を呆然と眺めていた。靴から入ってきた雨粒が不快なくらい靴下を濡らし、指先が酷く冷えた。そうだ、この悪夢を見る契機となった出来事も、こんな冷える冬の出来事だった。


 鉛色の雲が空を覆い、夕刻だというのに辺りは真っ暗だ。古びた街灯が明滅している。


 そんな薄暗い明かりを帯びた、笹埜の視界の先にある家は――黄色かった。


 たくさんの黄色が張り巡らされ、その隙間を紺色が行き来していたのをよく覚えている。


 蠢く紺色の中から一人、雨粒に打たれる笹埜を見付けて歩み寄ってきた。彼は最初、疑うような目でこちらを見て何かを尋ね、呆然と言葉を返すと、その目が同情に染まった。紺色のレインコートの彼が何かを無線で確認し、そして何かを言った。


 その時の胃酸の味は、今も覚えている。




「――笹埜さん!」


 声に目を覚ます。曇天の代わりに照明が点いた天井が笹埜の目の前に広がった。


 視界の端に、膝立ちでこちらを覗き込む相澤の顔がある。酷く心配そうだった。


 笹埜は弾むような呼吸を繰り返して胸を上下させる。そして目を頻りに開閉して視界情報を脳に取り入れた。悪夢と現実の境目が指でぼかしたように曖昧だった。ズキズキと頭が痛む。目を見開いたまま肩で息を繰り返しながら寝袋から這い出て、膝を支えに項垂れる。気付けばシャツの中が汗でびっしょりと濡れていた。少しずつ、ゆっくりと呼吸を抑えていく。


「大丈夫? 魘されてたみたいだけど、悪い夢でも見た?」


 相澤が寝起きの鼓膜に優しい声量で心配の声を紡いだ。


「……相澤が私の寝袋の中でお漏らしした」

「するわけ無いでしょうが。私、今日で十七歳ですけど」

「…………ああ、そうだ、お誕生日おめでとう。言い忘れてた」


 良い機会だと思ってこの際に祝辞を述べると「あ、ありがと」と相澤は困惑の様子で感謝した。「プレゼントは無い」「知ってる」と言葉を一往復させると、相澤が笹埜にスマートフォンのデジタル時計を見せた。時刻は二十二時三十分。後三十分も経てば青少年育成条例で補導されかねない時間だ。幾ら信頼関係があっても、そろそろ相澤の家族が心配するだろう。


「誕生日配信は終わったよ、お陰様で、滞りなく。もういい時間だから帰ろうと思うの」

「了解。送るよ、駅まで」


 そう言って壁に手を突きながら起き上がろうとすると、相澤が支える。そして手を離す。


「わ、びしょびしょ。ばっちい!」

「殴るよ」

「送ってくれるのは嬉しいけど、汗拭いて着替えなよ。これじゃ風邪ひいちゃう」


 相澤が心配するように言うから、笹埜は反論することなくその場でシャツを脱ぎ捨てる。


 すると、部屋を出る間も無かった相澤が一気に頬を紅潮させた。「セクハラ」と苦言を呈し、ちらりと相澤の上裸を盗み見る。固唾を飲む音が囁かれた。


 「い、家でも下着は着けなよ。形が崩れちゃうよ」「形ないものは崩れない」「流石にそこまでのサイズじゃないでしょ」と戯言を言い合う。


 笹埜はそんな相澤の言葉を無視をして洗濯済みのタオルで背中を軽く拭いた後、カップ付きのインナーの上から新しいシャツを着て防寒着に袖を通す。


 そして、既に帰り支度を済ませていた相澤に出て行くよう顎で促した。




 外に出ると、確かめるまでもなく空は真っ暗だった。自然光が空に瞬いていた。


 アパートの廊下から二人で空を一瞥すると、白い呼吸が二人の間で混じり合った。笹埜はよそ見をしながら鍵を閉めて「冷えるね」と小さな声で呟き、「ねー」と相澤は抜けた同意を返す。


 それから駅までの道中はしばらく、普段通りに黙って並び歩いていた。特に言葉を交わすことはない。生活上必要な――例えば明日は来ないだとか、そういう話であれば、こういう時に交わすのが常だったが、今日はそういった話も無い。ただ静かな夜を過ごす。


 そんな静寂を破ったのは、少し能天気な相澤の一声だった。


「いやー、それにしても今日は本当にありがとう! 助かったよ!」


 相澤が手ぶりを用いて感謝の念を伝えてくる。


 彼女の為にわざわざ自分の貴重な時間を浪費したのだから感謝の一つ二つは貰わないと割に合わないと思っていたが、笹埜は自分自身でも意外に思うくらいすんなりと「いや」と否定を口ずさんだ。「大したことじゃない」と格好をつけると、相澤は小馬鹿にするような挑発的な笑みで笹埜に肘を擦り付けてくる。


「またまたぁ! そんなこと言っちゃって。アレ、なんかすっごい技術なんでしょ?」

「あーウザイウザイ。少しプログラムを齧ったことある奴なら誰でもできるよ」

「何か特定の勉強をしなきゃできないことなら、『大したこと』だと思う」


 相澤が賛辞と感謝を含んだ顔で見詰めてくるから、笹埜は顔を背けて溜息を吐いた。


「とにかく、ああまでお世話になったならお礼をしなくちゃ駄目だね。どうしよ」


 相澤が大袈裟に考え込む素振りを見せた。


「別にいらないよ。迷惑。それでもお礼がしたいならこの話をやめてくれるのが一番嬉しい」

「ほんとに君は懲りないねえ。またそういうことを言う。ちょっとくらい優しくしてよぅ」

「私の数少ない知人の中では、君に一番甘くしてるつもりだけど」


 笹埜が軽口に苦言を返すと、面食らった相澤は頬を染めて押し黙った。どうにか反論をしようと口を尖らせるも、素直にそれを認めて引き下がる。「そっか」と。


 それから十数秒の沈黙の果て、相澤はわざとらしく手を組んで前に伸ばす。


「んー…………ちょっと、雑談でもしようか? どうかな?」


 改まって何のつもりだ。笹埜は眉根を寄せて相澤の真意を探るも、彼女の貼り付けたような軽薄な笑みは剥がれない。だが、悪い人間でないことは分かっている。笹埜は誘いに応じた。


「別にいいけど。何が訊きたい? 探りをいれたいんでしょ」

「あは、分かっちゃう? まだ一か月くらいの付き合いなのに?」

「どうせそれ以前から接点があったんでしょ。私が忘れているだけで」


 相澤の顔が冷たく凍り付き、見開かれた双眸が動揺を宿して笹埜を見る。


 笹埜は見透かしたように細めた目を返し「で、何?」と先を促す。確信を持っていた訳ではないが、彼女の奇異な行動の数々から考えられる可能性はそれくらいだった。そして今、仮説を唐突に叩きつけられた彼女の反応を見て、仮説が確信に変わった。


 自分は既に相澤と会ったことがある。――『会ったことがある』というのは語弊があるか。同じ高校で一年からやっているのだから。だから、今よりも前に少しだけ、ただの知り合い以上の関係になったタイミングがあったということだろう。


 相澤はどうにか表情を解凍し、戸惑いの上に笑みを貼り付けて芝居がかった声を上げる。


「まあ――まあまあまあ、積もる話はさておいて。雑談」


 話を切り変えた相澤は、冬の空気に乾燥し始めていた唇を軽く巻き込む。不安定で不規則な深呼吸を一度挟んだ後、忙しなく視線を泳がせた後、固唾を飲んで呟く。


「あの……笹埜さんって――――付き合ってる人とか、居ないよね?」


 その言葉には色々な感情が含まれているし、笹埜も色々な感情を抱いた。


 相澤の声色には複雑な意味が宿っており、内容には単純な目的が表面化している。溜め込んでいた言葉をやっと吐き出した相澤は虚脱感に眩暈を覚え、深呼吸を繰り返す。微かに頬を紅潮させ始めていた。随分と血行がいいのか、耳まで赤い。心音が聞こえた気がした。


 質問を聞いた笹埜も、その意味が分からない訳ではない。裂けんばかりに眦を大きく見開いて相澤の顔面を確かめた後、唾液を飲む。


 笹埜は足を止め、顔を背け、大きく息を吸って大通りを走る車のテールランプを目で追った。


 馬鹿正直に返答をしようとした笹埜は、しかし呼吸を吐き切って寸前で黙る。


 既に一か月近い付き合いだ。交際状況など確かめるまでもないだろう――と、視線で返答をすると、相澤は分かっていると言いたげに小さく何度か頷いて先を語る。


「その、何かの調査によると――日本国内の女性同性愛者の割合って五十人から百人に一人くらいは居るらしいの。まあ、つまり? 大体、人口の一パーセントから五パーセントくらい?」


 あざとく首を傾げながら、かじかんだ手を伸ばして身振りと共に語る相澤。瞳は緊張に忙しなく泳ぎ、表情は固い。対照的に不気味なくらい明るく装った声が不自然だった。


「私、は」


 詰まりながら話を続ける相澤。


「その何パーセントかに入ってるんだけど」


 今すぐにでも逃げ出しそうなくらい緊張に染まっていた相澤の顔に、更に怯えが滲む。浮足立っていた。その手は所在なさそうに胸元で拳を作り、小刻みに白い息が出る。


 笹埜は対照的に静かな眼差しで相澤を見詰める。そこに宿る感情は誰にも分からない。


「笹埜さんも、そうだったらさ。お礼……になるかは分からないんだけど。ね?」


 ここまで吐き出せば、もう怖いものは無いのかもしれない。相澤は少し肩の荷が下りたように自然な――まだ少し固く妙に明るい笑みを浮かべ、おどけた声を出した。


「ほら、私達って結構、上手くやれそうじゃない? だってさ、笹埜さんって、自覚あると思うけど刺々しいよぅ? その辺、私なら大丈夫! 全部受け止められるもの」


 おどけた声には隠し切れない不安が宿っていた。


 それを最後までしっかりと聞き遂げた笹埜の顔には、複雑な葛藤が浮かんでいる。微かに眉を顰めて視線を伏せ、普段は滝のように軽口と悪口を吐き出すその唇はきゅっと閉じている。


 正直に言えば、驚いていた。好意的に接してくれる人間ではあると思っていたが、まさか恋愛的な好意を抱かれているとは思っていなかったのだ。仄めかすことすらしなかったのだから。


 だが、そう思う頭の裏で彼女の様々な行動に合点がいった。


「――最初から、それが目的か」


 笹埜が呟くと、相澤の顔に悲痛な罪悪感と自己嫌悪の念が滲んだ。彼女は無言で唇を噛んで瞳を伏せ、ぎこちなく頷く。笹埜はそれを咎めることもなく首肯を返して納得した。


 つまり彼女が最初に、黙っていてくれる礼と称して食事を作りに来たのも、こちらが拒んでもお礼をしたがったのも、何から何まで自分に対して抱いていた恋愛感情を成就させるためのアプローチの一環であったということ。失望は無かったが、驚いた。


「本当は中一から同じ学校だったんだけど……覚えてないよね? 話したこともあるけど」


 相澤の茶化すような笑みの裏には痛々しいくらいの渇望が垣間見える。


 だが、笹埜は努めて冷静に、誠実に受け答えた。


「記憶にない」

「だよねー、私、今と全然キャラ違ったし」


 弱々しく肩を落として俯く相澤。だが、彼女の問題ではないのだろうと密かに思う。


 きっと彼女がどれだけ特徴的な人物であったとしても、よほど近しい相手でなければ記憶に残らなかっただろう。それくらい、今の笹埜は中学時代のことを忘れかけている。


「でも、その頃から何も変わらない。私は君が好き」


 相澤がこの期に及んでようやく素直な感情を言葉にした。


 であれば、こちらも返答をしなければならないだろう。笹埜は顔を背けて呟く。


「相澤はVtuberでしょ。恋愛感情を抱いてくるファンだって居るんじゃない?」


 果たしてその言葉をどのように解釈しただろうか。相澤は何かを察したように目を見張った後、悲痛に歪めてどうにか笑みを浮かべる。


「ガチ恋のこと? その辺は初めの頃からずっと駄目って言ってる。度々公言もしてる。好きな人が居るからそういう感情には応えられないって」


 その言葉の真偽を今確かめるのは難しかったが、配信業に対する彼女の誠実は理解している。きっと嘘ではないのだろう。笹埜は頷いてそれを認め、ではどう言おうかと返答に窮する。


 そんな笹埜の気配を察したか、相澤が酷く歪んだ笑顔で能天気を装って言った。


「――無理なら! あの、ハッキリ言ってくれて大丈夫。だよ」


 笹埜は観念したように瞑目すると、深呼吸を挟んでから努めて淡白に答えた。


「ごめん、無理だ。その気持ちには応えられない」


 すると相澤は物分かり良さそうに笑顔で頷いて、どうにか返答の言葉を紡ごうとする。


 しかし、無意識に顔が歪んで目が濡れ、吐息が熱を帯びてしまう。そんな自分を茶化すように何度か笑って、「そっか」とどうにか一言をこぼした後、唇を噛んで星空を仰いだ。


「ちなみに、あんまり聞かない方がいい事なのかもしれないけど――女だから?」

「関係ない。性的指向の問題じゃないし……相澤の問題でもない。そもそも私が誰かを好きになることはない。特別の枠組みが無いから誰かを特別扱いできないだけ」


 相澤は濡れた目で笹埜を見詰める。


 その顔に、笹埜は今まで誰にも言ってこなかった腹の内を明かす。


「無性愛でもないよ。もっと、その前提――多分、それに名前なんて無いと思う。それでも、もしも既存の言葉で表現をするのなら。君は人の誰かを愛する機能を『心』と称したけれど、それに倣うと、私には心が無いんだと思う。……はは、中二病みたい」


 笹埜は言葉の終わりに乾いた笑みで場を和ませようとするが、相澤は釣られて笑うなんてことはせず、酷く傷付いた顔でその言葉を聞き、自嘲気味な笹埜の笑顔を眺めた。


 やがて相澤は使命感に突き動かされたように言い返す。


「誰かに恋愛感情を抱かない人も世の中には居るよ。心が無いなんて……」


 すると笹埜はふっと息を吐き出し、はは、と、更に鋭く息を吐いて目を剥き、笑う。


 世間一般の尺度で物事を測って相手を納得させようとする。彼女がかつて自分自身で嫌いだと言っていたやり口だ。何より――そういう自分を肯定してもらえると思ってしまっていたばかりに、普遍的な物差しで自身を律しようとしてきた彼女に対する微かな失望が芽生えた。


 相澤は心が無い自分を肯定するのではなく否定した。それが全てだった。


「あるって言うなら証明してよ。私のどこに、誰に向けた愛がある? 恋愛? 家族愛とか友愛とか、まあ何でもいいよ。あるなら言ってみろ」


 笹埜の冷たい言葉に、相澤は眦を見開いて言葉に窮した。


 たった今、愛を拒まれた人間に彼女の中に恋愛感情があるか否かは証明できない。目を泳がせる。家族愛という普遍的な回答で茶を濁そうとしたが、それもできない。居ないから。では友愛は? そう、自分と彼女は友達ではないのか。そう言い返したかったが、たった今、今までの行動が全て恋愛感情によるものだと認めた自分の口からは到底言えない。


 相澤は言葉を詰まらせたまま呆然と笹埜を見て、笹埜は呆れた顔でそれを眺める。


「ほら、早く」


 普段の笹埜であれば考えられない、相手を追い詰める為だけの言葉。相澤は目を泳がせて「それは」と返答を試みる。だが、何かを口に発したところで呼び水のように出てくれる答えはない。ぐっと唇を噛み、眉尻を下げて俯いた。すると笹埜は微かな怒りを滲ませて笑う。


「ほら! 無いだろ? 無いんだよ、心がどうとか愛情がどうとか、そういう綺麗な言葉で表現される人間の機能が全部。そうじゃなかったらどうやって説明が付く? それともまさか自分が私の友達だとでも勘違いしていた? 馬鹿馬鹿しい! 私と君は秘密を黙る対価に飯を作らせてただけの関係だろ。君がそう言った。友情じゃない、友達なんかじゃない」


 最初は穏やかに説こうとしていたが、段々とヒートアップして笹埜の言葉が熱を帯びていく。


 それでいて、言葉の内容は冬に負けないほど冷たく相澤を突き放すようなそれ。苛烈な言葉の数々に相澤は怯えたように身を強張らせるも、震える声で切り札を返そうとする。


「そんなことない、だって君は――!」

「――どうせ中学一年の頃の話だろ。私が君に何かしたのは」


 笹埜が反射的に言い返す。その顔は酷い嫌悪感と不快感に染まっていた。


「覚えて……」


 対する相澤は驚愕に呟く。だって、笹埜は何も記憶に無いと言っていたから。


 だが、そうではない。記憶になかったからといって何も分からない訳ではない。消去法だ。


「覚えてないし思い出せない。でも、その時期しかあり得ない。いい? 相澤」


 笹埜は舌で乾いた唇を湿らせ、感情任せに吐き捨てる。


「全部嘘っぱちだ。君が惚れた笹埜咲良って人間は自分を勘違いした紛い物だよ。優しくて、心があって、誰かに愛されるような愛情ある人間? 居ないよ、そんな私は最初から」


 その言葉の節々には何かに対する怒りや凄絶な悪感情が宿っていた。顔は狂気的な嫌悪感に染まり、息は荒い。目は見開かれている。相澤はそんな笹埜に言い返そうと口を何度か開くも吐息しか出ず、やがて、掠れた呼吸と共に双眸から玉の雫を落とした。


「……なんで、そんな酷いこと言うの? なんで怒ってるの? 教えてくれなきゃ分からない」


 そこでようやく地に足を付けた笹埜は、微かな罪悪感を表情に口を噤む。だが、ここで彼女を励ましてまた和やかに話し合える関係になるのも本意ではない。


「――怒ってない。私は、君が料理を作りに来ることに関しては大いに結構だった。でも、それらが私との交際を目的とした行為なら今ここでハッキリと言うしかない。無理だ。恋人にはなれないし友達にもなれない。君が望む感情を君に渡すことはできないし、それは君の問題じゃなくて私の問題。要点を言うと君は失恋をしたんだ。他に何か言いたいことは?」


 矢継ぎ早に冷たく呟くと、相澤は小さな嗚咽を上げながら両目を手の甲で拭う。肩が震えるばかりで、言葉でも行動でも笹埜に対する返答は無い。だから、意図を勝手に汲み取った。


「無いなら帰りな。もういい時間だよ」


 視界の向こう側に見える駅を顎で示すと、相澤は掠れた吐息をこぼしながら緩やかに歩こうとする。だが、思い出した笹埜は「待った。最後に」と相澤を呼び止めて手を伸ばす。


「鍵。もう使わないでしょ」


 相澤は濡れた目を大きく見開き、その顔に悲痛な感情を浮かび上がらせた。どうにか涙を堪えようと唇を噛むも、涙が止まらず、彼女は普段の飄々とした様子からは想像もつかない泣き顔で防寒着の袖で目元を拭った。嗚咽と共にキーホルダーの付いた合鍵が取り出される。


 彼女が近付いてきた目的が恋愛感情によるアプローチなのだとしたら、その目論見は既に破綻した。もう自分の家に来る理由は無い筈だ。お互いの未練を断ち切るためにも必要なことだろう、と、笹埜は鍵を受け取り、キーホルダーを外して彼女に返す。


「おやすみ」


 相澤は返されたキーホルダーを大事そうに抱えて泣き、「うん」と、そのままゆっくりと駅に帰って行った。

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