第2話




 次に相澤が家を訪れたのは、その三日後のことだった。


 ワンルームに足を踏み入れるや否や、彼女は部屋に悠然と置かれたある家具に目を見張る。そして喜色を満面に宿した笑みを浮かべ、明るい声と共にそれを指して笹埜を見た。


「テーブルセット! 文明じゃん! 買ったの⁉」


 木目調の小さなテーブルと、サイズの合う椅子が二つ。使用された形跡はまるで無い。


 騒がしくて敵わない。と、頭を振って声を追い出すような所作を取りながら、「んー」と笹埜は適当な相槌を打つ。彼女が立派な料理を作るなら相応に食べる場所くらいは用意しようという常識的な部分が作用したのだが、素直に認めるのも癪だったので何も言わないでおく。


 相澤は上機嫌にテーブルセットに駆け寄り「わはー!」と笑って、ニコニコと椅子を引く。


「君はどっちに座るの? 上座? 下座?」

「自宅のテーブルにそんな概念があってたまるか。相澤が好きな方を使いなよ」

「じゃあ私シェフだから上座ね! ってか、椅子二つも買ってくれたんだ」


 鞄を抱えながら楽しそうに椅子に座した相澤は、ふと、気付いてそう口にした。


 嫌なところに言及するものだ。笹埜は露骨に顔を歪めた後、はぐらかすのも情けないと思って「まあね」と肯定した。言い訳が続くかと思って言葉を待つ相澤だが、出そうと思っても言い訳が思い浮かばなかった笹埜は黙って仕事用のデスクに向かった。


「私の分でしょ? ありがとね。申し訳ないから椅子代くらいは出させてよ」

「要らない。自惚れるな、客は君以外にも居る」

「あー、そういうこと言うんだぁ。素直じゃないなあ! ういうい!」


 相澤がニコニコと満面の笑みで席を立って肘を押し付けてくるから、笹埜は苛烈な溜息の後に鋭く舌打ちをして肩を押し返す。「きゃん」とわざとらしくよろけた彼女は、にこやかにテーブルセットへ視線を移す。


「冗談はさておき、嬉しいよ。一緒にご飯を食べようね」


 笹埜はうんざりした顔を作って「はいはい」と彼女にキッチンを任せ、デスクに着く。


 納期に余裕がある仕事を普段より落ち着いた心境で進めていると、持ってきたエプロンを着けて魚料理の下処理を始めていた相澤が「あ」と声を上げた。笹埜が目を寄越す。


「どうした」

「や、そういえば笹埜さんにちょっと、相談というかお願いがあったんだけど」

「普段遠慮なんてしない君が勿体ぶるならロクな話じゃないね。連帯保証人にはならないよ」

「連帯保証人の話じゃないしもし探してるとしても君には頼まない。私を何だと思ってるの」


 相澤はやれやれと溜息を挟むと、少し申し訳なさそうに片目を瞑った。


「実はね。今日、一時間ちょっと、お部屋で配信をさせていただきたくて」


 全く予想だにしていなかった要求に、笹埜は面食らった顔で口を噤んだ。


 配信――Vtuberの生放送ということか。彼女が古結メメとしての顔も持っていることをすっかり忘れていた笹埜は「あー」と納得の声を上げる。


 結論から言えば構わない。遮音性の高いイヤホンを使えば彼女の雑談は気にならないし、この部屋は防音性が高い賃貸だ。だが、疑問が浮上する。


「自分の機材があるなら別にいいけど。どうしてわざわざこの部屋で?」

「十九時には夕飯ができるでしょ? 二人で食べて十九時半で、洗い物とかしてもうちょっと。それから家に帰ってちょっと経つ頃にはパパが寝始めちゃうの。健康的だから」

「防音室は?」

「一戸建て。対屋外の防音性はあるんだけど、家の中はちょっとね」


 そんな事情があるならわざわざ料理を作りに来なくても構わないのだが、そう言ったところで彼女はきっと先日のように適当な言葉ではぐらかすだろう。笹埜の視点における合理を押し付けるのではなく、合理的に、素直に彼女の要求を呑んでおこう。


「この部屋は防音性が高いってウリだったから多少は大丈夫だと思う。好きにしなよ。コンセントは好きに使って、Wi-Fiは無線でいい?」

「ありがと! 贅沢は言いません。無線をお貸しいただけますと幸いです」

「ルーターの底面にパスワードが貼ってあるからそれ読んで」


 すると相澤は魚の下処理に濡れた手でビシッと敬礼した。


「ありがとうございます!」


 そうして夕食を済ませて一時間。相澤はテーブルに手際よく配信機材を準備する。


 ノートパソコンをコンセントに繋ぎ、表情トラッキング用のスマートフォンをその隣のスタンドに置く。OBS――オープンソースの配信用ソフトウェアを起動して諸々を接続し、配信画面が問題なく表示されるのを確かめた。動画配信なるものを知識では知っていても実際に見たことが無かった笹埜は、コーディング作業の手を止めてジッとそれを観察。


 セッティングを済ませた相澤はスマートフォンのカメラの前でぶんぶんと身体を動かしてアバターのイラストが連動するのを確かめた。


「よし!」


 チラリと時計を見て時間を確認した後、最後にコンデンサマイクの音声入力を確かめた。


 笹埜は画面に表示されている美麗なアバターのイラストを眺め、呟き尋ねる。


「その絵って発注はいくら?」

「これ? このアバターはね、有名な絵師さんに頼んだので二十五万円でした」

「にっ……」


 想定していた額の倍くらいはあって、笹埜は思わず言葉を失う。


「……金持ってんね」


 すると相澤は苦笑をして弁明をする。


「いや、まあ相当裕福な家だとは思うけど、それでも流石に初期費用でポンと出すには高過ぎるよ。最初は普通に私の手書きで自作したアバター。配信機材もお小遣いで安いヤツを揃えて、そんで人が増えて収益が出たから、それ使って視聴者に還元をしていった、って感じ」


 彼女は配信経歴を懐かしむように目を細め、OBS画面上に表示されるイラストを――『古結メメ』を眺めた。笹埜は理解できない領域だが、きっと強い思い入れがあることだろう。


「これは嫌味じゃなくて疑問なんだけど、元々のイラストで数字伸びたんなら、わざわざ高い金を出して変える必要あったの?」


 笹埜が気になったことを尋ねると、彼女は嫌そうにすることなく答える。


「うん。まあ――トークとかリアクションを高く買って貰ってるみたいだから、数字を伸ばすのに本当に必要だったかは分からないけどね。ただ、結局配信業って人気商売じゃん?」

「そうだろうね。それ以外で稼げるのは一握りだと思う」

「だから私の収益っていうのはつまり、私に向けられている好意の数だと思うの。『私が娯楽を提供する』『娯楽を求める視聴者が広告を視聴する』の等価交換で発生する利益に、新しく向こう側から好意を向けられたなら、私は厚意で応えるべきだと思う」

「それで機材に投資? 真面目だね」

「それくらいしか取り柄が無かったから。変かな?」


 苦笑する相澤だったが、小馬鹿にするには少しばかりその真面目は美徳が過ぎた。


 「いや」と否定を呟いた後、笹埜は相澤から顔を背けて電子の世界に目を向ける。単純な文字と数字の羅列で決まった動きだけをしてくれる無機質のコード群を眺めて心を落ち着かせた。


「変ではない。立派だと思う」


 それが、笹埜が発声できる最大限の賛辞だった。


 相澤は嬉しそうに頬を綻ばせて笹埜の横顔を眺めた後、小さく頷いて時計を一瞥。椅子に座り直して緊張をほぐすように身体を伸ばした。


「よーし、配信始めますかぁ!」

「打鍵音は控えた方がいい?」

「いや、そこまでしてもらう訳にはいかないよ。ノイキャン入れるから大丈夫。ただ、声だけ気を付けてもらえると。そっちは貫通すると思うから」


 ノイズキャンセリング――つまり雑音の類を遮断するソフト/ハードの機能だ。「了解」と呟きイヤホンを耳に付けて作業に入った笹埜を見て、相澤は深呼吸を一つ。


 OBSの『配信開始』ボタンをクリック。同時に放送された、有志作成のイントロアイキャッチの動画が流れ終え、そして自分のアバターが生放送上に乗ったのを確かめ、相澤は息を吸う。


 普段通りの挨拶を元気よく言おうとして――ふと、「こっ」と言葉に詰まらせた。


 ちらりと笹埜の方を見る。イヤホンを付けてディスプレイを注視する彼女はこちらの視線に気付かない。


 だが、相澤は羞恥に顔が段々と赤くなっていく。しかし、既に配信は始まっている。いつまでも黙っていれば視聴者が不審に思うかもしれない。


 相澤は目を瞑って覚悟を決め、仕切り直した。顔が熱くて仕方ない。


「こんメメー、こんばんは! 古結メメです! みんな元気してたー?」


 ――無音のイヤホン越しに薄っすらとそれを聞いていた笹埜は、彼女の名誉のためにその葛藤に気付かないフリをしつつ、彼女のプロ根性を胸中で讃えた。




「っだぁ! なんで足引っ張るの⁉ 同じチームじゃんか! ねえ待って、聞いてる⁉ やめよう、話をしよう! ねえ、ねえってば! 待っ――――」


 叫ぶ相澤の目の前で、彼女が持ち込んだモニターにGAMEOVERの文字が表示される。


 相澤はコントローラーをテーブルに置いて顔を両手で覆い、黙って天井を仰いだ。


 ――相澤が家に出入りするようになってから一か月が経過し、十二月を迎えていた。


 以前に笹埜から許可を貰った相澤は、配信予定日に夕食を作りに来た際は、そのままこちらの家で配信をしてから帰るようになった。


 今日は据え置きゲーム機の数十人規模で行うサバイバル形式の人気パーティーゲームを視聴者参加型で開催。ところが味方陣営である筈の視聴者の手によって脱落させられていた。本来なら怒って当然の利敵プレイではあるが、つい先ほどまで視聴者を踏み台にして高笑いしながら生き延び続けていた彼女に対する有識者のお説教という背景情報を踏まえると、滝のように流れるコメント欄の爆笑の渦もまた仕方がないモノと言えただろう。


 パフォーマンス的にダメージを受けている素振りを見せつつ、相澤は楽しそうに笑いながら「もー、大人気ないよ。ホント」とブツブツ言い、生き残っている視聴者のプレイを眺める。


 そして、九時過ぎを示す時計を確認した相澤は、それを最後の試合として「今度は私が無双できるゲームでまた参加型とかやります。その前に、近々誕生日配信でもやろうと思うので、楽しみにしててね。じゃ、バイバーイ」と言い残し、配信を終了した。


 ふう、と溜息を吐いてイヤホンを外した相澤は家主に声を掛ける。


「騒がしくしてごめん、配信終わったよ」


 そう言いながら振り返って作業デスクの笹埜を見ると、彼女はこちらに反応を示さない。


 机に突っ伏すように頭を抱え、至近距離でモニターを見詰めながら小さく何かを呟いていた。耳には新調した遮音性の高いイヤホン。その虚ろな瞳に、ディスプレイに表示された白い背景と赤・青・黒字のソースコードが反射している。頭を掻き、苛立ちを押さえられない様子でマウスホイールを回して問題点を探していた。踵が何度か床を叩く。


 その表情は殺伐としており、鬼気迫るという表現がこの上なく相応しい。


 能天気に笑いながら視聴者とゲームをしていた相澤は気まずい表情で手をすりすりと合わせ、どうにか機嫌を窺おうと画策する。取り敢えずお茶でも淹れよう、と静かに席を立った。


 沸かした湯でマグカップに紅茶を注ぎ、頭を動かすのに必要だろうと砂糖と蜂蜜を多めに入れる。二人分を用意してデスクの方に持っていく頃には、どうやらバグを発見したらしい笹埜は幾らかスッキリした表情でキーボードを鋭く叩いていた。


 仕事の調子が良いタイミングを邪魔をするのも本意ではなく、相澤はまるでこちらに気付く気配のない笹埜の少し後ろで、静かに頃合いを見計らう。


 そして、数分後。笹埜は区切りが付いたタイミングで背もたれに背中を投げ、天井を仰いで溜息を吐く。酷い疲弊を表情に濁った目で天井を眺め、目頭を指で押さえた。


 コトン、と相澤がデスクに湯気の立つ紅茶を置くと、ようやくそれに気付いた笹埜がイヤホンを外す。「ああ、ありがと」「甘いから気を付けて」と言葉を一往復し、笹埜がカップに口を、相澤は隣で床に座り込む。笹埜の椅子の肘掛けに手を置いて、同じく紅茶を一口。


「うるさくしてごめんね。もう配信終わったから」

「殆ど聞いてないから気にしなくていい。美味い晩飯の対価なら安い部類だよ」


 笹埜は頬杖を突きながらソースコードに視線を戻し、マウスホイールをクルクルと回す。


 食事を褒められたのは悪い気がしないが、今は素直に喜ぶ気にもなれない。


 ここ一か月ほど頻繁に家を出入りして分かったが、笹埜咲良の家庭環境は異常だ。一度たりとも保護者は家を出入りせず、異常な食生活を送ってバイト漬け。友人と遊ぶなどの無為で無意味で年相応の時間を過ごすこともせず、何かに打ち込んでいないと自分が自分でなくなってしまうのではないかと強迫観念でも抱いているかのような、そんな狂気的な生活を送っている。


 相澤はしばらく笹埜の横顔を眺めた後、我慢できずに口を割った。


「その、少し……休んだら?」


 すると、感情の灯らない眼差しが相澤を見た。臓腑の奥がぎゅっと縮こまる。


 『詮索をするな』『余計なお世話』。ここ最近であんまり聞かなくなった、彼女の突き放すような言葉の数々を思い出した相澤は誤魔化すような笑みで「なーんちゃって……」と言葉を撤回しようとする。だが、放って置いたら自重で潰れてしまいそうな彼女の様子を看過できず、おどけた撤回を「いや」と真面目な顔で再度撤回して、改めて言った。


「忙しそうだし、邪魔しちゃってるのは承知だけど――やっぱ、心配。ちょっと休んで」


 提案ではなく懇願の形で言い直すと、笹埜は黙ってマウスを動かす手を止める。


 どうしたらいいのか分からない様子で視線を揺らした後、溜息を挟んだ。


「大丈夫、体力には余裕がある。割の良い仕事を一気に引き受けたからあんま納期に猶予が無いだけ。必要な時には休むから心配しないで、ありがとう」


 そう言って作業を再開しようとする笹埜を、相澤は寂しそうに見た。


「本当に大丈夫?」

「明日は学校を休むけど、基本は間に合うスケジュールで組んでいる」

「それは大丈夫って言わない。私達の本分は勉強だよ?」

「うるさいな」

「……だよね、ごめん。私も一般論で人を動かそうとする人が嫌い。ほんとゴメン。ちょっとどうかしてた。もう一度チャンスをください、言い直します」


 笹埜がうんざりして反射的に言い返すと、意外にも相澤も自己嫌悪で言葉を撤回した。


 笹埜は追撃で吐き出そうとしていた言葉を呑み込み、溜息に変換して、押し黙る。待つこと十数秒、痺れを切らした笹埜が何かを言おうとしたが、被せるように相澤が言った。


「明日」


 笹埜が口を噤んだのを確かめてから、相澤は微笑んでこう提案した。


「笹埜さんの好きな献立にするからさ。今日、シャワーだけじゃなくて湯船に浸かろう。お風呂は――私が入れるよ。何度がいい? やっぱリフレッシュするなら四十二度?」


 不自然なくらい努めて明るく振る舞った相澤の本意まで見抜けない笹埜ではない。


 笹埜は頑なに拒もうと開きかけた口を一度止め、理由もなく拒もうとした時点で自分が疲れているのだろうということを自己分析する。それと同時に、突き放すような言葉を受けても尚、相手の為に言葉を尽くそうとしたクラスメイトを見て、我が身を省みた。


「……熱いのは好きじゃない」

「オッケー、じゃあ四十度! 準備してくるね」




 それから少し経って、笹埜は身を清めた後に四十度の心地いい浴槽に浸かった。


 少し狭いが女子高校生一人がゆっくり過ごすには十分な風呂。頭からソースコードの幻影が立ち上って消えていくような感覚を味わう。思わず深い溜息が漏れ出た。心地いい。


 天井に付着した水滴が、浴槽の縁にもたれかかる笹埜の鼻先に滴った。


「湯加減はいかがですかー?」


 扉一枚隔てた脱衣所から相澤の間抜けな声が聞こえ、笹埜は思わず苦笑する。


「なに、そこから筒でも吹いてんの?」

「いえ、職人が懇切丁寧にシステムのボタンを押しております」

「適温です。このままでいいよ」


 心なしか少し緩くなった笹埜の言葉に、相澤は嬉しそうに「はーい」と答えた。


 そんな相澤がいつまでも脱衣所を出て行かないので、気になって笹埜は尋ねる。


「ずっとそこに居る気?」

「あ、ごめん。気になるなら出て行くけど――なんか君、放って置いたら寝そうだから」

「ああ、うん。今……ちょっと眠気が襲って来てる」

「寝ちゃ駄目だよ。死んじゃうからね。返事がなくなったら突入するから」


 過保護だ。笹埜は呆れつつ肩を竦めて返す。すると、数秒経った頃に相澤が風呂の扉に手を置く様子が曇りガラス越しに見え、笹埜は「あーはいはい、はい。了解! 分かった分かった」と急いで投げやりに返事をした。


 溜息を吐くと、扉越しにクスクスと笑う声が聞こえる。


 結局彼女は、何を企んでいるのか。たかがクラスメイトにここまでする理由は何なのか。曇りガラスの向こう側で膝を抱える彼女を眺め、笹埜は目を半分ほど閉じる。その時だ、


「ねえ、マグロって知ってる?」


 唐突に相澤が質問をしてきた。笹埜は「は?」と声を上げて眉を顰める。


「もしかして今、馬鹿にされてる? 喧嘩なら買うけど」

「違う違う。本題に入る前の前置き。そこは『うん』でいいの」

「うんこ」


 ガシャガシャと相澤の手が風呂の扉を激しく揺らすから「分かった分かった、悪かった。知ってる、英語でツナ!」と叫び返すと音が鳴り止む。まるで怪異だ、心が休まらない。


「マグロってさ、止まってると呼吸ができないらしいんだよ。泳いで口から入った水をエラに通して、それで呼吸をするってYouTubeで言ってた。だから止まると死んじゃうらしい」

「へえ、それで?」

「さっきの君はそんな感じがした」


 ピタリと互いの口が閉ざされ、沈黙が二人の間を漂う。


 相澤の表情は分からない。笹埜は曇りガラスに覗く彼女の輪郭をぼんやりと眺め、茶化そうとした口を閉じて真面目に受け止める。


「だったら私は今死んでることになる」

「うん、おかしかった君は死んだ。今は少し話が通じるもん」


 ストレートに言い返され、返答を失った笹埜は浴槽に頬杖を突いて姿勢を変えた。


 そんな笹埜へ、相澤は扉を隔てても分かるくらい真剣な声でこう尋ねた。


「ねえ、笹埜さん。君は詮索するなって言うけど、私はできれば聞きたい。君はどうして一人暮らしをしてるの? ご家族は? どうしてずっとバイトをしているの?」


 笹埜は返事をせず、その疑問を受け止め損ねて押し黙った。


 しかし、この沈黙は返答に必要なものだと分かったのだろう。相澤は急かすような真似はせず、静かに返答を待つ。


 『詮索するな』と再び強い言葉を押し付ければ、きっと相澤は黙るだろう。だが、ここ一か月、喧しく騒がしかったが、一緒に夕飯を食べる時間も悪くはなかった。


 彼女にどんな企みがあるのかは知らないが、頂いた晩飯は美味しかったのだ。


 笹埜は頬杖を解いて濡れた手で口を押さえ、熟考をする。そして目を瞑った。


「詮索するな」

「ですよねー、調子に乗りました」

「でも、風呂を出るまでの暇潰しになら付き合うよ」

「…………わあ。素直じゃない、ねっ!」


 コン、と上機嫌な相澤の頭が扉に当たる。自分に呆れ返った目で笹埜はそれを見る。


「でも質問が多すぎる。何から答えればいい?」

「じゃあ、ご家庭の状況から聞きたい。一人暮らしの理由と、ご家族について」

「肉親は死んだ。死別した」


 ――ピチャン、と水滴が湯船に跳ねた。


 言葉が無い。扉の向こうで相澤が絶句しているのが分かる。彼女の弱々しい呼吸の音を遠くに聞きながら、笹埜は彼女がその情報を反芻できるようにしばらく黙る。


「その、ごめんなさい」


 悪い事を訊いたと思ったのだろうか。相澤の殊勝な謝罪が返ってくる。


「本気で話したくなければ私も言っていない。詮索するなって言ったのはこの内容が嫌いだからじゃなくて相澤が鬱陶しいから。変な勘違いをして面倒な謝罪をするな。酸素の無駄」

「本ッ当に君はさぁ、そういう相手の為の配慮を意地悪な言い方で誤魔化すの、やめな?」

「だからそういう勘違いをするなって……あー腹立ってきた! もう出ようかな」

「ああごめんなさい、ごめんなさい! 続きをお願いします」


 笹埜は前髪をくしゃりと掴んで気を取り直し、彼女の問いへ続けて答える。


「……両親が死んだ後、親戚の家に引き取られた。で、その辺の人達と馬が合わなかったから、お互いの利害の一致で一人暮らしをしてる。両親の遺産があるから生活費には苦労してない」


 すると今度は別の疑問が出てくる。先程相澤が挙げた質問の内の一つだ。


「じゃあ――どうして、そんな一生懸命バイトをしてるの?」


 笹埜はどう答えるかと少し考えた後、要点をボカすことに決める。


1+1いちたすいちは?」


 先程のマグロの意趣返しという訳でもないが、馬鹿にしているような問題を投げる。沈黙。扉の向こうで相澤が戸惑っているのが手に取るように分かった。


「2……だと思います。それとも田んぼの田?」

「2で合ってる。じゃあ次の問題、4-3よんひくさんは?」

「えっと、1」

「だから。それが理由」


 まるで意味が分からないと言うように扉の向こうから沈黙の疑問符がなだれ込んできた。


 少し婉曲的過ぎたかと反省し、笹埜はもう少しだけ言葉を尽くす。


「心とか感情とか余計なことを考えずに没頭できる仕事だから、あのバイトが好き。好きだから一生懸命やってる。答えられるのはそんくらい。満足した?」


 する訳が無いが、これ以上は尋ねても答えてもらえないと察しているのだろう。やや不満が滲んでいるものの「まあ……うん、ありがとう」という相澤の感謝の言葉が返ってくる。


 満足していないのは火を見るよりも明らかだったが、笹埜は弁明に言葉を尽くすようなことをしない。そして、黙りこくった彼女を曇りガラスの向こうに見る。


「質問に答えたんだから、こっちも一つ質問させて」

「お、珍しいね? いいよぉ、言ってごらんよ」

「結局相澤は、何を企んでる? どうしてそこまで私に構うの」


 浴槽に肘を突いて単刀直入に訊くと、数秒の沈黙が二人に訪れた。


 「あー」と届くか届かないか絶妙な声量での葛藤が呟きとして漏れ出る。明らかに言いづらそうにしているが、こちらから譲歩を言い出すつもりは無い。笹埜はずっと返答を待つ。


「こっちはできる限り誠実に答えた」


 そう駄目押しをすると、向こう側から唸り声が聞こえた。


「……言わないと駄目?」

「別に言わなくてもいい。相応の評価を下すだけ」

「だよねー。それはちょっと嫌だなあ」


 相澤は脱衣所の壁に背を預けてしばらく黙考した後、溜息から切り出す。


「いつかちゃんと話すから、今日は……別の質問にしてくれたりしない?」


 相澤が困り果てた末にそう懇願してくる。笹埜はふう、と目を瞑った。


 結局ははぐらかされるだろうと思っていたから大して腹も立たないが、彼女はある程度は誠実な人間だ。将来的には言うと断言したからには、それは信じていいだろう。


 「あまり期待しないで待つ」と相槌を打つと苦笑が返ってきた。


「代わりに! 他の質問は何でも答えるよ! 身長体重スリーサイズに初恋の時期、何でも!」

「いや、いい。他に聞きたいことはない」

「今月の動画収入でもいいし、口座の残高も答えちゃう!」

「いらないって。興味ない」

「えー。興味持ってよ、私に」

「なら生理周期を教えて。それか陰毛が生えた時期」

「それはもう私じゃなくて私の身体目当てじゃん」


 湯船ですっかり熱を帯びた吐息をこぼし、笹埜はほんの少しの時間潰しに質問を捻出した。


「……じゃあ――『心』って何だと思う?」


 唐突に真面目な質問が繰り出され、相澤は「ほぁ?」と寒暖差に間抜けな声を上げた。


 笹埜は返答に過度な期待をせず、ただお便りが読み上げられるのを待ってラジオを聞くように、黙って音に耳を傾けた。「ううむ」と芝居がかった唸り声の末、相澤は呟いた。


「急に真面目だ。哲学的だね。勿論、言葉の意味を訊いている訳じゃないよね?」

「当然。それならスマホに訊く。相澤の考えを聞いてみたい」

「そうだなあ、心かぁ。真面目に考えたことなんてないから、浅い答えだよ?」

「うん」


 笹埜が認めると、相澤は持論を述べた。


「私は……『人が誰かを愛するための機能』が心なんだと思う」


 笹埜は頬杖を外して相澤の輪郭を見た。


「――やっぱ人間が自分の『心』を強く認識するのって、大抵、誰かと密接に関わった時だと思うんだ。私はほら、仲が良い人達とか面白い視聴者と触れ合う機会が君より多少は多い。で、そういう時、心に温もりを感じることがしばしばあるの。それらを噛み砕いて解釈すると、心って愛し愛される機能を司る器官なんじゃないかなって。恋愛に限らず、親愛に友愛も」


 笹埜が思っていた以上に、真面目で、深く考えられている相澤の持論だった。


 しばらく黙って言葉を反芻した笹埜は、何度か頷きながら小さな溜息を吐く。「なるほど」呟いて「ありがとう」と感謝で締め括る。彼女の意見に対して反論も賛同もしない。少しぬるくなりつつある湯を引きずるように身体を上げ、深く息を吐き出した。


「もう出る。私の裸を見たいならそこに居なよ」

「わー待った待った! すぐ出るから待って!」


 そうして湯船を出て、相澤が自宅から持ってきているドライヤーを借りて髪を乾かすと、時刻は二十二時を回ろうとしていた。一分一秒を仕事に費やしたいという願望をどうにか抑え込み、湯冷めしないよう厚着をして、笹埜は相澤を駅まで送り届けることにする。


 二人はアパートを後にし、最寄り駅まで伸びる夜の大通りを並び歩いた。


 夜空には星々と月が美しく輝いている。だが、それらを褪せさせるほど都会の夜は眩く明るい。並び立つ街灯や夜の店の明かり、行き交う車のライトが光を忘れさせてくれない。ふと息を吐き出せば、それは幾つもの光を浴びて真っ白に煌めいた。


「笹埜さんは明日、学校休むんだっけ」


 くるりと後ろ向きに歩いて笹埜に尋ねる相澤。その頬は寒暖差に上気していた。街灯により伸びた三股の影が秒針の如く回り躍る。


「君に余計な入浴をさせられなければ休まずに済んだかもね」

「まーたそういう嫌味を言う。他責だよ? それ。良くない良くない」

「冗談だよ。少し頭がスッキリした。ちゃんと休むもんだね」


 多少の反省と共にそう言えば、相澤は少し呆気に取られた様子で口をあんぐり開く。


「なんだよそのアホ面は」

「あ、なんだ、良かった。誰かと思った。ちゃんと笹埜さんだ」


 どこで本人確認をしているのだか問い質したい気持ちをぐっと堪え、笹埜はポケットに手を入れる。「転ぶと危ないよ」「前向いてから言え」言いながら笹埜は手を引き抜いた。


 その手には街灯の明かりを帯びて銀色に輝く物。相澤の不思議そうな目が留まる。


 彼女が尋ねてくるより早く、微かに歩調を早めた笹埜は彼女にそれを差し出した。


「一応、渡しておく」


 手を伸ばしてそれを受け取った彼女は、微かな温もりを帯びた金属に目を落とす。


 鍵だった。何の鍵かは聞くまでもないだろう。笹埜のアパートの合鍵である。


 相澤は完全に足を止め、丸く見開いた目で鍵と笹埜を順に見た。ピタリと唇を閉ざして目の前の光景をどうにか脳で処理して、やがて、恐る恐る真っ白な吐息をこぼした。


「――あは、何これ。不用心じゃない? 何か盗んじゃうかもよ?」


 笹埜は何も言わずに相澤の手から合鍵を奪い返そうとして、相澤は慌てて合鍵を胸元に抱き寄せて後退。「やっぱ返せ」「嫌でーす、返しません」「窃盗犯が」「冗談じゃないですかぁ」相澤は合鍵をぎゅっと胸元に抱き締め、目を隠すように顔を背ける。顔はどうにか軽薄な笑みを浮かべようとしているが、事実を噛み締める度、その顔が喜色に歪む。その眉尻が微かに下がる。それでいて彼女の足取りは、腹立たしいほどに軽い。


 奪い返そうとする手を止めた笹埜は、追い出すように駅の方へ歩きながら言う。


「事前連絡は要らない。勝手に入って勝手に出ていって」

「うん。大事にするね」

「当たり前でしょ。失くしたら鍵を作り直さないといけない」

「分かってる、大事にする。ちゃんと」


 こちらの話を聞いているのだか分からないような相槌を繰り返す相澤。だが、彼女が杜撰な管理をするとも思えない笹埜は、それ以上は疑わないことにした。


 暫く歩くと駅に着く。ホーム前の階段や停まった電車内から漏れ出た明かりを背景に、相澤は手を振りながら去って行く。逆光で仄暗い顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


 笹埜は手など振り返さず、ポケットに両手を入れたまま見送る。


「おやすみ」


 聞こえないような声量で呟くと、運悪く、夜が少し静かだった。


 彼女は月のように明るい顔で笑うと、ぶんぶんと手を振った。「おやすみなさい」

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