クラスの委員長が人気Vtuberだった百合

4kaえんぴつ

第1話




 教室は緩い談笑の声に溢れ、窓から差す昼下がりの陽光が眠気を誘う。


 笹埜ささの咲良さくらが自席で昼ご飯のサンドウィッチを片手にノートパソコンを弄っていると、近くを陣取る女子三人のクラスメイト――佐藤、加藤、近藤の『藤トリオ』の内、加藤が声を上げた。


「エリオ君の新曲、マジでヤバいんだよ。ほんと、全人類が聴くべきだと思う」


 そんなことを言いながら両手で顔面を覆って天井を仰ぐ加藤を、笹埜は気にも留めない。


 高校二年の秋頃ともなれば受験勉強や就職活動が視野に入って気が気でなくなる者も居るものだが、加藤はその現実逃避の手段に『Vtuber』なるものを応援しているらしい。


 VtuberとはVirtual+YouTuberの造語であり、Youtube等の動画投稿プラットフォームを主戦場とする映像コンテンツクリエイターを主に指す。一部の者は生配信を主軸とするストリーマーのような活動を行っており、方針は人それぞれ。特徴として従来の動画投稿者と異なり、イラストや3Dモデルといった二次元的な顔を有している点が挙げられるだろうか。


「おい、無視すんなよぅ笹埜―」


 加藤がホットドッグを食べながら机の足を小さく短い足で蹴ってくる。


 タイミング悪く片手でタイピングしたキーが一つズレ、笹埜は鋭い舌打ちをしてバックスペースを叩くように押す。


 「こわー」「怖っ」「やだねえ」と三人が顔を見合わせるから、笹埜は溜息を吐いた。


「私に言ってんの? 誰だよ、エリオって。またVtuber? イタリア人?」


 真っ黒な艶の無いロングボブが肩先に触れるか触れないか程度まで無造作に伸ばされている。体格は中背で細身。顔立ちは悪くない部類に入るだろうが、やや不愛想。制服は着崩さない。スカート丈も規定通りの善良な女子生徒だった。


 そんな笹埜がため息に続いて吐き捨てた言葉に、しかし加藤はヘラヘラと笑いながら自らのスマートフォンを見せつけた。


「今の私の推し! 見てみ、カッコ良くない?」


 画面には一本の動画が再生されており、そこには男性のイラストと歌詞が矢継ぎ早に流れている。それは所謂、ミュージックビデオと呼ばれるものだった。


 どうやらエリオとは有名企業に所属するVtuberらしい。チャンネル登録者数は三十万人。


「興味ない」


 笹埜がサンドウィッチを口に突っ込んで両手でノートパソコンに手を置き、書きかけだったコーディング作業を進めようとすると、画面との間に再びスマートフォンが差し込まれる。


「興味を持て! マジで格好いいんだって! 超イケメンなの」

「……イラストじゃん。探せばいっぱい出てくるよ」

「お前それ禁句だぞ!」


 今日は随分と元気が有り余っているらしく、休み時間に仕事を進めるのは難しそうだと判断。笹埜は溜息を吐いてノートパソコンを閉じる。それを見た近藤が眼鏡越しにこちらを見た。


「プログラミング、バイトでしょ? この馬鹿の話に付き合ってて大丈夫なの?」

「そう思うならもっと早く止めてほしかったけどね。納期には余裕がある。今やってるのも外で見せて大丈夫な部分だけ。大きな支障は無いよ」

「ならいいか。ご愁傷様」「よくはないだろ」


 他人事のように小綺麗な弁当を食べる近藤から視線を切り、笹埜は自販機で買ったペットボトルの蓋を捻る。仄かなお茶の香りが雑多な弁当に紛れて香った。一口それを飲んだ後、滑りがよくなった口で仕事の手を止められた腹いせを加藤へ吐き捨てる。


「加藤。私はVtuberというコンテンツを否定する気は無いよ。ただ容姿だけ見せられてもイラストレーターのポートフォリオを覗けば似たような絵がいっぱいあるよ、としか返せない」

「内面もイケメンなの!」

「そっか、よかったね」


 物言いたげに犬歯を剥き出しにする加藤から視線を逸らし、笹埜はパソコンに手を置く。


 しかし、話を静聴していた佐藤が食べ終えた弁当に手を合わせながら口を挟む。


「まあでも、人気コンテンツには相応に人気になる理由というものがあると思う。見るだけ見てみれば? 笹埜でも案外楽しめるかもよ」


 佐藤がそう言ってノートパソコンに目を向けるから、笹埜は開きづらくなって手を離す。


「……娯楽としての有用性は否定しないよ。楽しんでる人を冷笑する気も無い。綺麗なイラストを楽しむのだって有意義だと思う。ただ、Vtuberという括りに執心する理由が私には無いってだけ。アレは顔出し配信の顔バレリスクを低減しつつ喜怒哀楽が伝わりやすいってメリットを享受する、両取りの前衛的な配信方法だと認識している。私からすれば、娯楽が欲しいなら生身でもバーチャルでも構わない」

「笹埜は分かってないなあ! キャラクターとしての世界観を楽しむの!」


 加藤がやれやれと肩を竦めるから、そういう楽しみ方もあるのかと知った笹埜は思わず感心をした。確かに、現実の肉体を前面に押し出した人間とは異なり、イラストだからこそ表現できるコンテンツというものは存在するだろう。


「じゃあそのエリオ氏が裏で恋人を作ってても文句ない訳か。見えないところなら」


 ボソッと笹埜が結論を下すと、加藤の顔が彫像の如く固まった。


 近藤は唇を噛んで顔を俯かせ、佐藤は口を窄めながら天井を仰ぎ見る。


「心を持たないキャラクターなのか、中に人が居る仮面配信者なのか。ハッキリしなよ」


 そう結論を下して今度こそノートパソコンを開き直し、作業を再開する笹埜。


 言い返すことができなかった加藤は不貞腐れた顔で残り僅かなホットドッグを貪る。


「……笹埜こそ心が無いよね。Vtuberは生きてるんだって。実像であり偶像なの」

「いやあ、今のはお前の布教がしつこいよ。笹埜はあれでもかなり配慮してくれてる」


 近藤からのフォローが入ると、加藤は更に不貞腐れたように顔を歪めて黙った。


 そんな具合に教室後方の席で四人が騒がしくしている時だった。ふと、誰かが近付いてくる。


 騒がしくし過ぎたかと笹埜や近藤が謝罪の姿勢を見せようとすると、その人物は笑った。


「ご歓談中ごめんね、ちょっと加藤さんに用件! 進路希望調査票……まだだよね?」


 お茶目に笑ってチェックシートを見せるその人物は、このクラスの委員長だった。


 名前は相澤あいざわ茉奈まな。癖のないボブカットや薄っすらと化粧の乗った綺麗な肌が清楚な印象を与えるが、喜怒哀楽のハッキリとしたコロコロと変わる表情や、若干着崩した制服が親しみやすさも演出している。可愛らしい顔立ちをしつつ男女ともに隔てなく接し、大勢に慕われる、そんな人気な委員長である。当然、加藤達も彼女にはよく懐いている様子だ。


「あー! ごめん! すっかり忘れてた! 今日中⁉」

「昨日まで! 昨日の放課後に上手く言って一日延期して貰ったんだけど、私も忘れてた」

「すぐ書くすぐ書く、ちょっと待って!」


 そう言いながらわちゃわちゃと準備を始めた加藤に微笑んだ相澤は、それから、その様子を眺める笹埜、近藤、佐藤の三人を順に見る。「三人のは貰ってます」と笑うから、近藤が「いつもお世話になります」と手を合わせ、佐藤が「ウチの馬鹿がご迷惑を」と続いた。


 そして無事に走り書きを終えた加藤が「はい!」と元気よく差し出せば、相澤は「ありがとう!」と待っていた側にも拘わらず礼を伝え、サムズアップをして自席に戻る。


「推し活、頑張って!」

「うん! ありがとー!」


 戻った相澤は自席でチェックシートにボールペンを走らせると、残りの昼食に手を付けた。


 家で作ってきた弁当には冷凍食品の唐揚げとほうれん草の胡麻和え、卵焼きその他。白米には種なしの梅干しと黒胡麻が散りばめられており、実に美味しそうだ。


「はー、委員長は良い人だ。オタク文化に理解もある。笹埜とは違うね」


 加藤は満悦の表情で相澤をそう評し、笹埜は言葉の最後の皮肉を歯牙にもかけず、要件定義書や仕様書を他の生徒に見られないよう注意しつつ確かめてコーディングを進める。


 相変わらずな二人を苦笑して眺めた近藤は、頬杖を突きながら相澤に視線を寄越した。


「まあ実際、良い人だよね。真面目だけど、不真面目も理解してくれる人だ。懐が広い」


 笹埜はちらりと相澤の方を一瞥する。愛想がよく、大勢に愛され、大勢を愛する。自分とはまるで違う世界の人間だと感じ、思わず「確かに」と呟いた。




 放課後になって、笹埜は一切寄り道もせず最寄り駅から徒歩十分のアパートに帰宅をした。


 殆ど家具も置いていない殺風景なワンルームで、家賃は月六万。立地を考慮するとやや割高で手狭ではあるものの、代わりに防音性やその他設備が充実している。


 部屋には作業デスクが一つと椅子が一つ。それからデスクトップパソコン。寝具は寝袋だ。


 ただいますら言わずに鞄をその辺に放り投げた笹埜は、パソコンを起動してバイト先からのメールを確認。そして、今請け負っている案件を片付けるべく、ノートパソコンから引き抜いたUSBメモリをデスクトップに差し、コーディング作業を再開した。


 依頼内容は新興企業のホームページ作成。スクリプト面で様々な機能を要求しており、お陰で一件の報酬が比較的割高だ。この企業とは是非今後ともお付き合いしたいところだった。


 さて、そんな作業が片付いたのは夜の二十時だった。


 時間を忘れてすっかり作業に没頭していた笹埜は、疲労に軽い眩暈を覚えながら椅子を立ってキッチンに向かい、ヤカンに水を入れて火にかける。


 山積みのカップ麺の一つを無造作に引っ手繰って封を開け、シンクに腰を預けた。


「ふう」


 蓄積した疲労を溜息に乗せ、換気扇で外に追い出す。そのままジッと目を瞑って少しでも脳を休めていると、ジュジュ、と焼けるような沸騰の音を聞いて目を覚ます。沸いた湯をカップ麺に注ぐと、ヤカンで蓋を溶接し、箸を乗せてデスクに持っていった。


 五分の待ち時間中に完成したコードのレビュー依頼をメッセージアプリで提出。


 ようやく手持ちの作業が完全に消え、笹埜は開放感から大きく背中を伸ばした。何度か新着メールが届いていないか確かめた後、五分が経過してカップ麺の蓋を開け、箸を刺す。


 いつものように静かな夕食を過ごそうかと考えた矢先、ふと、昼間の出来事が脳裏を過った。


 笹埜は会議用の有線イヤホンをデスクトップに突き刺し、ブラウザを立ち上げてYouTubeを検索。開いたページに『エリオ_Vtuber』と入力。すると昼間に加藤から見せられた男性のイラスト入りの動画サムネイルがずらりと表示され、試しに一つをクリック。


 下らない三十秒の広告が流れてくるからアドセンスブロックの拡張機能導入の欲求に駆られつつ、善良な消費者として我慢をした。


 麺を啜っていると、ようやく広告が終わって流行りのシューティングゲームの画面が出る。その片隅にはニュルニュルと動く男性のイラスト。Live2Dと呼ばれる、カメラにより人体をトラッキングしてイラストを動かす技術を用いた平面アバターだ。表情の些細な機微も汲み取っており、配信開始の遅刻を詫びる彼の申し訳なさそうな表情を綺麗に映している。


 仮にもクラスメイトである加藤への義理から、まるで興味の無いゲーム画面を映したまま背景情報を知らないと楽しめない雑談を始めた彼を数十秒ほど眺めた笹埜は、確かに加藤が好きそうだという評価を下す。話は面白そうだし、声は明瞭で聞き取りやすい。


 それから微かな興味が湧いて、他のVtuberも見てみようと検索をかける。


 ブラウザから現在配信中のチャンネル一覧を調べ、その中から同時接続数が程々に多い人物を探す。そして、その中の一人『古結メメ』という名前の人物を見付けた。同時視聴者数は一万と少し。イラストは可愛らしい薄水を帯びた白髪の少女で、ダブルピースをしている。


「メメ――メメか。なるほど」


 例えばエリオだとかメメだとか、命名は基本的に実在する日本人名を踏襲しない方が目立ちやすく差別化しやすいのだろう。これが『太一』とか『優香』だったら特定個人と認識するのは難しいが、エリオやメメであれば、知る人はすぐ個人を特定できる。


 勉強になるな。そんなことを考えつつ、笹埜は配信をクリックして開いた。


『めっっっっっちゃ配信遅れたー! ほんとごめん!』


 配信ページを開くや否や、そんな元気な謝罪が飛んできて思わずブラウザバックをしそうになる。実際、カーソルは重なった。だが、笹埜は何を思ったか寸前で指を止めた。


 「あ?」思わず声を上げて、音量ミキサーを調整。音量を少し上げて声に耳を傾ける。


 どこかで聞いたことのあるような声だった。どこだろう。笹埜は目を伏せて記憶を探る。


 古結メメは画面の中で様々な話をする。配信が遅れた理由、今日の配信内容、他愛もない雑談。そして――あるコメントを拾い上げて、こう呟いた。


『夕飯はね、パスタでした。ミートソーススパゲティ』


 そして、続け様にコメントに流れた質問を読み上げた。『お昼?』


『お昼ご飯はふつーのお弁当だったよ。冷食の唐揚げと、ほうれん草と、卵焼き。あと白ご飯! 梅干しが乗ってるやつね! 家で種を外してるの。人前で口から種出すのとか嫌じゃない?』


 声の主が誰かを思い出していた笹埜の脳は不意に、その発言と昼間に見た記憶を結び付ける。


 そういえば、ある女子生徒の昼ご飯も似たような――そう思った次の瞬間、チェックシートを持って帰った相澤茉奈委員長の顔を思い出し「あ」と呟いた。




 翌日の三限目は体育の授業だった。


 着替えを済ませた女子生徒達が冬に冷え始めた校庭へ渋々と向かう中、相澤は委員長として全員が着替えを済ませたのを確かめてから、律義に自分の手で更衣室を施錠する。


 頃合いを見計らった笹埜は、余計なお世話と知りながらその隣に並んだ。


「相澤」

「わっ、さ、笹埜さん? どしたの?」


 吃驚した相澤は目を丸くしつつ、しかしすぐ柔らかく微笑み、笹埜に意図を尋ねる。


 こんな不気味な行動をする奴に、よくもまあ物腰柔らかく接することができるものだ。思い返せば、この二年間の学生生活でも何度か彼女が男女に想いを打ち明けられている場面を見たことがある。それらはこういう些末な行動に起因しているのだろう。


 そんなことを考えながら、笹埜は少し躊躇った後に前置きをした。


「何の話か分からなかったら聞き流してほしいんだけど」

「う、うん。うん? ……うん、どうしたの?」

「配信で昼飯の話はしない方がいいと思う。皆見てる」


 そう言い残し、笹埜は遅刻しないよう急ぎ足で校庭へ向かおうとする。そして去り際、最後に相澤の顔を確かめた。


 彼女の顔は瞬間冷凍されていた。半笑いのまま表情を強張らせ――その額に薄っすらと冷や汗が滲む。微かに頬を紅潮させ始めるや否や、唇を噛んで瞳を逸らし、手をすりすりと胸元で合わせた。やがて、だらだらと汗を流し、青褪めた顔で言葉を探した。だが、笹埜は彼女の言葉を待たずに「それだけ。遅れない内に行こう」と言い残し、すっかり立ち止まってしまった彼女を置いて校庭へ向かった。




 その日の放課後、笹埜が高校から最寄り駅までの道を静かに歩いている時だった。


 大通りの広い歩道で、後ろからスニーカーがアスファルトを叩く急ぎ足の音が聞こえてくる。やがて息を切らしながら何者かが笹埜に横に並び、その人物は、開口一番にこう言った。


「お話がございます!」


 見ると相澤だった。


 彼女が授業中や休み時間を問わずにチラチラとこちらの動向を窺っていたのを知っていた笹埜は、今更驚くこともなく静かな目を返す。ただ少し、悪い事をしたかと思っていた。手短に話し過ぎた。彼女の立場なら、言いふらされないか心配になるのも当然だ。


「あのぉ……その、ですね。ええと、笹埜さんにご相談がありまして」

「何?」

「どうすれば、黙っててくれますかね? あの、配信の件、ヘヘ」


 下手に出ながら顔色を窺って笑う相澤を、笹埜は憐みの目で見た。


 古結メメの正体が彼女であるかどうかは敢えて確かめなかったが、この様子では間違いないのだろう。


「本当に古結メメなんだ、委員長」

「わー! こんな白昼堂々!」


 呟いた笹埜の口を塞ぐように慌てた相澤の手が口に伸びる。


 周囲に聞いていた人が居ないのを確かめた相澤はほっと胸を撫で下ろす。周囲に人が居ないのを確かめてから口にしていた笹埜は、信用が無い物だと落胆しつつ溜息。


「まさか教室にVtuberが居るとは。昨日は悪い事を言った、ごめんね」

「……や、別に。そんな、謝らないで。あの辺は配信者側も認識してることだから」

「身バレの件は気にしなくていいよ。相澤が嫌と言うなら言いふらす気は無いから」

「流石にちょーっと嫌かもです」


 相澤が指先でちんまりと目盛りを作って苦い顔をするから、笹埜は頷いて手を振った。


「なら言わないよ。じゃあね」


 元々、彼女に事実を突きつけて何かの脅しをしたかった訳ではない。


 ただ、クラスメイトが見ている中で摂った昼食の話を同時接続数一万人超えの配信者が平然と語るのはリスクがあるだろうと、余計なお世話をしただけだ。その業界に精通する――例えば、加藤のような人も居る。いつどこで身元が割れるか分かったものではない。


 笹埜が約束をして別れを告げ、足早に駅へと向かおうとした矢先、「いやいやいやいや」と狼狽しながら相澤が同じく急ぎ足で追い駆けて来た。横に並んだ彼女は、はっきりと目に動揺を浮かべて眉を顰め、笹埜の顔を覗き込んだ。


「え? 対価とかは? 要求しないの?」

「は? 何、くれんの? じゃあ口止め料で百億」

「それは流石に無理だけど――なんか、そんなあっさり約束されても信じ切れないと言うか」

「別に信じてほしい訳じゃないし、信じられないのはそっちの問題でしょ。責任転嫁するな」

「わあ! 手厳しい」


 一人静かな帰路を邪魔されている腹いせに吐き捨てると、相澤は思わずといった様子で半笑いを浮かべた。だが、その手厳しい言葉を彼女はのらりくらりと躱している。


 暖簾を腕で押しているような気分で、笹埜はうんざりした顔を隠せない。


「…………いやあ、でも、できることなら黙っていてくれるお礼もしたいんだよね」


 そう呟く彼女の口ぶりには何か含むものがありそうだった。


 笹埜が細めた目を向けると、胡散臭い微笑を浮かべて上手な口笛と共に顔を逸らし、悩むフリを見せる。やがて相澤は、白々しくハッと顔を上げて手を打った。


 そして妙案を思い浮かんだとばかりに不敵な笑みで笹埜を見る。


「――そうだ! 笹埜さんって、一人暮らしなんだっけ」


 この茶番に乗っかれということだろうか。口汚い嘲笑が喉元まで上がってくるが、流石にそれを敢行できるほど彼女との仲は親しくない。仮にも真っ当な委員長の同級生として、笹埜は「そうだけど」――それが何だ。と視線で尋ねる程度に留めた。


 すると、彼女は胸元で手を合わせて茶化すような笑みを覗かせる。


「健康な食生活、送ってる?」

「余計なお世話」

「送ってなさそうだね」


 失礼な奴だ。笹埜がそう言おうとした矢先、相澤は指を立てて妙案を語った。


「じゃあさ、私が今日の晩御飯を作るよ。口止め料はそれでどう?」


 「……はあ?」と笹埜が呆れた声を上げると、相澤は誇らしそうに胸に手を置いた。


「これでも配信でかなり稼いでるの。夕食代は勿論、私が持つよ。それに、自慢だけど料理の腕にも自信があります。忠告と沈黙の対価として、どうかな?」


 笹埜は呆れ顔のまま、ブレザーのポケットに手を置いて考える。


 食費が浮くのは悪くない。だが、他人の手料理をわざわざ食べたい訳ではないし、家に誰かを招いて気を遣うのもごめんだ。何より、そうしてほしいと思う程の何かを彼女に対して提示したつもりもない。ただもう少し慎重になれと余計なお世話を働いただけだ。


 笹埜は溜息混じりに彼女の提案を断ろうとする。


「そんなことしなくても誰にも言わないって。心配なら念書を書いてもいいよ」

「や、まあ、その辺は笹埜さんを信じてるから別にいいよ。ただ、私の心理的な問題。ちゃんとしたご飯、食べてないでしょ? 普段のお昼とか見る感じ」


 胸に手を置いた相澤が見透かしたように笑うから、笹埜は押し黙る。嘘を考えた。


 しかし相澤は笑ったまま、その思考を遮るように言葉を続ける。


「口止め料もあるけれど、委員長として、クラスメイトの心配もしてる」


 笹埜は眉根を寄せて彼女の表情を注視する。少しの嘘が滲んでいるように見えた。


「……ただのクラスメイトの食生活を心配して晩御飯を作る? 普通」


 相澤は不敵な笑みをひょいと逸らして素知らぬ顔を見せた。笹埜は追及を試みる。


「自分から口止めの対価を提示して――その内容がわざわざ家に来て自腹で夕飯を用意する? 何企んでんの? 泥棒? 金目の物とかは置いてないけど」


 そんな人物でないことは分かっているが、何か含むものがあるのは確かだろう。


「んー……そうだなあ」


 相澤は言葉を探すように視線を虚空に投げて数秒、曖昧な笑みで誤魔化した。


「そこはほら、あんまし掘り下げない感じでいきません? win-winじゃないですかぁ」


 ダブルピースをクイクイと曲げ、ペロ、と舌を出す相澤。


 ハッキリと迷惑だと言えば拒むことはできるだろうが、そこまで強く嫌だという感情がある訳でもない。彼女の真意が分からないことだけが不穏だったが、困るようなこともない。


 ここで幾らか問答をするより、黙って家に上げて飯を作らせる方が賢明か。


 笹埜は目を細めて後ろ髪を掻いた後、思考を溜息に押し込んで吐き捨てた。


「……感謝はしないし配慮もしない。夕飯を作らせた後は帰らせる。怪しい動きを見せたら容赦なく殴る。それでいいなら」


 相澤は軽薄にサムズアップをして了承の意を示した。


 今後は余計なお世話を焼く相手もしっかりと選ぶとしよう。




 そうして二人が駅から徒歩十分のアパートに帰ると、時間は十七時を過ぎていた。斜陽が差し込む部屋は濃い橙色に染まっており、笹埜はカーテンを閉めて照明を灯す。


「うわー、何も無いね!」


 部屋に上がった相澤は開口一番、失礼にも笹埜の部屋をそう評した。


 実際、家具は殆ど無い。家電は冷蔵庫と電子レンジとエアコン、それと洗濯機、掃除機程度か。家での三食は全てカップ麺の類で済ませており、たまに栄養に気を遣って冷凍食品の野菜を無造作に突っ込む程度。『不摂生な生活してそう』はまさしく大正解だ。


 相澤はスーパーで買った食材入りのビニール袋を床に置いて、唖然とした様子でワンルームを物色。不躾にゴミ箱の中を見て、容器包装プラの袋に入った大量のカップ麺のゴミに顔を顰める。洗面台には今朝食べたカップ麺の容器。「うそでしょ」と彼女は眩暈を堪えた。


「こんな生活してたら身体壊しちゃうよ!」


 笹埜は何も言わずに鞄をその辺に捨て、普段通りにデスクへ。パソコンを起動する。


「笹埜さーん、聞いてる?」

「聞いてる。聞く耳を持たないだけ」

「ご両親は何も言わないの? というか、学校でもプログラミング? のバイトしてるけど、生活費とかどうしてる? もしかしてご家族と仲が悪いの? 部屋にも何も無いし」


 相澤はブレザーを置いた鞄の上に被せて置き、カーディガンと一緒にブラウスを袖捲りして夕飯の準備を始める。その傍らで笹埜の私生活に対する心配の声を上げた。


 心配も配慮も有難いが、余計なお世話である。


 笹埜は視線も寄越さずメールボックスを確かめながら呟いた。


「詮索するなら帰って。夕飯の代金は返すから」


 そう言って届いているメールに返信を打ち始める笹埜に、相澤はしょんぼりと肩を落とす。少し寂しそうに笹埜の横顔を眺めた後、申し訳なさそうに手を合わせた。


「……はーい。ごめんなさい。大人しく料理します」


 そう言って相澤は料理を始める。


 無論、調理器具などという文明の利器はこの部屋には存在しなかったが、それらは道中、包丁もまな板もフライパンの類も置いていないという話を聞いて戦慄していた相澤が百円ショップに立ち寄って購入していた。本人は置いていくよと語っていたが、どうせ使わないので処分してほしいものだ。笹埜一人であればカップ麺しか食べないのだから。


 彼女は鶏肉を新品のまな板に広げて下処理をし、控えめな塩胡椒や料理酒で下味をつける。生クリームを用意しながらオリーブオイルをフライパンに一回し。火にかけ、ある程度熱を入れてから鶏肉を皮目を下にして投入。焼き色が付いたらひっくり返してキノコ類を追加し、蒸し焼き。ある程度火が通ったのを菜箸で確かめてから、口笛を吹きつつ生クリームを投入。


 傍らでパックご飯を電子レンジに投入。


 時計を確認し、スイッチは入れずにそのままにする。


「炊飯器、買ったら? 今はお米も高いけど、それでも光熱費込みでパックよりは安いよ」


 惚れ惚れするような手際を思わず眺めていた笹埜は、向けられた視線から逃げるようにディスプレイに目を向けて新しい案件の仕様書を読む。少々複雑な案件のようで、後日会議をしたいとのことだった。何から何まで面倒くさいと思いつつ、まずは提案に応じた。


「そもそも私は米を食わない。カップ麺でいい」

「お手軽で美味しいけどね。三食それだと高血圧腎臓病まっしぐらだよぅ?」

「お昼はコンビニのサンドウィッチだから三食じゃない。二食」

「あーいえばこーいうね。二食でも似たようなものです」

「いいよ、死んだら死んだで。病院にも行かずひっそりと死ぬから誰にも迷惑をかけない」

「寂しいこと言うなあ。笹埜さんが死んじゃったら私、悲しいよ?」

「ほぼ初対面なのに?」


 笹埜がそう切り返すと、相澤は淀みなく叩いていた軽口をぴたりと止める。


 何か変なことを言ったかと彼女の顔を見れば、相澤は曖昧な笑みで視線を泳がせた後、少し含むものがある笑みで「ふふ、確かにね」と肯定した。


「まあでもクラスメイトじゃん? 笹埜さんが身バレの忠告してくれたのも、そうでしょ? 同じクラスで年間通して勉強してるんだから、会話が無くてもお友達だよ」

「じゃあ苛めの被害者と加害者もお友達だ」

「うわ、誰かと思ったら笹埜さんだ! 捻くれ過ぎてて天邪鬼かと思った!」

「よく口が回るね。流石はチャンネル登録者五十万人超えの超人気個人Vtuber。同時接続数一万人を超える弁舌をご披露いただきありがとうございます。感服しました。こんメメ~」


 昨日、古結メメの配信アーカイブを幾つか見た。彼女の配信開始時の挨拶を真似して小馬鹿にしてやると、彼女は飄々とした顔を一転、真っ赤に染めて悔しそうに唇を噛んだ。


 ぐぅ、と唸りながら踵を上げ下げして悔しさを押し殺す相澤。ぷく、と頬が膨らんだ。


「――はい、準備完了」


 そうして三十分ほどで夕飯の支度を終えた相澤は、時計を確認する。時刻は十八時。


 夕食はまだ少しだけ早いため、一時間ほどスマートフォンで時間を潰すことにした。


 相澤は敷物すらない殺風景なフローリングにペタッと座って、鞄を抱えながら退屈な時間をSNSで消化する。しかし、初めて訪れるクラスメイトの家でそんな寂しいこともないだろう、と、スマートフォンを置いて笹埜を見た。こちらを全く気にも留めずに作業に没頭する横顔を静かに眺め、先ほどの言葉を思い出し、小さな溜息と不満そうな顔を覗かせる。それを人当たりの良い笑みで覆い隠すと、笹埜の横顔に声を掛けた。


「そのバイトって、いつからやってるの?」


 笹埜は返答をせず、視線すら向けずにキーボードを叩いては難しそうな顔で頭を掻いての繰り返し。無視だろうかと少し傷付いた相澤が不貞腐れたように膝を抱え「おーい?」ともう一度だけ声を掛けてみた。すると、ビクッと手を止めた笹埜が身構えてこちらを見る。


「――っああ、なんだ、相澤。何? 呼んだ?」


 どうやら聞こえていなかったらしい。こうして改まって聞かれると他愛のない話で仕事を遮ったのが申し訳なくなるが、言った以上は引っ込められない。


「大した話じゃないんだけどさ。その仕事、いつからやってるのかなーって」

「……高校入学の直後。中学の頃からパソコンに触ってたからね」


 素直に答えてくれたことを意外そうに思いつつ、相澤は何度か頷いて質問を重ねた。


「これは興味本位の詮索じゃなくて、クラスメイトとしての心配からの質問なんだけど」

「狡い聞き方だね、拒んだら私が悪者だ。卑怯者」

「生活費、自分で稼いでるの? お金、困ってたり?」


 興味本位で聞くだけ聞いて解決案を提示しない人間はあまり好ましくない。


 相澤自身もそう思っているから、返答次第では彼女の家庭環境に関して行政への相談や、最悪の場合は――他の選択肢だって考えられた。しかし、返答は意外なものだった。


「……いや、問題なく食っていけるだけのお金はあるよ。半分くらいは趣味だね」

「ふぅん……ならいいけど。それならちゃんとご飯食べなよ。三食カップ麺は駄目」

「二食ね。あと作るのが面倒くさい。時間が惜しい。固形物で胃が膨らめばそれでいい」


 眠そうな目をどうにかこじ開けてディスプレイと睨み合う笹埜。


 暖簾を腕で押しているような気分になりながら、相澤は不満を溜息で押し殺した。


 ――そうして、時刻は十九時を迎えた。相澤は用意しておいた夕飯を温め直して気付く。


「あ、テーブル」


 そう、笹埜のワンルームに作業用デスク以外のテーブルは無い。無論、椅子も。


 置こうと思って皿を持ち上げた姿勢のまま固まり、どうしようかと相澤が笹埜に視線を送る。視線を受け取った笹埜は少し考えた後、自らが作業に使ってるデスクを指で叩く。


「取り敢えず私の分はここでいいや」

「了解。それで、私は?」


 尋ねながら皿の一部を笹埜の前に置いた相澤は、次いで半笑いで自分の食卓を問う。


 ぐるりと部屋を見回しても簡易的なテーブルになるものすら見当たらず、笹埜は指でフローリング床を指した。相澤の頬が引き攣る。「マジ?」「まあ、ここしか無いからね」相澤はどうしようもない人間を見るような目で笹埜を眺めた後、両手で顔を覆って嘆く。


「……来客なんて想定してないもんね。しょうがないか」


 これに関しては半ば強引に家に上がった相澤にも非がある。素直に床飯を受け入れ、皿を床に置いていき、割り箸を持ってその場に座り込んだ。


「それじゃ食べよっか。いただきまーす」

「はい、いただきます」


 そう言うや否や、笹埜は食事を口に放り込んで咀嚼をしては指をキーボードに置いて、そんな行儀の悪い夕飯を始める。対照的に、相澤は一人寂しく地べたでお行儀よく食べる。


 そんな奇妙な食事風景が続くことかと思われた矢先、流石の笹埜もこの状況で完全に相澤を無視するのは難しかったか、チラリとそちらを盗み見る。視線に気付いた相澤は少々無理をして普段通りの笑みを浮かべようとした。だが、疑うまでもなく愛想笑いだ。


 笹埜は溜息を吐くと食器を持ち上げ、一つずつ相澤の目の前に置く。


 そして、椅子をデスクに差し戻して、相澤同様にフローリングに座り込んだ。それを見た相澤は茶化すようでいて、心から嬉しそうな笑みをこぼす。


「優しいじゃん」

「流石の私も気が引けた」


 言いながら笹埜は鶏肉とキノコのクリーム煮を口に入れ、白米を次々と放り込んでいく。やや塩気が薄いような気がするが、普段、カップ麺で大量に塩分を摂取している笹埜の身体にはこれくらいがいいのだろう。味は美味。


 久しぶりに中毒的でない繊細な味付けを舌で堪能していた。普段はロクに噛まずに胃の中に放り込んでいたが、今晩は少し、丁寧に味わおうと思えた。


 笹埜が丁寧に咀嚼をして少しずつ食事を進めていると、そんな笹埜の顔を目の前で相澤がジッと見詰めていた。何かを聞きたげだが、そのせいで非常に食べづらい。


「何?」

「どう? 私の料理の腕前は」


 相澤が返答を聞くまでもないとばかりに誇らしげに唇を曲げ、笹埜は面倒なことを聞いてくると言わんばかりに半目を開く。


 そんなことか――とは思うが、そういえば味に関する感想は何も言っていなかった。


 この夕食は確かに彼女からの礼という体裁を持ってはいるが、それは笹埜が彼女へ非礼を尽くしていい理由にはなるまい。笹埜は感想に説得力を出すために主菜と副菜に一度ずつ箸を伸ばし、よく噛んで飲み込んでから素っ気なく言った。


「美味しいよ」


 すると相澤は頬を綻ばせ、だらしない口で嬉しそうな声を上げた。


「良かった」


 笹埜は皿に並べられた料理を、再び一通り口に運んでいく。


 笹埜の普段の食生活を考慮してか味はやや薄めに作られているが、全体的に丁寧な下処理がされており、食べやすいよう工夫がされて施されている。毎日三食熱湯で緩めた濃い味付けの乾麺では届かなかった部分の満福中枢が刺激されるのを強く感じた。


「美味しい」


 料理を眺めながら繰り返し淡白に呟くと、相澤が唖然とした表情で笹埜を見た。


 少し照れ臭いような嬉しいような、恥ずかしがるような。何とも言い難い頬の紅潮を茶化した笑みに乗せ、相澤は呟いた。


「ずっと黙っててくれるなら、今後も度々作りに来てあげるけど」


 笹埜は少し考えるように視線をフローリングに落とし、答えた。


「別にいい」

「え、黙っててくれないの⁉ ここまでしたのに!」

「そうじゃなくて。――そこまでしなくても誰にも言わないって。信用無いな」


 どうにも信用が無いのか、それともやはり、別の理由があるのか。


 これで二度目になる口約束を、それでもやはり相澤は信じない。「んー」と答えが出ているくせに白々しく悩む素振りを見せてから、膝を抱えて座り直し、笑った。


「でも、いいよ。やっぱり、君が嫌じゃないなら作りに来る。食生活が心配だし」


 やはりそうなるか。笹埜は美味しい夕飯をご馳走になった手前、少し温和に言う。


「やっぱり何か企んでるでしょ。何が目的?」

「嫌だなあ、笹埜さん。私は委員長として、心配なクラスメイトの生活支援をしてるの」

「どっかで会ったことあるっけ。私が忘れてるだけ?」


 やはり、どう考えても初対面で何の利害関係も無い相手にする奉仕ではない。笹埜が疑うような目を向けるも、相澤は膝を抱えたまま挑発的な笑みを見せ「さあ」と呟く。


「どうでしょう。どう思う?」

「質問に答えろ」

「私には詮索するなって言うのに?」


 唇を尖らせる相澤に、笹埜は投げやりに額を押さえて吐き捨てた。


「……あー、はいはい。分かったよ、部屋から物を盗まないならいい。好きにして」

「そういうのはさ、せめて盗めるくらい物を置いてから言おうよ」


 相澤が呆れた顔で床飯を手で示し、笹埜はぐうの音も出せずに肩を竦めた。

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