水嫌いの人魚は恋に沈む。

七沢ななせ

第1話 交差する運命

 夏。この季節になると、なぜだかとても寂しくなる。賑わう街や、蝉の声に包まれているとなんだか、この世界にたった1人みたいな気がして。


 海のにおい。はねる水飛沫。揺れる風鈴。


 君と出会うまでは、その全部が疎ましくて仕方がなかったんだ。


 ◇◇◇


 この街は陽炎だ。夏の暑さに全てが霞んでしまいそうで、今にも溶けてしまいそうに実感がない。雑踏の中を駆けまわる子供たちの歓声や、交差点を歩く人の波。


 水瀬美弦みなせみつるは、そっと目を閉じる。長いまつ毛の傘に、夏の雫が落ちた。ショートカットの髪に手をやると、じっとりと汗ばんでいるのがわかる。


(早く帰ろう)


 補修帰りの道は、いつもより長く感じる。学校近くのコンビニで買ったアイスの、ビニール袋が冷たい。融けてしまう前に帰らなければ。


 美弦は再び目を開き、耳につけたワイヤレスイヤホンをぎゅっと押し込んだ。

 

 これから海にでも行くのか、浮き輪を小脇に抱えた家族連れが楽しそうに横を通り過ぎて行った。


 変わり映えのしない毎日。暑さにだれて、ぼうっとして、寝て、起きて。その繰り返しが続く。けれど別に変化を求めているわけでもない。ずり落ちてきたスクールバッグを肩にかけなおし、人通りの少ない路地に入った。


 美弦の家は郊外にある。両親が幼いころに交通事故で亡くなったため、広い平屋でそのまま一人暮らしをしている。生活費や学費そのほか諸々は、母の実家が出してくれているらしい。そのまま享受しているわけだが、美弦は彼らの顔を知らない。あったこともなければ、どんな人たちなのかも知らない。


 水滴がびっしりついたビニール袋がふくらはぎあたりに張り付いている。もう少しで家だ。美弦の家はこの先にあって、閑散とした住宅地のさらに奥に建っている。いろいろ詮索してくるご近所さんに会いたくなくて、美弦はいつものように細い路地を歩くことを選ぶ。


 今日の夕飯はカップ麺でいいか、とぼんやり思ったその時だった。


 美弦の目の前で、男がコンクリートの壁に激突した。危うく美弦も道連れになるところだった。すんでのところで身をかわしたことがよくなかったのかもしれない。男はもろに頭を打ち付け、ずるずると崩れ落ちていく。金髪の頭に耳につけた派手なピアス。半袖から覗く腕には蛇か何かのデザインのタトゥー。美弦とはかかわりのない人種だということは一目でわかった。


「ちょっ、大丈夫――」


 アイスの袋を投げ出し、かがみこんだ美弦。ピクリとも動かない男。意識を失っているのか、それとももう死んでいるのか。壁に頭を打ち付けたのだから、最低でも脳震盪は起こしているだろう。スマホを取り出し、救急に通報しようとしたその時。


「あー、お姉さん見なかったことにして」


 突如降ってきた、気だるげな声。びくりと顔を上げると、そこには黒髪の少年が立っていた。前ボタンをすべて外した学生服。胸元に着いた校章は見覚えがあったけれど、どこなのかは思い出せない。ただひとつわかること――この少年は不良だ。関わっちゃいけない。


 さらさらとした黒髪。センターパートにした前髪の奥に覗く目は切れ長で、危険な光を放っている。左手にぶらさげているのは、同じく派手な男の襟首。彼もぐったりとしていて、子猫のように引きずられているというのに身動きしない。


「こいつ死んでないよねー?」


 ぱっとぶら下げていた男を放し、美弦の隣にかがみこむ。ぐっと近くなった彼の横顔にくぎ付けになる。それは彼が常人離れした美貌を持っていたからではない。狼に狙われた兎のように、身体がこわばって動かなかったのだ。この少年は何をしでかすかわからない。


 おーい、と言いながら男の顔をぺちぺちと叩く少年。唇の端に存在感を放つリングピアス。耳には銀色のヘリックスが二つと、ロブが一つ。


「お姉さんさ、もう行っていいよ」


 にこりと唇をまげて、彼はこちらに顔を向けた。


「……あんた、こんなことして何も思わないわけ?」


 へらへらしている彼を見ていると、恐怖を通り越して怒りがわいてくる。こんなことに巻き込まれたことにも腹が立つ。少年は悪びれもせず頷いた。


「えー、だって正当防衛だもん。こいつらが先に殴ってきたし」

「正当防衛って、こんなにしなくてもいいじゃない!」


 うう、と倒れたうめき声をあげた。少年から目をそらし、美弦は男に手を伸ばす。男の身体に触れようとした否や、少年の手が美弦の腕をつかんだ。


「こいつらに優しくしない方がいいよ。お姉さん、狙われちゃうよ」

「どういう意味?」

「そのまんま」


 西日を反射して、少年のリップピアスがきらっと光る。


「俺、一条穂高いちじょうほだか。お姉さんは?」


 一条穂高、と名乗った少年は笑っているように見えた。けれど、目は笑っていない。名前を教えちゃいけない、とわかっていた。けれど、その目に引き込まれるように、美弦は口を開いていた。


「水瀬、美弦」

「みつるちゃんっていうんだ」


 漢字というよりひらがなを連想させる口調で、穂高はつぶやいた。


 熱くなったコンクリートに放置していたアイスは、とっくに液体に変わっていた。

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水嫌いの人魚は恋に沈む。 七沢ななせ @hinako1223

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