vol.4 -訪青-
【20240820,12:35 ueno - shin aomori:石狩憂太】
寝過ごして、気づいたら那須塩原まで来てしまった。
いや、嘘だ。
那須塩原どころか、新青森まで来てしまった。
いや、これも嘘だ。
大きな仕事から今年は開放されたから、自分のためだけに時間と金を使おうと思って、趣味でもないのに夏休みの終わりに旅行をすることにしたのだった。青森にした理由は、北海道には(小学生の頃、ボーイスカウトで)行ったことがあるからというだけで。順番的に次は青森、だったのだ。
いや、それも嘘だ。
まったく仕事から解放されてなんていないし、北海道に行ったことはあるけれど、それゆえにこの旅が青森でなければならなかったなんてことはない。やはり過去に背負った業のようなもの(大切な人との別れとか、死とか)に導かれての訪青なのだろう。
いや、これもまた嘘だ。正直に言って、大切な人を失った経験は、物質的な喪失感の襲来を予感させつつも、その実感のないまま、俺の中に潜在し続けて未だ顔を見せないでいる。
畢竟、自分でもまだよく分からないのだが、でも何かしらの、恐らくは例のあの「ニル・アドミラリィ」という名の必然性みたいなものがあって今、俺は新青森駅のトイレでスマホを弄っているのだろうと感じる。駅ナカ食堂の行き過ぎた太宰アピールは無視しろ、と俺はもう半分の俺に向けてインスタにテキストだけのストーリーを更新する。
新青森に着いたら、一階の土産売り場に降りて「水とコーヒー」( https://www.instagram.com/mizutocoffee/ )に行くと美味いコーヒーが飲める。「本日のコーヒー」は「ケニア」だった。ICEを注文すると作り置きが注がれるだけだが、HOTを頼むと淹れたてが飲める。美味いコーヒーを飲むためのコツだ。香りが良く、撚た味も無い。豆が良い。
とりあえず青森駅に移動してクラフトビールを飲んだ。⑤Lucky Envelope Brewing - Ube Latte Cream Stout、好きなスタウトだったが目的は酒ではなく取材だった。青森には「じょっぱり」という日本酒があるらしく、しかもこの令和の時代にあっても全国への流通はほとんどなく、まさに地酒ということらしいので是非とも飲んでみたかったのだが、今はなかなか置いていないようで、地元の人から酒の在り処を取材するのが一番手っ取り早いと思ったのだ。
その前には、やはり適当に寿司バーなるものに入ってみたが、都内でも飲めるような酒しかなく、いや、むしろそれを置いていることこそがこの土地における反転したステータスなのだろうが、流石青森! と思うような絶品のホタテやマグロが当たり前のように出されることと、どこででも飲める「一流」酒の下品さとのギャップと、喫煙OKという田舎ならではのサービス精神(あるいは媚?)から招かれるタバコ臭さとが混濁する空間が、長居を回避させていた。
DEMO BEER( https://www.instagram.com/demobeeraomori/ )の雇われ店主(見た目は、麦わら帽子とスカーフで着飾った津軽弁の村上隆)曰く、何件かの本当に地元民しか行かないような店に行けば、あるいは飲めるのではないか、とのことだった。いくつか教えてもらった店を適当に巡り、店の外観と自分の直感とを混ぜ合わせながら、選別してゆく中で目に止まったのは、「じょっぱり 蔵」( https://tabelog.com/aomori/A0201/A020101/2002776/ )という路地裏に佇む居酒屋だった。「じょっぱり」という名が冠されていることも目を引いたが、店外に香る磯の香りに良い印象を得た。というよりは、海鮮の香りは確実にするのに、そこに嫌味がない。海鮮を扱う店特有の生臭さが一切ない、それは店の隅々までメンテナンスが行き届いている証拠で、そんな店は大抵美味いと相場が決まっているのである。
【20240820,21:43 aomori:寺尾真史】
明日は恐山行こうと思って、
「ほー、あ、靈場ですねゃ。何かあるかもvわかんねぇ。はっはっ。引き付けるもんがあるかもy」
何かそういう話とかってありますか?
「や確かに神秘的ですゆo。この世のものとは思えなyような」
あーやっぱそうなんすね。さっきのビアバーでもそう言われました。雰囲気違うって。
「端っこに佛ヶ浦ってさ。あれも神秘的ですよぬ。なんでこんなんなるんかなってさ。裸nの岩がすa、白い絶壁でさ、あれは人工ではできないですゅ。何かあるんだぁ。分かる人には分かる」
むつ市にホテル取ったので、行けたら行こうと思って。
「恐山はさ、一〇代の頃に行ったっきりだgら。はっはっ。おばあちゃんと一緒にさ」
イタコとかっすよね。
「イタコをさa。年に一囘だったかな」
何か、何か怖い話、実体験でないっすか?
「んふっふっ! aんまりにもあっでぇ、なにからっはっはっ、なにがら言ったらいいが分がんねゅ、はっはっ」
え! マジっすか!
「はいyy」
えぇ!
「はっはっ」
ホントっすか! 聞きたいっす聞きたいっす!
「あぬぅ、高校の時にあの、コックリさんって流行ったんu」
おー、こっくりさん、はい。な何が起きたんすか?
「はっはっはっ、あの、あのぅ休み時間ん時に、こっくりさんnぅやったん。四人だけぇやったん」
ふーん、一〇円とかっすよね
「一〇圓玉置いてぬぇ。で、ちょうどブリー……ブルース・リーが、亡がなったあたりだからさぁ、ブリ……ブルース・リーの靈を呼んで見ようっd!」
はっはっはっはっ
「はっはっはっ! 北の窓かどちんかの窓を開けてrさぁ、んで教室でやったん。んださぁ、いぃぎなり、こ。あnぉ、ま自分手ぇ力入れない、ぐーるぐる回ったんでゅ、でぇ、一人の人がさぁ、教室の窓から飛uuびだしてy、次ぃ、歸って来ないん!」
え!
「歸って来ないん!」
えっ!
「あちょー! ほわぁー! ってさ、乘り移ったゅうな聲ぇして。一ヶ月休んだん。それっきり!」
ええ!
「で、その人が雙子のあの弟のほうだったん。うん。でぁ、兄がまた別なクラスなんだけどさぁ、それで聞いたらぁ、なんかぁもう、青森縣内の稲荷神社を全部囘って」
えー!
「うん」
だって、「コックリ」って漢字で書くとなんだか知ってますか?
「分がん ね」
「コ」は「狐」、「ク」は「狗」、「リ」は「狸」なんすよ。
「あぁ、おぉ、あー」
だから、狐が憑いちゃうんすよ。
「ね。んだからぅ、青森縣内の有名どころの稲荷神社を全部なんだか供養しできて、でぅ、一ヶ月後に歸ってきたん」
えー
「ほっほっほ。これ、實話だから! はっはっ。體驗したから。はっはっはっ!」
へぇー、本物っすねー、やばいっすねー!
「一ヶ月歸って来なかったから! 冗談ででぎねぇよねr。だからそっから、學校でコックリさん禁止になったんだからぁ。はっはっはっ」
へぇー、じゃあ、ご主人たちがきっかけで禁止になったんすね
「はっはっ。そうそう。入れる隙間があったんでしょうね」
んー
「全然さそういうのはさぁ、こう關心なかったからさ、普通に力抜いでたらこう、勝手にこう。勝手に動くんで!」
へぇー
「普通に勝手にゆっくりこう動くんねゃ、そのうちぐるぐる回るんで、「誰!? 力入れてるの!」って!」
ぐるぐる!
「nんしたらぁ、一人がもうu窓からもう! ふっふっふっ」
へー
「だkら鞄とか全部、んー置きっぱなしで、したからaもう雙子の持っで行かせて」
すごい話っすね。一ヶ月は本格的っすねー。いやぁ、いい話っすねー
「ねゃ」
本物っすねー
【20240821,09:01 shin aomori - aomori - noheji - simokita:阿部真理恵】
新青森の宿を出て「水とコーヒー」に寄り、これから新青森駅-(JR奥羽本線)-青森駅-(青い森鉄道)-野辺地駅-(JR大湊線)-下北駅と乗り換えてゆく。
青い森鉄道に乗り換えるときには気をつけたほうが良い。青森駅で降車して隣のホームに控える車両に乗れば良いわけではなく、一度改札を出てわざわざ切符を買ってから改めて入場しなければ下北に颯爽と降り立つことはできない。JRの本州最北の駅において、交通系ICなどもはや機能しえない。
テイクアウトのコーヒーがこぼれないよう、スマートに一両編成の車両へと乗り込む。
青い森鉄道は、線路両脇に木々を携えて、ひたすらに青い森の中を突き進む。突き進む。木…木木…木、林…木、木林キ、森木、キ森林キ、木……木、キ…林キ林木……木…青青とした……トンネル、木木、木林、木林、トンネル森林キ木……トンネル……トンネル、トンネルに入るたびにBlutoothイヤホンから流れる音が歪む。突入の瞬間、電波に何かしらが干渉するらしく、音楽がぶつ切、りにされ、混、線のよ、うなも…の…起こった。
トンネル群を抜け、陸奥湾に臨む。
プレイリストはしばらく前に最後の曲を流し終え、ノイズキャンセリングが維持された密室的な無音が、世界の濃度を上げてゆく逆説、逆説的に、音が凝縮されてゆく。真空が発生して耳の奥が痛い。線路の繋ぎ目に合わせて車輪の立てる等間隔の振動が、ノイズキャンセリングを跨ぎ、ややくぐもった音に変形して耳に届く、それが心臓の鼓動のように聞こえて気持ちが悪い。しかも、この路線の特徴なのか、運転士の特徴なのかは分からないが一定の間隔でモーターの回転数が上昇する唸りが髄に響く。胃と肺のあいだが戦ぐ。
似ている。アンドレイ・タルコフスキー「ノスタルジア」(1983)に出て来る温泉街の宿の一室から聞こえて来る念仏を思い出した。
「ノスタルジア」はBlu-ray版よりも旧版DVDの画質が好きだ。ソ連の詩人が、故郷と母を思いながら異郷イタリアを旅する物語。彼は旅先の温泉街で世界の終末を告げる狂人に共感し、彼らだけの〈方法〉で世界を救おうと試みる。1+1=1の世界。
深い理解よりも長い接触を求めるような、色鮮やかなモノクロのような、雨の日に紫煙を誘うような。熟れ過ぎたリンゴのようなザラついた舌触りがして、映し出される暗闇に目を凝らしても一切何も開示してくれない。宇宙のどこかの、古代遺跡の恋物語のような。
野辺地には大きな石燈籠が鎮座していた。「常夜燈」と人々は呼び、かつては野辺地に旅してきた者たちを沈かに受け入れたのだろう。寒い青森の冬空に薄く、あるいは凍てつく縞模様の夜遠くに燈る常夜燈の光は、旅人を無表情に、追い返す訳でもなく歓迎する訳でもなく、ただひたすらに受け入れる。
そんな妄想を、野辺地駅2番線ホームの蒸し暑い待合小屋で、見知らぬ母子の戯れを視界の隅に入れながら深めていると、たった一両の素朴で陰惨な電車ワンマン車両が、ゆっくりとホームに停車した。
「あとはさ、やっpり學生ン時にi多がったねu」
んー
「んで、同級生バイクで、あのo亡くなったんすよ」
ああー
「あぬu……即死だったの。でaa、あの、あてiしの同級生がねで」
はい
「それでぁ、葬儀場に行ってへぁ、葬儀人の人とかがいて、お坊さんがお經唱えで」
んー
「その時、付き合ってた彼女がいたんでぅすよ。その彼女がいきなり「ゔゔぅ…bbbbwゔ…ぅゔbbbv……vvvvゔwoow…wwぼvbb……boゔぅoobvゔ……ゔbbbwwゔゔooゔ……」
えぇ!
「男の聲で「煙草吸いてぇぇ……ゔゔbbvuwb……booovuuゔゔゔ……」「ああ……ぶつかる、ぶツかる……uu……bbbuubbw……wwvoooゔbbゔ……ぶつかる……」って男の聲出すん。立ち上がって」
へぇーー、へぇーー
「でa、みんなそれを抑えてもさa、男の力a出すん。で、やっdと四、五人で抑えてhyぁ」
へー、男の力。じゃあ、その男の人の聲なんだ
「んー。◼️◼️◼️◼️って言うんだげどu、「◼️◼️◼️◼️! いいからaっ!」「もういいからa」って」
んー
「んでu事故現場にi今度行っdて、まだ靈がそこでこう浮遊しdるんだって、事故現場でみんなで行っd。煙草をあげに行ったんでuすよ。事故って、バイクからぶっ飛んで、ドブ川にいきgなり突っ込んじゃったんだって」
んー
「苦しいi苦しいi……とかってさu。ぶつかるぶつかrるuって、苦しい苦しyいってさ」
ああ、
「それ、彼女が言うにはねy。彼女が言ったわけ。實況中継を喋ったわけよ」
はぁー
「現場時の状況を。瞬間を。おほっほっ。それ誰も分かんねぇんだもん! もu亡くなっだってだけ知らされてe行ったんだけど。彼女が瞬間をさa、あaaa……あああhhhh……aaaあ、ぶつかるぶるかるってさ」
はぇー
「で終わったと思ったん。……けど、まだ續いてんだy」
え! あー
「友達の今度家行くじゃん。あのu、仲良ぐ付き合っどったかdら。dで、その彼の部屋が二階だったんy。でa、彼の二階の部屋で、お母さんが「何か記念に持って行ってもいいよ」って。でも誰も持っていくわけねぇ。怖いもん」
見ちゃってるからね。
「dで、男四人さa、彼女の友達も二人來て、一応こうお茶飲みながら。我々は酒飲んでたけどね。そしたら、彼女がふと立っで、トイレ行くんだkなーと思って、思ったら、ぬanかさ。宙に浮いたような感zで、すーって階段のほうに引っ張られるん」
ほぇー、引っ張られる
「やべぇやぇべぇ、ってさ。階段ギリギリでみんなで止めてさ。やべぇやべぇって。階段ギリギリおー、危ない危ない! って「引っ張られてる引っ張られてる! って。今でも鳥肌たってる!」
へぇぇぇー
「物もいっぱいあって、ギターとかもいっぱいあったんだけどsあ。「いい、いい!」って。はっはっはっ」
ははは。いやぁ、怖い。
「あん時は『エクソシスト』つーのも流行ったんだよねゃ」
あー、映画の
「洋畫のねぁ。「vbwbbo……ouubovuuゔぅ……ゔvu……vuvuooゔooo……bwvuuuゔゔぅ…vvbゔゔo……」って、まさしくその感じの日本バージョンを見た感じでさ。あの葬式の時の聲はぬe。わざとって感じがしねぇもんね。先生とかも周りにいるんだよ。はっはっ」
彼女さんに憑いてたんすね。思い入れがあったんだろうな。
「ふっふっ。多分、彼女のことが心配だったんだ。殘して……だからまだ行きたくないっていう。はっはっはっ」
んー、はー、いやぁー、凄い話っすね。
「作りようはねぇからそんな! 意外と友達だと、そ怖くは、なかったんだけどすa! いやぁあん時自分たちがこう、止めなけりゃ階段から絶対落ちてるなって、落ちたら絶対死んでるなって、そう思っtあ時ぬi怖かったね」
はぁー
「今も鳥肌立つな」
いやぁ、凄い話っすねー。じゃぁ多分きっとそのお友達も今頃恐山に行って
「多分、きっとねゃ」
【20240821,12:30-13:45 shimokita-osorezan:石狩憂太】
下北駅は本州JR最北の駅らしい。最北なのになぜ「下」なのかというと、東京が「上」だからだという。
下北駅前の風景は、閑散としたものだった。駅から数キロ離れた場所に繁華街が位置するという田舎のクリシェは、下北駅にも適用されるらしい。下北の場合は、田野辺という土地がそれで、田野辺神社を中心にして、飲食店が軒を並べる。中でも、スナックは二〇〇軒以上存在するという異常性である。実際に行くと、密集する約軒のスナック群と閉店済みの店舗とが混ざり込んで、生と死とが混淆した状態、発酵した街だった。
下北駅を出てすぐのロータリー右手に、恐山線は待ち構えていた。手前の案内所で円の記念乗車券を買い、バスに乗り込むと、石狩憂太以外に乗客は四人ほど、平日でなければもっと乗客がいるのだろう。
「この度は、下北交通恐山線をご利用いただき、ありがとうございます。道行分ほど、ガイド放送にてご一緒させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
何十年前に録られたものなのだろうか? 年季の入ったNHK式の音声ガイドがLo-Fiな音質で車内を流れるのを、石狩憂太は趣のようなものを感じながら聞き入り、車窓を流れる風景のBGMとして「ビデオ」を撮影し、インスタのストーリーにモノクロで投稿した。
「下北半島に位置する霊場・恐山は、今からおよそ年前、慈覚大師円仁によって開かれた霊場です。円仁が彫刻した一体の地蔵「延命地蔵菩薩」を本尊としております。地元では古くから「死ねばお山に行く」と言い伝えられてきました。恐山はあの世に最も近いとされ、死者への供養の場・故人を思い偲ぶ場として、日本各地から参拝客が途絶えることなく訪れています」
バスは恐山に向かって、県道4号線をぐいぐいと下り、市街地から離れ人家が薄れててゆく。どこからが恐山なのかわからない。
「恐山と呼ばれていますが、実際は「恐山」という名前の山が存在するわけではありません。釜臥山をはじめとする八つの山々に囲まれた宇曽利湖があり、宇曽利湖の湖畔に沿うように「霊場恐山・恐山菩提寺」があるのでございます」
意識がぼんやりと薄らいでいった。その意識ならざる意識のなかで、景色を視界に入れていくうち、深い緑青の葉と赤い幹の物量とが、髄々とバス越しに石狩憂太を圧迫し、意識が別の局面に向かって覚醒しはじめる。
「え! マジー!? え、普通に嬉しい!」
たまごっち、真理恵さんが好きそうなの、もう売ってなくて、シンプルなやつにしたけど。
「え、全然! ありがとう。めちゃ良い。普通に嬉しいよ。え、始めてみよ」
マットな、グレーのやつがあったんだけどさ。これかなぁって。
「え、多分こっちのが良かった。バッグに付けようかなー」
良かった。
「今度仕事でドイツ行くから、持っていこうかなー」
ドイツ? 「舞姫」じゃん
《え? ね、見て、今これ憂太さんがくれた》《そう、誕生日。良くない?》《だよね。良いよね》《バッグに付けようかな。めちゃ嬉しい》
生きた樹木の香りが脳を撫で、苦しげな幹の歪みが関節に響く。異様だ。石狩憂太は、樹木のその様子を映像に収めようとスマホを窓に向けた。胃と心臓の隙間は、山の圧力に緊縮し続けていた。
「ヒバの木は、スギ、ヒノキと並ぶ材木として古来より重宝されてきました。また、ヒバはスギのような荒い樹皮を持つもの、滑らかな表皮のもの、強く捻れたもの、と大きく三つに分かれます」
石狩憂太は窓外に掲げたスマホを一度下ろした。この異様な木々の中、人々は、陸奥湾を隔てたこの斧型の地形の真奥の霊場を目指して、整備もされていない山道を只管に、只管に、死者を思いながら歩き続けたのだ。何人がこの道を歩んだのだろう。何人がこの道の先で生者の訪問を待ったのだろう。石狩憂太は生者と、それに伴う死者とに思い巡らせた。異様であることは行脚する人々にとって自明であったのかもしれない。ここは異界に臨む道行なのだから。
「バスが走ります標高の高い参道沿いには、お地蔵様が祀られており、お山に近づけば近づくほどその数は多く見られるようになります。これらのお地蔵さまは、お山に向かう人々が、道中迷うことのないようにとの願いから、お山を信仰する人々によって置かれたものでございます。そのお地蔵様を目印に山道を進む人々は、この「冷水(ひやみず)」で喉を潤し、一息入れてまたお山を目指した、と言い伝えられます」
「冷水」という駅の紹介をガイド音声が終えると同時に、停留所にバスが止まった。こんな山奥で誰が乗ってくるのか、と石狩憂太は開いたドアのほうを一瞥したが、停留所に人影は無かった。
「どうぞ〜、降りて水飲んできて良いですよ〜」
外を見ると、道沿いの岩場の隙間に突き刺された三本の竹筒の先から、清水が流れ出ていた。石狩憂太は自然とバスから降り、そっと岩清水に口をつけた。夏にあって冷たすぎないその清水は、石狩憂太の体を潤したが、その清水の体内への浸透を、石狩憂太は、冷たい物質が口から喉、喉から胃、胃から腸へと落下してゆく過程として知覚していた。
石狩憂太以外の乗客は、不思議と腰を上げずに、ただバスの中から、石狩憂太が体躯を屈めて冷水を飲む様子を、窓越しに見つめていた。まるで一種の儀式を見守る信仰者のように。白地に赤色の線が施されたバスと、山の緑とのコントラストが、この儀式の舞台をより一層際立たせていた。
石狩憂太は、昨日飲んだ酒なんかよりも、よっぽどこの清水のほうが美味いと思った。
「恐山は、カルデラと呼ばれる火山活動で形成された窪地に位置します。今でも地中からは硫黄ガスが噴き出し、温泉が湧き出ております。お山に近づけば近づくほど多くなるお地蔵様と、濃くなっていく硫黄の匂い。それだけで、人々は、異界に踏み入る感覚を得たことでしょう」
ヒバの森を抜けると、一気に視界が開けた。カルデラ湖である宇曽利湖はおよそph3・2〜3・8の強酸性で、一般に生物の生息域には向かず、唯一、石斑魚(ウグイ)だけがその環境に適応可能であるらしい。硫化水素が溶解した湖水は青色と翡翠色とのグラデーションで彩られており、その時々の日射量や気温によって成分が変質し、色を変えるということだった。翡翠色の部分にも硫黄由来の黄色が混ざり、異界の様相を呈している。
「前方に流れますのは、賽の河原、賽の河原。左手に見えます太鼓橋を渡って、死者の霊魂は彼岸に向かう、とされる訳でございますが、ご乗車の皆様は、今、バスに揺られながら、賽の河原を跨いだことになります」
【20230821,13:35-16:11 osorezan:阿部真理恵】
ドキリ、とした。
ここはもう異界なのだ。
山門を抜けて地蔵殿を左に抜けると一面、白い地獄が広がっていた。火山岩の礫を積み上げてできた無数の小山が、斜度のある地形に犇めいており、小山が形成されていない地面にも無数の白礫が溢れている。遠くの山から聞こえて来る夏虫の鳴き声に割り込んで、地中から硫化水素と水蒸気とが噴き出す音、地下水が沸き立つ音とが聞こえて来る。地割れしている部分からは蒸気が噴出し、割れ目の淵が、地中の化学成分の影響で黄や赤などに色づいている。
地中にある無数の座標から、白礫が湧き出して、この無数の小山ができたのだろうか。それとも、天上にある無数の座標から、白礫が零れ落ちて、この無数の小山ができたのだろうか。と考えながら、阿部真理恵は、到底順路とは言えない看板の矢印が指すのに従って、漫ろに白い地獄を巡った。
犇く小山の間隙が、細道となって阿部真理恵を誘導する。巡るうち、礫の密度は徐々に薄まり、礫の径も徐々に小さくなっていった。またそれにともない小山の数も、嵩も、減っていった。小山が数えられる程度にポツポツと点在する頃になると、次第に広くなり続けた道は、広場へと姿を変えていた。
「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり」(森鷗外「舞姫」)
その広場の中央、恐山で最も高い場所、阿部真理恵は、大きな白礫の山の先端に、たまごっちを静かに置いた。
【20240821,16:02 osorezan:石狩憂太】
広場を抜けると、風景は一変して白砂の浜が広がっていた。白浜の先には宇曽利湖の翠が嫋やかに揺れ、その奥には釜臥山の群青が横たわっている。「極楽浜」と言うらしい。やや強めに風が吹き、湖の縁に突き刺されていた風車が勢いよく回った。
不図、石狩憂太は激しい喉の渇きに気付いた。帰りにもう一度「冷水」で降りてあの清水を飲みたいと思った。
いや、やはり「じょっぱり」をなんとか探し出して飲むことにしよう。
「ほら、青森ん雷は横に走から!」
Mix Tape 斎藤月鵬 @VoodooCoofee
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