一歩

キリン

一歩

 目的の場所に辿り着くと、そこには一人の男がいた。薄汚い格好、ここからでも臭ってくる体臭は、あの老人の暮らしぶりがどれほど貧しいかを物語っていた。


「やぁ」


 こちらに気づくと、老人は顔をぐにゃりと歪ませた。下品な笑いだった、まるで旧友に向けるような、そんな顔。

 俺はそんな老人に返事の一つも返さず気まずそうに、いや実際気まずく、気づかないふりをしていた。だが。


「おいおい、無視はよくないんじゃないのか?」


 こっちに来るな、構わないでくれ。

 そう言いたげな俺の態度を正面から踏み倒し、老人はこちらに歩いてきた。逃げようか、と。まるで熊にでも遭遇したかのような気持ちになってしまう。それほどまでに、あの老人は変だった。


「……なんですか」

「おっ、返事をするってことは生きてるな」


 ニマニマ笑いながら、老人はもっと顔を近づけてくる。見開いた目と、更にきつくなった体臭で頭がイカれそうだった。


「いやぁ良かった。うん、命は大事だからなぁ」

「……」


 この人は見破っているのか、それともただ単に奇行を繰り返しているだけなのか? 俺は仕事柄、たくさんの人間の感情を見てきたが、全くわからなかった。


「んで、ワケを聞かせてくれよ」

「は?」

「は、じゃねぇよ。なんでお前はこんな寂しい場所に死にに来たのかって聞いてんだよ」


 喉の奥に餅を突っ込まれたように、言葉が詰まる。否定、激昂、様々な選択肢が脳裏をよぎり、揺らめき、そして俺は選択した。


「……別に、面倒くさくなったんだよ」

「何がだ?」


 絞り出した答えに対し、老人は再度質問を投げかける。これはあれだ、多分延々と質問を投げられ続けるやつだ。


「会社、仕事、ボケた両親の介護。嫁も面倒くさい」

「へぇ」


 老人は急に興味を失ったかのように、俺から一歩二歩下がっていく。何だ、てっきり質問攻めにされるかと思った。身構えていた自分が、なんだか急に馬鹿馬鹿しくなった。


「へぇ、って……何だよそれ」

「感想だよ。お前さんの死にたい理由を聞いた、率直なやつ」


 本気で去ろうとしていたのか、ひどく気怠そうな声を上げてきた。なんだこいつ、という思いが膨れ上がっていく。思わず俺は、興味もないことを怒りのままに聞いてみる。


「じゃあ、お前はどうなんだよ。どうせ俺みたいなやつに同じこと聞いて、そうやって変に煽ってたんじゃないのか?」

「失礼なガキだな、俺は判断をしていたんだ」


 何をワケのわからないことを言ってるんだ、この人。やっぱりどうかしている。


「判断って、何だよ」

「俺ぁ死神だ」


 言葉が出ない。


 ああ、そうか。そうに違いない。きっとこの人はおかしいんだ、イカれているんだ。イカれてしまったからこそ、こんな場所にいるんだ。


 もう、こんなのに構っている気も失せてしまった。

 最後に言葉を交わすのがこんな……いや、俺の最後としてはちょうどいいのかもしれない。そう妥協して、俺は崖端に歩いていった。


「俺は人間がわからねぇ」


 その言葉が、妙に俺の脚を引き止めた。跳ぼうとしたその手前で、俺はもう一度その男の話に耳を傾けた。


「食うものがどこにでもあって、住む場所があって、おまけに種の存続という目的をこれでもかってほど達成してる。なのに、お前らは不幸がどうとか境遇がどうとか、挙句の果てには生きる意味とか言い出しやがる」

「俺のことを言ってるのか」

「お前だけじゃねぇ、お前ら人間に言ってるんだ」


 振り返り、思わず叫ぶ。


「俺の親はボケた、俺のことなんてもう覚えちゃいない! 誰だとか、勝手に家に入ってくんなとか……そんなことを毎日のように言われる! 境遇だってクソだ、頭のおかしい患者ばっか診せさせられてこっちまで頭が狂いそうなんだよ!」


 気づけば目元が熱くなる。袴で持っていこうとしていた激情が、溢れ出す。


「朝里も……妻も死んだ。子供を産んだ時に血が流れすぎて、そのまま眠るように死んだんだ……」


 その場に崩れ落ち、俺は吐き出す。


「でも、ようやく会いに行ける。やっと決心がついたんだ……だから、とっとと失せろ」


 俺はこちらを見る老人を睨みつけた。対して老人は、まだ笑っている。


「やっぱ、分かんねぇわ」

「何がだぁ!」

「子供いるじゃん」


 思考が止まる。

 老人が笑う。


「たしかにお前は不幸だし、境遇もまぁまぁクソだな。だがお前には子供がいる……それでもお前は死ぬのか?」


 自らへ向けていた殺意が、揺らぐ。


「心残りがあるなら、まぁ死なない方がいい。それとな、地獄とか天国とかは存在しねぇ。あんなもんお前らが作った都合のいい幻想だ。生き物は死ねば土に変える……魂は俺たち死神の手によって導かれ初期化され、新たな器とともに転生する」

「……俺は」


 信じるつもりはない。

 だが、そんな都合のいい話が……妻にもう一度会えるという希望も、有って無いようなものだった。


「まぁ決めるのはお前だ。前か、後ろか……進みたい方に進め」

「……俺は」


 言葉を噛み砕き、俺は決意する。


「俺は──」


 そして俺は踏み出した。

 進むべき、進みたいと思った一歩を。






「作者からのお願い」

新作投稿しました、読んでください!

https://kakuyomu.jp/works/16818093085789107286/episodes/16818093085789192143

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一歩 キリン @nyu_kirin

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