最終話 残春

 手紙をポケットに捩じ込んで、改札を出る。一目会いたい、そう思って家を飛び出したけれど、その願いは叶わないのだろう。彼女と僕の人生は、もう交わらない。手紙が落ち着いた字面で、そう伝えていた。どうしてだろう。不思議と残念だとは思わなかった。これでいいのだと思ってしまった。彼女が今を懸命に、彼女自身が選び取った手段で生きていてくれるのなら、それでよかった。今更僕が彼女の道に介入する必要なんてない。あとは、そう、それぞれの春に戻るだけだ。


 路上の小石を蹴っ飛ばしながら街を歩く。深い溜息を吐いた。己の愚かさを恥じた。僕は間抜けで大阿呆だった。手紙の内容、あの春の出来事の答え合わせ。彼女の思い。砂の城。僕は何から何まで取り違えていたのだと知った。勝手に勘違いして都合よく解釈した。彼女のことを分かった気になっていた。けれど、本当はこれっぽっちも分かっちゃいなかった。笑える。からからに乾いた声が響いた。僕の方こそ大馬鹿野郎だ。他人の気持ちなんか、はなから分かりやしないものだ。推し量ろうったって、所詮自分の物差しの範囲内でのことだ。僕は彼女の真意を汲み取ることができなかった。僕の言葉は彼女の殺人を肯定した。それ故に彼女は道を踏み外した——。


 いや、道を切り開いた。彼女にとっては、そうなのだ。もういいじゃないか。僕が衝いた言葉が彼女を救った。そういうことでいいじゃないか。彼女が生きているのなら。どんな世界であれ、彼女が生きたいと思えるところなら。君が夜明けに向かって走っているのなら――。


 行き着いた先はあのホテル。僕らが時を共有した、美しい夜景の見える場所。彼女がいるならここだと思ったけど、おそらく彼女はいないだろう。それでも、登ることにした。

 外装は五年前と比べてそこまで変化が見られなかった。あの頃のままだ。人間の方が劣化は早いみたいだった。一歩一歩踏みしめながら上ってゆく。階段の板を踏み込む度、鈍い金属音が日の沈みゆく空に響き渡った。二人でくだらないことを言いながら駆け上がったこの階段を今、独りで上ってゆく。もう隣に、前に、彼女はいない。けれど、違う世界で彼女は僕と並行してこの階段を上っている、そんな気がした。上り終えた先の屋上には立入禁止の黄色いテープが貼られている。それを踏み越えて、向こう側に行く。彼女がいるような気がした。手を伸ばせば触れる距離に、君がいる、そう思った。勿論それは僕の都合のいい妄想で、叶わないことは分かっている。ただ、此処に来るとあの頃に戻れるような気がした。あの頃の総てが此処にある。明けなかった夜達が、口からとめどなく溢れた言い訳が、独りで静かに流した涙と血が、積み重なった痛みが、塵屑同様の過去が思い起こされる。懐かしいの一言では片付けられないほど入り組んでいて、それらが絡まり合って今を創っている。この道を、僕が踏みしめている道を、この人生を、この夜景を、この春を、描いている。筆を握ってきたのは間違いなく僕で、そしてこれからも僕は絵筆を振るうのだろう。まだ見ぬ夜明けに向かって。


 彼女からの手紙を引っ張り出した。丁寧に折り畳まれていた筈のものは今や皺が入っている。こんなところを見たら彼女は、君らしい、とでも言うだろうか。僕は躊躇なくその便箋を破いた。念入りに細かく八つ裂きにしていく。彼女が伝えたかったことは全部受け取った。今度こそ間違いなく。もうこの手紙は用済みだ。彼女の罪も、これで僕らだけの秘密になる。もう真実を知る者は僕らしかいなくなる。それでいいじゃないか。

 


そうだろう?ユイ——。

 


ふっと手に込めた力を緩め、掌を広げた。春の夜風が紙片を攫う。風に乗って紙屑は宙を舞った。花片のように、煌々と光る街へ、はらり、はらりと舞い落ちてゆく。儚げに、美しく——。僕らが再び重ねた春の終わりを名残惜しむかのように——。



【了】




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残春の花片 見咲影弥 @shadow128

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