ある日、ぼく(♂)が安藤カジュ(♀)になった理由(わけ)
中島しのぶ
ある日、ぼく安藤佳樹(♂)が、安藤カジュ(♀)になった理由(わけ)
目が覚めると、ぼくは見知らぬ部屋にいた。
窓の外に見えたのは、樹々の奥の灰色の巨大な壁だった――
*
ぼくは安藤佳樹(アンドウ ヨシキ)。十四歳の中学二年生。春の健康診断での身長は百五十八センチ、体重は四十九キロ。小柄で運動が苦手。どっちかというと文系より理系が好きなので、化学部に入っている。理系大学に進学予定だ。
五月の連休明けに、クラスでちょっとしたいざこざがあり不登校に。気づけば、そのまま夏休みに突入していた。両親は無理に学校に行かせようとはせず、話をちゃんと聞いてくれたから、少し気が楽になった。だから、ぼくは将来に備え、勉強だけは続けている。
勉強の合間にスマホでネットを見ていたら、あるタイトルが目に飛び込んできた。
「後天性女子化症候群発症者『TS(Trans Sexual)娘』が急増」
五年前に発見された思春期の男子が女子化する病気のメカニズムが解明されたものの、治療方法はまだ見つかっておらずTS娘が急増していると書かれていた。
TS娘のうち、女子固定化した者を保護するための後天性女子化症候群発症者保護区域『TS娘特別区』が二年前に設けられたともあった。
なんで固定化だけ? と思ったけど、ぼくには関係ないなと読み飛ばした。
SNSにはTS娘への性的嫌がらせや暴行の話が多数投稿されている。まるで魔女狩りのようだ。
暦の上では秋に変わった日の二十二時頃、勉強を終え寝ようとエアコンを止めて北側にある自室の窓を少し開ける。昼間と違い風が気持ちよかったので、窓を全開にして寝ることにした。それが原因だったのか、夏風邪をひいてしまったらしい。
頭痛で目が覚めると、身体が熱っぽい。体温計を探し、体温を測ると三十九度を超えていた。フラフラするけど、明日一日寝ていれば治るだろうと、もう一度寝なおした。
数時間後、全身がきしむような痛みで目が覚める。頭を振ると、サラサラと髪が顔にあたる。え、髪? たしかぼくは短髪のはず。
外はもう薄明るい。今何時だろうとスマホを手に取ると、持つ手が小さいし顔認証ができない。仕方なくパスコードを入れると、時刻は四時過ぎ。
気になってカメラを起動し、モードをフロントに切り替えるとそこには見知らぬ美少女が映っていた。
え? ぼく、女の子になっちゃった?
一体何がおきたんだ? 恐る恐る身体に触れてみる――
あるべきものがなくなっていて、代わりにないものがあった。
頭がグルグルする。ショックで気が遠くなり、意識が飛んでしまった。
*
ある地方の小都市で、思春期男子の女子化現象が確認された。
当初は染色体異常が疑われたが、詳しい検査でも異常は見つからなかった。
『テストステロン』は正常値以下となり、成長や発達を促進するホルモンの『インスリン様成長因子3』も減少。卵胞刺激ホルモンの分泌を抑制する『インヒビンB』は測定感度以下となり、『黄体化ホルモン』と『卵胞刺激ホルモン』は高値を示した。
テストステロン補充療法も効果はなく、原因とされるウィルスも検出されず、治療法も見つからなかった。
一方、女子化のプロセスは徐々に解明された。
四十度近い高熱を出した後に、数万分の一の確率でTS娘、それもかなりの美少女になる。
症状は、トリガーがなくなれば男子に戻れる可逆性の『後天性女子化症候群』と、トリガーがなくても女子化し男子に戻れない不可逆性の二種類が存在する。後者は『後天性女子固定化症候群』として区別され、驚くべきことに発症時の姿のまま年齢を重ねていく。
*
目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。
窓の外に見えたのは、自宅の賃貸マンションから見慣れた住宅街が遠くまで続く景色ではなく、樹々の奥の灰色の巨大な壁だった。
身体は相変わらず女の子のままで、検査着に着替えさせられていた。
身長は縮んでて、胸は申しわけ程度しか膨らんでいない。スマホのカメラ越しに見た女の子は、自分だったんだと改めて実感する。
女子化の原因は、SNSで見た情報だとTS娘と接触したことが原因とも書いてあった。でも、ぼくはずっと不登校だったから、それは絶対ない。じゃあ、なんで女子化したんだ? ほかの原因って何? そんなことを考えていると――
「安藤佳樹くん、目が覚めたかな?」
ドアをノックする音がした後に入ってきたのは、白衣を着た白髪のおじさんと若い女性の看護師さん。おじさんは医師の高松光紀(タカマツ コウキ)と名乗り、ぼくの担当医だと言った。
「君は今朝、女子化した姿で発見され、お母様が市立病院に連絡した。医療チームにより後天性女子固定化症候群と診断され、保護されたんだ」
「……女子固定化?」驚いたぼくに、高松先生は続けて言った。
「ここは、後天性女子化症候群発症者保護区域。いわゆるTS娘特別区だ。君はまだ中学二年生だから、義務教育を受けながら検査と治療に専念してほしい」
「今、治療って言いましたよね? ぼくは元の男の身体に戻れるんですよね?」声が震えた。
「君はトリガーもなく、またほかのTS娘とも接触がなかったのでそれはまだわからない」高松先生は真剣な表情で言った。
「しばらくは男の頃の名前は忘れて、女の子の名前で過ごすことを勧めるよ」
「じゃ、ぼく……あ、わたしはカジュにします」
震える声で名乗った。
「改めてよろしくね、カジュさん」
高松先生がうなずく。
翌朝教室に向かう。普通なら夏休みなのに……。
担任は一条瑛一(イチジョウ エイイチ)先生だけど、初日だからと高松先生も同行する。休み時間以外は教室の後ろにいるようだけど、これは監視なのか?
一条先生は、黒いストラップのIDカードで部屋のドアを開ける。そういえば高松先生も黒いストラップを首から下げているし、昨日の看護師さんも黒だったっけ。
ぼくも今朝、高松先生から緑色のストラップが付いた顔写真と名前入りのIDカードをもらった。このカードは寮の出入りや食堂でメニューを選ぶのに使うんだって。なんだか、ストラップの色が気になって仕方がない。
そんなことを考えている場合じゃない。これから転入生として、好奇心に満ちた教室に乗り込むんだ。教室の中には、すでに七、八人の生徒が思い思いの席に座っている。
ここは中学生組で、隣の教室は高校生組らしい。授業は各学年別に個人タブレットで受けるから、同じ教室でも問題はないみたいだ。
「今日から仲間に加わる安藤カジュさん、二年生。これで二年生は四人になったね」
一条先生に促され、自己紹介を始める。
「は、初めまして、安藤カジュです。よろしくお願いします。『カジュ』は、にんべんに土が二つの『佳』に、樹木の『樹』って書きます。ヨシキじゃなくて、カジュって呼んでください……」
パラパラと拍手が返ってきた。三ヶ月間の不登校生活が嘘のように、スラスラと自己紹介ができてしまった。
このクラスなら、みんなとも上手くやっていけそうな気がする。そう思いながら、高松先生から離れた前の方の空いている席に座り、タブレットを立ち上げた。
授業の時間は四十五分。休み時間になると同時に、みんながぼくのところに集まってくる。
「いつ女子ったの〜?」
「ちっちゃくてかわいい〜身長何センチ?」
「カジュジュって呼んでいい〜?」
うるさい、うるさい。これが転入生への洗礼ってやつか?
「わ〜カジュジュの黒髪ロングすてき〜! あ、わたし雪村美羽(ユキムラ ミウ)。ミウって呼んでね。同じ二年生だよ」と緑色のストラップのついたカードを見せる。なるほど、緑色は二年生なんだ。
「わたしは月影詩織(ツキカゲ シオリ)。三年生にも同じ詩織って子がいるし、高校にはお姉さんがいるから、シオリ妹って呼ばれてる」あ〜元お兄さんね。
「藤宮彩花(フジミヤ アヤカ)。アヤカです」
この三人が二年生。
「僕は、す、鈴原小春(スズハラ コハル)です。一年生です」と、小柄な子が黄色のストラップを見せてくれる。少し内気で引っ込み思案っぽい。
あとは三年生の三人が、それぞれ赤色のストラップを見せてくる。
星野遥(ホシノ ハル)、蒼葉詩織(アオバ シオリ)、神楽千鶴(カグラ チヅル)。
こんなに大勢、一度に覚えられるわけがない。
二時間目のチャイムでやっと解放されたけど、休み時間ごとに洗礼を受け続けた。
四時間めが終わり、やっと昼休みだ。
そのころには、ぼくへの好奇心も薄れたらしく、みんな仲良しグループごとに食堂へ行き始める。
「ね、カジュジュ。食堂行くの初めてでしょ? 一緒に行こう?」とミウとアヤカが誘ってくれる。
「あ、ああ。行く……。食堂って、このカードで食べられるんだよね? 今朝まで看護師さんが持ってきてくれたから、カードを使うのは今日のお昼が初めてなんだ」
「カジュジュさぁ、もう女子なんだからそんな喋り方してないで、女の子らしくしなよ」
「そうそう。治るまでの間、女の子を楽しもうよ」とアヤカも賛同する。
「そ、そうだね……治るのかな……本当に」
「高松先生はそう言ってたよ? だから治るって」と、ミウ。
ぼくは『まだわからない』って聞いたことは黙っていた。
「みんなは何人部屋なの? わたしは今一人だけど」と話を逸らす。
「基本的に同学年で二人部屋で、姉妹は学年関係なく同室だよ。わたしはアヤカと同室なの」
「そうなんだ……」
「みんな一年くらいここにいるんだけど、コハルは先月入ってきたばかりで、一人部屋が寂しいからって、よく私にくっついてくるんだよね〜」と、コハルの頭を撫でながら「お昼一緒に行くでしょ?」と聞いている。
ミウがカードを入り口の端末にタッチして、表示されたメニューを選んでカウンターで受け取るんだよと教えてくれる。
「ね、お金はどうするの?」と、疑問を口にする。
「それに、寮費とかもあるんじゃないの?」
「あ〜それね。この学園は私たちTS娘の治療のために委託された、なんとかって会社が運営しているから、食事代、寮費、文房具、日用雑貨はタダなんだよ」
「それ、高松先生から聞いた。アストラル製薬が運営してて、研究所で治療と検査を受けるって」
「そうなのよね……毎週土曜なんだけど。ま、カジュジュも受けると思うから。それから上限はあるけどお小遣いももらえるから、購買コーナーでスイーツも買えちゃうんだよ」
「へ〜それってすごくない?」
「うん、めっちゃすごい。だから私は最初の一ヶ月でお菓子食べまくっちゃって、二キロも太っちゃったの! 減量するのたいへんだったんだから〜」
「あはは、そりゃたいへんだ〜」
ぼくも三人と同じA定食を選んだけど、どうやら胃が小さくなったらしく、全部は食べきれなかった。これなら太ることはなさそうだな。
授業の時間やコマ数で、高校とは休み時間が違うみたい。
教室に帰る途中、高校生のお姉さんたちとすれ違う。
「あ、キミ新しい子? ちっちゃくて可愛いね〜」
「やめなよシズク、恥ずかしがってるじゃん。ごめんね」
「シズクさんリンさん、こんにちは。この子、安藤カジュって言います。カジュジュって呼んでくださいね〜」
ミウがさりげなく紹介してくれる。
二人は二年生で、高校生にはあと五人一年生がいるそうだ。二年前に発症した子が多いとのこと。
三年生はいないそうだ。
夕食後、ミウとコハル、アヤカと別れて寮の自室に戻る。
「はぁ~今日は疲れた~」
昨日と今日は、自分の置かれた状況に精一杯だったけど、一人きりになると、急に家族のことが気になりだした。母さん、今どうしてるかな……。スマホも持ってこれずに、こんなところに来ちゃったから、連絡もできない。ほかに何かあったような気もするけど、頭の中がモヤモヤして思い出せない。
タブレットは特別区内のサーバーに接続しているけれど、外との繫りはない。みんなは連絡ってどうしているんだろう。明日、聞いてみよう……。
部屋のテレビは見られるけど、ニュースはスクランブルがかかっちゃっている。バラエティ番組やアニメをハシゴしているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
翌日の昼休み。ミウに家族との連絡方法を小声で尋ねてみる。
「ねぇ、家族に無事を知らせたいんだけど、どうやるの?」
「メールかチャットで伝えようってことね? みんなタブレットにメールクライアントとかメッセンジャーソフトをインストールしようとしたんだけど、ここってネットが外と繋がってないでしょ?」
「うん」
「だから、お手上げなの。もう気づいてると思うけど、テレビのニュースもスクランブルかかっちゃってるでしょ? 完全に情報遮断よね」
「そうだね。だから昨夜はアニメ見てるうちに寝ちゃった」
「でしょ? 実は、特別区ができて最初の一年くらい、連絡手段は手紙しかなかったらしいの。もちろん中身は検閲されるけどね。これって、人権侵害以外の何ものでもないわよね」
「それはひどい」
「そうなの。だから、メンタル壊しちゃう子が続出して、その対策として通話だけできるようになったんだって。それでもメンタルやられちゃうよね、こんな牢獄みたいなところじゃ。私も、毎朝抗不安薬を飲んでるくらいなんだから」
「そ、そうなんだ……」
「そうよ。あ、通話のことだったね。毎週土曜に研究所で検査を受けるって言ったでしょ? 検査後のカウンセリングの結果次第で通話ができるの」
「じゃ、土曜の検査とカウンセリングのあとでお母さんと話ができるの?」
「そう。でも、たった五分間。それもカウンセラーの監視付きだけどね」
「それでも話ができるなら、構わないよ……よかったぁ」
「でも、話す内容には気をつけないと、遮断されちゃうよ? 内部のこととか、どんな検査受けてるとか、ね」
「どんな検査……?」
「それは人によるんじゃないかな? カジュジュは、ほかの子と違って特殊そうだから」
「特殊?」
「そう。話してくれたじゃない? みんなはウイルス感染症の予防接種後に発症したのに、カジュジュは発症まで三ヶ月間、誰とも接触していなかったって……」
土曜の朝。
授業はないけれど、検査があるため制服に着替えて看護師さんが迎えに来てくれるのを待つ。
研究所で行われる検査は健康診断とカウンセリングだとミウから聞いていたけれど、高松先生からは採血もあると説明を受ける。
「定期健康診断では、四から五ミリリットルが目安なんだけど、君の場合は事情があるから……」そう言いながら、看護師さんが四百ミリも採血する。
やっぱり、ぼく、というかぼくの血液は特殊なんだ。予防接種を受けずに固定化のTS娘になったんだから。
ちょっと貧血になったらしく、少しふらつく。これがひどければ失神していたかもしれない。
来週は四ミリで、四百ミリ採血するのは一ヶ月後だと言われたけど、もうごめんだ……。
ベッドに横になったまま、カウンセラーのカウンセリングを受けた。
「お母さんと話すことはできますか?」と尋ねてみたけど、今の状態では難しいと言われ、次回に持ち越しになった。それに加え、増血剤と数種類の抗不安薬を毎食後に服用するように処方された。
部屋に戻り私服に着替え、お昼ご飯はキャンセルし、夕食まで部屋で寝て過ごすことにした。
夕食後、いつもの四人でラウンジに集まる。
食事だけでなく、空いている時間はミウ、アヤカ、そしてコハルと過ごすことが多くなってきた。
お昼をキャンセルしたことを、ミウが心配してくれる。
「採血、四百ミリも取られてもうだるくてさ~ 検査は十一時前に終わったけど、全然食欲なくて」
「え、四百ミリぃ? それって私の百倍だよ! 取りすぎじゃない?」
「四百ミリって大人の献血量よね……」とアヤカ。
「わたしって、やっぱり特殊なのかな……」
「……」ミウはバツが悪そうで黙っている。
「わ、私は五ミリかな……体重もあるし」アヤカが恥ずかしそうに言う。
「四ミリ」コハルがぼそっと答える。
「普通はそれくらいだよね〜」とぼく。
「そっか〜、そりゃだるくもなるよね……。あ、それでお母さんとは通話できた?」とミウ。
「それがさ〜、今日の体調では許可できないって、次回にされちゃったんだ。誰がそうしたんだよって。いくら来週は四ミリだって言ってもさ。でも、たぶんまともに話せなかっただろうし、検査内容も喋っちゃいそうだったしね」
「そうだよね〜 ま、来週は四ミリって言ってたんだから大丈夫よ」
「だといいけど……」
部屋に戻り、着替えもせずにまた寝転ぶ。
あんな大量のぼくの血液、一体何に使うんだろう……。
あーもう、今日は考えるのはやめよう。
来週こそは、お母さんと話さなくちゃ。
翌週の月曜日、高校生のクラスに新しい転入生がやってきた。ぼくが入ったときと同じように、その話はすぐにクラス全体に広まっていった。
その子は発症が稀な十八歳、高校三年生。ミウが高二のシズクさんとリンさんからさっそく情報を仕入れてきて、得意げに話し出した。
ぼくは小盛にしてもらったB定食の天丼を箸でつまみながら、ミウの話を半ば聞き流していた。相手は高校生だし、きっと会う機会はそんなにないだろうと勝手に思い込んでいたからだ。
でも、こういうときって、だいたい予想は外れるものだよね……待ち望んだ次の土曜日は、来なかったんだ。
転入生の名前は高岡梓紗(タカオカ アズサ)。
その名前を聞いた瞬間、頭にモヤがかかっていたような感覚が突然消えて、封じられていた記憶が一気に蘇ってきた。
まるで催眠術が解けたかのように。名前がその鍵だったんだ。
TS娘特別区はまるでヨーロッパの城郭都市みたいな場所だ。
高さ二十五メートル、周囲三キロメートルのコンクリート製の巨大な壁に囲まれていて、外との繋がりはたった一つのゲートだけ。
食料や日用品、そして廃棄物の搬入出にしか使われないそのゲートは、武装こそしていないけど警備員が二十四時間体制で見張っている。
脱出も、外からの侵入も不可能。
この特別区にある学園や研究所の本当の目的は、ぼくたちの保護なんかじゃない。アストラル製薬が進めている『人類女子化計画』の研究だ。
SFみたいな話に聞こえるかもしれないが、実際には男子の数がどんどん増えて、女子が減っている現実がある。
アストラル製薬はこの事実をもとに未来を予測し、TS娘の血液から女子化を促進する薬を開発する方法を見つけ出した。
ぼくたちが住んでいる地方都市で発症した後天性女子化症候群。その最初の発症者の血液は、アストラル製薬によって徹底的に解析され、女子化促進剤の開発につながった。そして、この特別区が建設されるに至った。
今では研究者たちは、ぼくのような『特殊なTS娘』を探し出し、より効果的に女子化を進める薬を大量生産しようとしている。
そうだ、ぼくはアズサの手伝いをしなきゃならないんだ!
「ごめん、アズサに会いに行かなきゃ!」思わずそう叫ぶとミウたちは唖然としていたけど、ぼくは気にせず食堂を飛び出し、高校生の教室へと駆け込んだ。
今日はアズサの初日だから、高松先生も一緒にいるはずだ。
狙い通り高松先生は教室の後ろに立っていた。
「アズサ! 思い出したよ! 有効なのは、高松先生のカード!」
声を張り上げ、ぼくは身長の低さを活かして高松先生の腰にしがみつく。ぼくの手伝いは、アズサに有効なIDカードを知らせること。そして、そのカードを持ち主から奪ってもらうこと。
「待ってたよ、カジュ!」
その瞬間、アズサは素早く高松先生の黒いストラップからカードを奪う。
「カジュ、きて!」手を引かれ、教室の外へと飛び出す。
「アズサ、こっち! 早く!」廊下の奥には看護師――アスミさんが待っている。彼女の後を追いかけ、三人で走る。
「おい、待て!」高松先生が追いかけてくるけど、白髪のおじさんよりも、ぼくたち中高生の方が走るのは速い。
行く先は中央制御室。高松先生のIDカードがあれば、そこに入れる。
ぼくが初めて高松先生に会ったとき、先生が説明してくれた内容はだいたい合っていた。
実際には気が遠くなっていたのはほんの数分で、すぐ母さんに女の子になったことを話したんだ。
自宅に来たのは、反アストラル製薬派でTS娘特別区の解放を望む議員や医師、そして市民団体が支援する医療チームだった。
ぼくはトリガーもなく発症したため、後天性女子固定化症候群発症者と診断された。さらに、この三ヶ月間誰とも接触していないことから、特殊なTS娘として扱われることになったんだ。
その後、特別区に保護される前に市立病院でアズサに会い、話を聞いた。
いずれにしても保護されてしまうから、内部から特別区を解放する手伝いをしてほしいと頼まれ、ぼくは協力することにした。アストラル製薬のことを聞いたときは信じられなかったけれど、アズサの熱意と具体的な説明を聞いて、これは実現可能だと確信した。
アズサの本名は高岡梓(タカオカ アズサ)。四年前、特別区設立前に症候群を発症したTS娘で実年齢は二十二歳。
市の職員として、反アストラル製薬派に匿われ、保護されずに活動している。
特別区内部には看護師の姉、高岡愛純(タカオカ アスミ)がいて施設の配置は調べがついているが、重要な施設に入れるIDカードを持っていない。
特別区に送られる前、ぼくは聞いた話と役割を深層催眠で封じられたんだ。
特別区のシステムを掌握さえできれば、TS特別区を解放できる。
三人で中央制御室に向かって走るけど、途中でアスミさんが転んでしまった。
「私はいいから、突き当たりの左奥が中央制御室。早く!」と、ぼくたち二人へ先に行くよう叫ぶ。
ぼくたち二人は研究所の中央制御室に奪ったIDカードで潜り込み、ドアをロック。
アズサは特別区の制御システムにログインした。
メインコンソールの前に立つアズサの指が、素早くキーを叩いていく。監視システムを無効化し、中央制御室以外のすべてのドアとゲートの開錠を行う。
「これであとは、外で待機している反アストラル製薬派の人たちと警察が警備員を制圧して、助けに来てくれるのを待つだけだ」とアズサが任務完了を告げる――
「そういえばカジュ、どうして高松先生のIDカードが有効だってわかったの?」
助けを待つ間、アズサが疑問の表情を浮かべて聞いてくる。
「あ〜それ? 寮の部屋で目が覚めたとき、高松先生から『きわめて稀なケースなので、所長の私が君の専属医師になった』って言われたんだ。ほかの黒ストラップの人は、お姉さんもそうですけど普通の医師とか教師だったから、高松先生だったら制御室に入れるんじゃないかなって思ったんだ」
「なるほどね……僕には所長だなんて言ってなかった」
アズサは納得した様子でうなずく。
「でも、うまくいったね!」
「うん!」とぼくも笑顔で応じる。
*
その日のうちにTS特別区は解放され、マスコミはアストラル製薬の研究内容と、TS娘特別区設立に関わった市長と市議会議員の癒着を暴露した。
これにより両者は厳しく糾弾され、市長は辞任に追い込まれ市議会は不信任決議によって解散となった。
反アストラル製薬派の新市長が就任し、投票の結果、新しい市議会が発足することになった。
新市議会は、TS娘特別区の運営を市に移管し、『後天性女子化症候群患者保護条例』、通称『TS娘保護条例』を制定した。
この条例では、可逆性の後天性女子化症候群発症者も対象となり、支援を受けることができるようになった。
解放された日、ミウとコハル、そしてアズサとお互いの連絡先を交換し、頻繁に連絡を取り合っていたので、決して一人ぼっちではなかった。
だけど無事に家に帰れたものの、TS娘として生きていくことへの不安と、TS特別区での出来事が忘れられず、中学は卒業するまで学校に通うことができずにいた。
*
TS娘保護条例が施行され、市営住宅への優先的な入居が可能になった。新しい環境は、以前のぼくを知らない人たちばかりで、外出することが前より楽になった。
けれども高校に通うのは難しく、両親とも相談し通信制高校への進学を決めた。
通信制の学校なら場所を選ばず、教材や課題が郵送やオンラインで提供されるから、自分のペースで勉強できる 利点がある。
中学での不登校生活が長かったぼくには、最適な選択だった。
*
無事に高校を卒業し、進路はTS娘特別区の事件がきっかけで決意した政治学を学ぶために市立大学の法学部政治学科を受験。
一浪の末、ようやく合格し、入学することができた。
志望の動機は明確だった。TS娘特別区がどういった経緯で設立されたのか、政治家と企業の癒着がどのように存在していたのか、それを知りたかったんだ。
大学卒業の見通しが立ち、アズサの勧めもあって、市の職員として就職することを決めた。自分が女子化した原因はまだはっきりしないけれど、少しは情報が得られるかもしれないと思ったからだ。
*
四月三日、月曜日。特別区が解放されてから、約八年半。三千と、百五十六日目――
今日はぼくの初登庁日。
「待ってたよ、カジュ!」
あの日と変わらないアズサの笑顔と声に迎えられ、新たな一歩を踏み出した。
Fin.
ある日、ぼく(♂)が安藤カジュ(♀)になった理由(わけ) 中島しのぶ @Shinobu_Nakajima
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