終章「天涯、音の苑」
その日から、段々と書けるようになった。
アザミさんと暮らし始めて、五か月が過ぎた。半年まで少しである。
辺りにはミモザの咲いているのが見られる季節。少し寒さが残っているが、真冬に比べたら相当心地良い気候となっていた。
◇
少し前から、アザミさんは倦怠感を訴えていた。その後はずっとベッドに寝たきりとなり、朝聴こえていたピアノの音も、消えた。ベッドではずっとノートに音符を書き並べていたが、それも次第に厳しくなっていた。
「……済まないな…………」
私が朝食を運んだ後、アザミさんは私にそう言った。
「いえ、これくらい全然……それに今までもずっとお世話になっているので」
「……ありがとう…………」
上体を起こして、私の作った朝食を、一口一口ゆっくりと食べていた。
「詩ですけど、あと少しで完成できそうです」
「そうか! それは良かった……」
あの頃とは違う、少し引き攣った笑みを浮かべていた。もうあの無邪気な笑顔を見ることは叶わないと思うと、寂寞感と虚無感が去来した。
最近のご飯は、粥や雑炊である。もともと料理が得意な訳では無かったが、しかし私以外に作れる人がいないのでここ最近は作詞と、料理の勉強をしていた。アザミさん曰く、勉強し初めの時に作った料理はとても食べられたものでは無かったらしいが、最近の粥や雑炊はとても美味しいらしい。
アザミさんを眺めながら、思う。
結局、詩を書き終えるのがギリギリになってしまった。
曲の方はもうとっくに完成していた。私の所為で完成が遅れてしまっているのだ。申し訳ない。
だが後数文で完成なのだ。我ながら結構上手く書けた気がするが、アザミさんがこれで納得してくれるのかが一抹の不安である。
◇
「それじゃあ、いってきます」
「あぁ、よろしく頼む……」
今日は町へ買い出しに行く日だった。家の冷蔵庫にある食材がそろそろ無くなりそうだったのだ。前まではアザミさんが行ってくれたり、二人で買い物に行ったりしていたが、流石にアザミさんはもう歩く事すら儘ならないので、今では私が行っている。
今日買いに行くのは、卵と幾つかの野菜である。後は目についた、料理のアレンジに使えそうな食材を幾つか。毎日同じ料理ではアザミさんも飽きてしまうし、しかし粥と雑炊以外だと簡単なスープしかレパートリーがないので、最近はなるべく不味くならない程度にアレンジを加えている。
今日はどんな食材を買おうかと思案しながら、獣道を進んでいた。
そうして食材を買っていた時だった。
不意に詩の最後の一文を思いついたのだ。すぐさまポケットから携帯していたメモ帳を取り出し、道の端で最後の一文を書き留める。
――やっと、やっと書き終えた。やっと、約束を果たせた。
私は、これまで味わったことのない達成感と、微かな喪失感に襲われた。それこそ、一年ほどかけて書いた長編小説を書き終えた時よりも、数倍も大きな達成感である。それに、ちゃんとアザミさんに届けることも叶いそうだ。
私は直ぐに帰途に就いた。早く見せてあげたかったのだ。どんな反応をしてくれるのか。喜んでくれるのか、どんな喜び方をしてくれるのか。
……また、あの頃の笑顔が見られるのか。
様々な期待を胸に、再び獣道を進んだ。まだ買い物は済んでいなかったが、そんなことはすっかり忘れて、アザミさんの事しか頭になかったのだ。
段々、段々と早足になった。
気付けば、道を駆けていた。
疲れる。息も切れる。
しかし自然と笑みが零れていた。
向かい風が心地いい。
ミモザの花が視界を黄色く彩る。
早く、速く。早く、早く。
足がもたついてきた。気を抜けば転んでしまいそうだ。
しかし全く苦痛に感じない。
見せたい、早く、早く見せたい。
気付けば、転ぶことも厭わず全力で駆けていた。
◇
「アザミさん! 書けました!」
靴を雑に脱ぎ捨てて、家に入るなりそう叫んだ。
――しかし返事は無かった。
眠っているのか?
そう思い、とりあえず買ってきた食材をキッチンに一旦置き、アザミさんのベッドへ向かった。
アザミさんは案の定眠っていた。
しかしその目は開かれている。
――その瞳孔は、散大していた。
急いで手首を持ち上げ、指を当てた。
しかしその手首は、力なくベッドに墜ちた。
呆然と立ち尽くした。
なんで、どうして、何故…………?
わからない。理解できない。
理解したくない。わかりたくない。
もう、声は聞こえないの?
もう、私の名前を呼んでくれないの?
何故、何故……
覚悟していたはずなのに。いずれこうなることは、解っていたのに。
でも、何故今なんだ。
ようやく、書けたのに。
ようやく、ようやく――
「ごめんなさい…………」
悔しかった。それ以上に。
申し訳が無かった。
寂寥など、感じる余裕すらなかった。
虚無。ずっと。
存外に、真っ白だった。
世界から、色彩が抜け落ちた。
何も感じない。何も、見えない。
そしてようやっと、死を悟った時。
「ごめんなさい……」
やっと、涙が零れ落ちた。
ベッドにいくつもの染みができる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ただずっと。
「ごべんなざい、ごべんなざい…………」
そう唱える事しか、できなかった。
それが一体、何の贖罪になろうものか。
アザミさんは、唯一、私の文章を好いてくれた。
ずっと、私の詩を誰よりも心待ちにしてくれていた。
なのに、結局書けず、独りで死なせてしまった。
屑だ。どうしようもない、屑だ。
物を書くしか能のない私だ。それすらできず、一体何の価値がある……?
私が嫌いだ! こんなことすらできない無能が、嫌いだ!
何故彼女が死んで、私が生きている!
解らない、全く解らない。
『――今、幸せですか?』
突然、私が不意にした問いが聞こえた。
……そんなわけないだろう。
私も、アザミさんも、幸せな訳が無い。
きっと、怨んでいる。何も果たせない無力な私に、憤っている。
私は、幸せになる権利など無い。
「…………ごめんなさい」
その時、不意に一冊の手記が目に入った。
アザミさんの枕の隣に置かれていた。
涙でぐちゃぐちゃになりながら、手記を手に取る。その時、中から一枚の紙が落ちてきた。
拾い上げると、それは最期の曲のスケッチがなされた五線紙であった。
その紙に、新たにこう書き加えられてあった。
『ありがとう。済まない』
また、立ち尽くした。
腕に力が入らなくなった。
その瞬間、さっきまで無碍にしていた足が悲鳴を上げ、そのまま地面へと崩れ落ちた。
ずっと曇り空が、窓の外から、覗いていた。
◆
次の日。
私はナルシサスの墓の隣に、アザミさんを埋めた。手が土だらけになったが、全く気にならない。
手を合わせて、空を見上げてみた。
昨日とはうって変わり、一面の蒼穹であった。
風が不思議と心地よかった。
昨日より色褪せて見えるミモザは、土の被った馬酔木の花よりも綺麗に咲いていた。
――ポケットの中で、くしゃりと音がした。
そう言えば、歌詞を
取り出してみると、皺だらけで、最早、歌詞を判読するのも困難なほどであった。
紙を広げ、自分の書いた詩を眺めてみた。
……どうしようもない紙切れだ。
何の魅力も、感じない。
すっかり、失意した。
その紙を、ビリビリに破り裂いてみた。
半年かけて紡いだ言の葉を、投棄した。
しかし、あの頃とは違い、全く清々しなかった。
むしろ、心の底に溜まった汚泥が、体を浸食した。
涙すら、枯れてしまった。
声も、出せない。
ため息を吐く事すら、憚られた。
もう一層、ここで死んでしまった方が、清々する気がした。
解放されたかった。
この
結局、自分の事だ。利己だ。
ずっと、想っていたはずが。
独り善がりでしかなかった。
◆
――なにも、したくない。
いつか。ふと、芸術の本質を思案してみたのだ。
矢張りそれは、感受性のままに酔いしれる事だと、私は思っている。詩を破いた頃から、ずっとそうだ。
だからこそ、それを破り裂き投棄した事を、後悔した。その時の私を、今でも怨んでいる。
あの日から、すっかり自分の創作が分からなくなった。何を、どうしていたのか、さっぱり分からなくなった。
何故かは解る。自分の芸術を否定しても尚、それに耽る感慨も無かったからだ。自分の芸術についての興味が、本当に死んでしまったのだ。
芸術家が、自らの作品を否定する事は、全く悪くないと思う。寧ろ、この作品こそがが最高傑作と主観で決めつけて仕舞えば、それこそそれ以上の物が生まれなくなる。
推敲の毎日が肝要なのだ。
しかしそれすら放棄し、推敲する余地も唾棄して仕舞えば、それこそ終いである。
好きこそ物の上手なれとは、正にその事である。
失ったから解る。それがどれだけ素晴らしい物だったのか。その頃はそうで無くても、今のように、いずれそう思う日がくる。
手放してはならなかった。
失ってからでは、もう遅いのだ。
きっと私の興味は、天涯へ飛んでいる。
興味を持つ事に憧憬を抱く事も無くなったからだ。
どうしようもない。
もう、どうしようもない。
音の苑、日乗。 terurun @-terurun-
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