幕間「手記の憶い出」





 ――ずっと、夢想していたのだ。ずっと、あの日に戻れたらと思うのだ。ずっと、後悔して。

 寂寞に支配されるまま死に行く運命を思うと、ずっと怖い。怖かった。

 しかし、向き合わねばならない。

 ならばと私は、あの子とのなんて事ない日常を、思い返すことにしたのだ。


 

 ◆



 作曲家としてある程度軌道に乗った頃だった。

 突然、このままずっと独りで曲を書いて死ぬのも、悪くは無いが寂しいと思ったのだ。しかし結婚などする相手も居なければ、そんな気概も無かった。

 その時の私はきっと冷静では無かった。衝動買いする様に、気付けば孤児を一人引き取っていた。自分でもその時は相当狂っていたのだと思う。私に子供一人面倒を見る能など無ければ、また一人立ちできるまで育てる責任すら全く顧みなかった。

 だから、平生へと返った時、私は酷く後悔した。この子を想ってでは無い。ただ、面倒だと思ってしまったのだ。我ながら薄情で自分勝手な屑だと、喪った今であれば思う。今更後悔しても仕様が無いのだが。

 しかし引き取ったからには育てなければ行けない。ここで放棄するなど、あってはならぬし、そんな勇気も無かった。


 男の子だった。七歳の。

 名はナルシサスと言うそうだ。異国では水仙と呼ばれる花の名であるそうだ。孤児院の人が教えてくれた。

 水仙がどのような花であるかは知り得ないが、きっと綺麗な花なのだろう。この子も、ずっと綺麗だった。卑しい自分と比べてしまえば、水宝玉の様に透き通った、純新無垢な子である。穢れなぞ、全く知らず、またその瞳も燻んでいなかった。


「……私で、いいのか?」


 その子の前で、虚空に向かって独り言を呟いてみた。独り言と言いながらも、それは問いだった。しかし独り言であるから、当然返答は無い。ただナルシサスは、目の前の夕食を、作法など全く気にせず、汚れる事も厭わずに頬に詰め込んでいた。

 私の独り言に気が付いたのか、ナルシサスは手を止め、今にも破裂しそうな程にまで詰め込んだ頬はそのままに、私の目を眺めた。

 その時、私は不意に微笑んだ。すると彼も、無邪気に笑い返してくれた。

 たったそれだけ。それだけが、その時の私にとっては途轍もなく嬉しかったのだ。気付けば抱いていた寂寞感も消え、この子と共に歩む人生に楽しみさえ覚えていた。

 ――久しぶりの感情だった。

 ただ自意識過剰なだけかもしれないが、ナルシサスの無邪気な瞳を覗く度に、私と共に居ることを望まれているような気がしてならなかったのだ。

 勝手な妄想だ。妄言だ。しかし、そのお陰でただ何も考えず淡々と音符を羅列するだけの人生が、ビビットに描かれたのだ。


「……美味しい――?」


 そう訊くと、うんと言いながら、大きく頷いてくれた。愛らしかった。愛おしかった。


 その日から、自分の生に実感が持てたのだ。



 ◇



 ナルシサスには、残念ながら音楽の才は無かった。私がピアノを弾く姿を見て羨んだのか、僕も弾きたいとせがんできたので暫く私が教えながら練習させたが、あまり楽しくなかったようで、一月ひとつきも経たぬ内にやめてしまった。曰く、自分は私のピアノを聴いているのがいいそうだ。しかし楽譜を眺めるのは好きなのだそうだ。その辺り、まだまだこの子の事を全く知らないのだなと思わせる。


 日々。

 段々と着られなくなっていく服の数々、履けなくなっていく靴の数々。どんどんと育まれてゆく語彙や、どんどんと露見していく本の趣味や。背丈と共に移ろい変わる日々が、とても儚かった。幾度となく輪廻する四季が、幾度となく転変する世界の景色が。しかし自分は変わらずとも、子の感受性の移ろいで、例え輪廻とはいえ、また違ったものの様に感ぜられたのだ。

 謂うなれば、不安定な日々であった。



 ナルシサスは、馬酔木あせびの花が好きだった。

 齢九つの頃。いつもより遠くまで二人で周辺を散歩していた時のことだった。私も知らなかった。馬酔木の花の多く咲く場所があったのだ。ナルシサスは、花を見つけるや否や、そこから離れなくなってしまった。目を輝かせて、花をずっと眺めていた。一時間くらいはそこから離れなかった気がする。初めの方は早く先に行かないかと訊いてみたのだが、馬酔木に夢中で返事すらしてくれなかった。少し苛ついていたが、次第に微風が気持ちよく感じるようになった。

 そう言えば、こうして一人の世界で木々を眺める機会も、最近は無かったなと思う。

 こういった時は、不意に今までの思い出が反芻されるのだ。独りでずっと曲を書いていた頃。ナルシサスを引き取ってからの、慌ただしい日々。一年ほど経って、子育てにも慣れてきた頃。そして、今。

 辛い思い出や、それこそ放棄してしまいたくなるようなときもあったが、こうして想起される思い出はどれも楽しかった時のものばかりである。そうすると、やはりこの子と共に歩む人生は、素晴らしいものだったのだと錯覚する。


 嗚呼、幸せだなぁ。


 この日々は永劫の物なのだと、この時は信じて疑わなかったのだ。 


 

 ◆



 ……喪った今だからこそ、あの日々がより素晴らしく感じてしまう。どうして、喪う前に気が付かななかったのか。私との日々を守りたいのだと、戦地へ赴いた彼を、何故私は必死に引き留めなかったのか。

 ――まさか、深層心理の内では、一人になりたいとでも思っていたのか?


 どう足掻いても、結局私は、私のままだった。

 独り善がりな、大っ嫌いな私のままだった。

 私の事がわからないのではなかった。

 きっと、解りたくなかった。

 解って仕舞えば、胸を張って生きられなかった。胸を張って生きる資格など、ハナから無かったのに。


 どうしようもない、

 どうしようもない。




 

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