第三章「価値」





 ――一日はいつも、ピアノの音から始まる。


 大半がとっくに死んだ著名な作曲家のクラシック音楽だったりするそれらは、私の様な素人でもやはり天才だと感じる。音の連なり方だったり、美麗なメロディだったり。アザミさん曰く、やはりそれらは総じて理論を以て説明できるらしいのだが、しかしそのような事など一切知らぬ私からすれば、正に馬に念仏である。


 共に暮らし始めて二週間ほど経った今日。

 朝食の時にその話をしたのだ。するとアザミさんは。


「なら今日から教えてあげるよ。作詞をする上でも、五線譜の読み方くらいは知っていた方がしやすいだろうしね」


 こうして今日からアザミさんに音楽のイロハを学ぶ事となったのだ。



 ◆



「まず音楽とは一般に、調律された十二個の音を用いて奏でられる……」

「あ、流石に音楽が何たるかは分かりますよ」

「あ、そう」


 アザミさんはピアノの椅子に座り、私は食卓の椅子を持ってきてその隣に座っている。私が話を遮ったからか、さっきまで浮かべていた、新しい娯楽に出会った男児の様な笑みが消えた。申し訳なくは思わない。


「じゃあどうやってその十二音は作られたか知ってるかい?」

「いや、知りませんが……」


 アザミさんは得意げな表情を取り戻した。


「遠い昔。頭のいい人が、鍛冶屋の鉄を打つ音に音程が存在することを発見し、それはハンマーの重量などが関係していると結論付けた。その後その人はモノコードと呼ばれる一本の弦をピンと張りそこに駒を立てた楽器を作り出して――」


 こうして暫く、アザミさんの音楽談義が続いた。元より音楽なぞ興味無いと思っていたが、アザミさんの話は存外飽きる事はなかった。

 人柄故か、また内容故か。

 ――若しくはただ子供のような無邪気な瞳で話す彼女に、憧憬を抱いているのか。


「――って、ちゃんと聞いているのかい?」

「あ、勿論聞いてますよ? ちゃんと」

「本当かなぁ――」

「本当ですよ」


 ただこう言った、同じく芸術をただ愛す誰かと。芸術を無邪気に語る誰かと、一方的とはいえ談笑する事が、この時の私にはただ楽しくて堪らなかったのだ。



 ◇



 ――三ヶ月が経った。


 アザミさんの方は、もう曲は大方完成したとの事。後は私の詩を乗せるだけなのだ。

 しかし、たった四ヶ月弱では、アザミさんの事の一つも理解し得ていない様な気がしてならなくて、詩を綴る筆も全く止まってしまった。一文字すら書けなかった。

 悩んだ、悩んだ。しかし当の本人は、「そんな焦らず、急がなくてもいいよ」と笑うのだ。しかし私は笑えない。惹かれた女性ひとだからこそ、そんな人が私なんかに託してくれたから、せめて私の精一杯の詩で送りたいのだ。アザミさんが満足出来ても、私ができない。

 最近気が付いたのだが、何だかんだ私は物を書くのがめっぽう好きなのだ。誰にも邪魔されず、誰にも邪険にされない、私だけの理想郷を築く事が好きなのだ。嫌いだと思っていたのだが、ただ好きである事を失念していただけだったのだろう。それに今は、同じ芸術を愛する人と、一つの世界を構築している最中だ。

 ――これほど幸せな事は、無い。筈だ。だからこそ、焦る。


 そんなある日の事だった。

 いつもの様に、気分転換に本棚を漁っているときだった。

 不意に、一冊の手記が目に入ったのだ。本棚の遥か上段。その奥に、隠された様にそれはあった。

 気の赴くままに、私はその手記を手に取った。

 ハードカバーの、しかし所々に破れや何かをこぼした様なシミが散見された手記である。表紙は、元は美しい黄土色だったのだろうか、恐らく経年劣化で全く色褪せてしまっている。

 埃を被っていたので手でそれらを払った後、表紙を捲ってみた。


『親愛なるナルシサスとの憶い出をここに遺す』


 ただ一文。一頁目にはだたそうとだけ記されていた。

 その文字だけ、やけに存在感があったが、それは最近書かれたからだと、周りの紙と筆跡を見れば推察できた。

 そして次の頁へと手を進めた時だった。


「やめてっ――!!」


 まるで憤怒の、また怯えも感じられる形相で、アザミさんが無理やり手記を私から取り上げたのだ。



 ――二人きりのこの空間を、永劫とも感じられる一瞬の静謐が襲った。


 僅かな呼吸音はおろか、心臓の拍動すらハッキリと聞こえた。これ以上何か言を発する事すら憚られる。


 アザミさんが声を荒らげる所なんて、今まで見た事が無かった。そもそもそんなアザミさんを想像することすらした事がなかった。

 ただ、唖然と佇んだ。またアザミさんの方も、唖然としていた。

 手記を抱え、ハッとした様子で私を見遣る。


 先に口を開いたのは、アザミさんの方だった。


「……ご、ごめんなさい――――」


 視線を逸らし、ぶるりと震えていた。額には冷や汗が見られた。

 いつもは少し高圧的で、それでいて頼りがいのある人だったが、今の彼女は全くそれとは程遠い。親に叱咤される事に畏怖している子供のようであった。


「……いえ、私の方こそ、勝手に触ってしまって――」


 しかし私もまた震えていた。怖かった。この所為で今までの日々が喪われる事を危惧したのだ。それだけは、それだけは本当に、嫌だった。


「――いや、今までそう明言していなかった私の責だ」


 アザミさんの震えが、少し収まっている気がした。


 

 それより暫くの静寂の後、アザミさんは手記について語ってくれた。


「……あの子――ナルシサスを引き取って、生活が安定してから、あの子との日常を日記に綴ろうと思って、この手記にしたためていたんだ。徴兵命令が出た日からは書いていないがね」


 虚ろな目で、アザミさんは手記を――睥睨へいげいした。


「……徽章が届いてからは、この手記を見る事すら、すっかり辛くなってしまってさ。本棚の奥に仕舞っておいたんだ」


 そぞろに手記のページを捲っていた。


「……嗚呼、しかしこう反芻すると、あの子との日々は何物にも変え難い物だったのだ。ずっと珠玉の様に燦然と煌めいていた。満たされていたんだ。ずっと、幸せだった」


 手記をパタリと閉じてしまった。


「しかし私は、あの子を喪って、思い出に蓋をした。二度と掘り起こしたくなかった。私が死ぬまで、思い出したくなかった。きっと、死ぬ時に後悔してしまうと思ったから。十全に死ねないと思ったから」


 ……ポトリ、ポトリと、手記に斑点が形成されていた。そして、それはやがて表紙に溜まった。


「……今、分かった。あの子との記憶を思い返しても、そこには全く後悔なんて無かった。あったのは、幸せだけ。あまつさえ私は、きっと私を想ってくれたあの子を、死しても尚 独りにしようとした。きっと、私は独り善がりなのだ。あの子の事を愛していたのに……愛していなかった――」


 段々と、発する声が震えて行く。流れ行く涙と共に、心の内に沈殿していた汚泥も、流れて行く。


「ずっと、これだけでよかった。きっと。塞ぎ込む必要なんか無かった。その想い出を、忘れず抱き続けるだけで良かった。それだけで、これ程までに満たされるだなんて」


 ――浅はかだった。

 そう続ける彼女は、少し、微笑んでいるようにも見えた。


「――今、幸せですか?」


 気付けば、そう尋ねていた。

 何故そう尋ねようと思ったのかは分からない。今でもそうだ。ずっと分からなかった。


 アザミさんは、笑顔で答えた。


「きっと、幸せだよ」


 涙でぐちゃぐちゃになった顔を、また破顔させた。


 その時だった。

 ――本当の彼女と、やっと出会った気がしたのだ。


「……ありがとう。ありがとう――――」


 やっと、彼女を理解出来た。







 

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