ⅩⅩⅨ Last painting

 美術館の奥へと歩いていくと、そこには再び彫刻が飾られた部屋が現れる。

 泣き崩れるミューシェを落ち着かせるため、置かれていた椅子にその力ない体を座らせた。

 するとセオドアの視界の端に何かが映る。一瞬、石像が動き出したのかと錯覚する。しかしそこには美しい天使の彫刻が佇んでいるだけだった。気のせいかとセオドアがミューシェに視線を移そうとした瞬間――。

「ようやく見つけたか」

 天使の彫刻から声が聞こえた。まさか彫刻が喋るなんて――セオドアが丸くした目を擦っていると、次は天井から笑い声が聞こえてきた。

「ボクはここだよ」

 視線を彫刻からさらに右に移すと、そこにいたのはシャルルとルノーだった。

「ルノーさん、それに君は?」

「シャルル……」とミューシェのか細い声が聞こえた。

「やあミューシェ。感傷に浸っているところをすまないが、話はルノーから聞いたよ」

 近づいてくるシャルルをセオドアが警戒する。

「君がセオドアか。ボクはシャルル。務めを果たす天使をまとめる役割を担っている。なに、覚えてくれなくていい。君とはもう会うこともない」

 セオドアが守るようにミューシェとの間に割って入る。その姿をシャルルが鼻で笑う。そしてセオドアを気にする様子もなくミューシェの目の前に立つと、そのしょぼくれた顔を見下ろした。

「確認したい。ミューシェ、君はルノーの願いを叶えるために天界へ戻ってくるのかい?」

 何がおかしいのかニヤついているシャルルにセオドアが難色を示す。

 ルノーは離れた場所から神妙な面持ちでミューシェたちの様子を伺っていた。

「僕は僕に出来ることを考えていたんだ。僕が戻ればルノーは務めから解放される」

「君も務めから解放されたいと願ったのに? 他人のために諦めるのかい?」

 シャルルの問いにミューシェがしっかりと頷く。そして心配そうに見つめるセオドアに向けて眉を落とした。

「テオ、これはテオが僕に教えてくれたこと。今の僕の願いなんだ。だから、そんな顔しないで?」

 泣きはらした目で微笑むとセオドアの手を取る。そして申し訳なさそうにするルノーにも笑顔を向けた。

 その空気に水をさすように、シャルルがトンとつま先を鳴らした。

「あーーーーーあ、つまんないんだーーーー」

 大きく口を開け、天に叫ぶシャルルにみなの目が点になる。

「つまらないとは何だ」と食いかかろうとしたのはセオドアだった。

 セオドアには構うことなく、頭の後ろで手を組んだシャルルがくるりと背を向ける。そんなシャルルにそらからキラキラとチリが降り注ぎ、何かをシャルルに伝えた。

「分かった分かった。それがボクの願いだから、叶えればいいさ」

 降り注ぐ光と会話するシャルル。「どういうこと?」とミューシェが問いかけた。振り向いたシャルルは至極つまらなそうな顔をしている。

「ボクは願った。ルノーのためにミューシェが天界へ戻るなら二人を解放する。でも戻らないなら、ボクが務めから解放される」

「シャルルも、願ったの?」

「天使に平等に与えられるチャンスだろ? どうして使わない」

 シャルルがふんと鼻を鳴らす。

「じゃ、じゃあ、今度はシャルルが解放される術をなくすんじゃないか」

 ミューシェの悲痛な声をシャルルが笑う。

「君らとボクを一緒にしないでくれるか。ボクは務めから解放されたいなんて思っていない」

「じゃあなんで」とミューシェが戸惑う。

「これはただの遊びだよ。長い務めの間のヒマつぶし。一緒にしないでと言ったろう? ボクは天使の務めを嘆いたことなんてない。これはボクだけの存在意義」

 恍惚とした顔を天へ向ける。

 ミューシェが務めについて悟ったように、シャルルはずっとずっと前から気づき知っていた。自分に与えられた役目の在り方を。

 セオドアがシャルルへと一歩進み出る。

「じゃあ君は分かっていたんだね、ミューシェが選ぶものを。だって、そうじゃなきゃ君は務めから解放されてしまう」

 眉間にしわを寄せたシャルルは余計な世話だと言わんばかりだった。

「だから、これは遊びなんだってば。どうなったってそれがボクの運命。それだけだ」

 つっけんどんな態度に向かい、ルノーが深く頭を下げた。小さく舌打ちをしたシャルルに、誰も嫌う気持ちなど持てなかった。

 すっと浮遊したシャルルの背中に4枚の羽が広がる。そして体から柔らかな光が溢れだす。嫌味な顔だが、それはまさしく神々しいほどの天使の姿だった。

「今日はクリスマスイブだってのに、鐘がよく鳴る」

 首をかしげるシャルルとルノーを嘲るように見下ろす。

「君らにはもう聞こえないのか。ならば来る必要もない。あとは死を授かるのみ」

 その言葉にセオドアがはっと息をのんだ。今の瞬間まで忘れていた事実。

 ――務めから解放され、死を授けられる。

 ミューシェが一番初めに語った事だった。

 羽を携えたシャルルは振り返るそぶりもなく空へとあがっていく。

「シャルル!」

 叫ぶミューシェの声にも反応を示さない。それでもミューシェは叫んだ。

「ありがとう! シャルル!」

 ふっと部屋の天井へ消えていった4枚羽の天使。そのあとにはキラキラと煌めく光が残像のように飛び散った。

「まさか、そんな条件を願っていたとは」

 ルノーが眼鏡を直すその視線は伏せたままだった。

「ミューシェ、いろいろとすみませんでした。セオドアさんにも嫌な思いをさせてしまい」

 伏せた目を一度つむる。しかし咎める声など聞こえてはこなかった。

「ルノー、もう君にもシャルルにも会えなくなるかと思うと、自分が願ったことなのにとても寂しいよ」

 ミューシェが差しだした手をルノーが握る。ミューシェを見るその目は、今までのような悲観したさびしい目ではなく、温かく穏やかだった。

「あなたが会えなくなって寂しくなるのは、私なんかではないでしょう」

「それでは」と、別れには短すぎる挨拶を残しルノーが部屋から出て行った。ミューシェはよく知った友人の残影からしばらく目をそらせずにいた。


 子どもたちの弾んだ声を後にし、美術館を出る。ショーホワイトを探したがその姿は見つからなかった。

 帰る間、セオドアはミューシェから目を離せずにいた。

 どこかへ行ってしまう、消えてしまう。直観で感じていた。まだもう少し、もう少しそばにいてくれと願い。その姿を目に焼き付けようと、ミューシェの仕草、表情、声、すべてから目を離せずにいた。

 罪を知ったミューシェはとても落ち着いていた。前から覚悟していたからかもしれない。こうなることを望んでいたから当然のことかもしれない。

「テオ、今日はずっとそばにいて」

 その寂しそうな声に、セオドアの想像は外れていたと知る。

 ミューシェが平静なわけなんてない。悲しくて悲しくて、仕方ないのだ。

「もちろん。いつまでもそばにいる」

 分かっているのに無理なことを言う。そんなセオドアがどうしようもなく愛おしく、ミューシェが儚く華やかに笑った。

 いつもはソファで寝ていたセオドアが、ミューシェの隣、手を握ったまま眠りにつく。しばらく寝付けずにいたようだったが、静かに立てた寝息にミューシェもようやく目をつむった。

 翌朝セオドアが目を覚ますと、握っていたはずの手が軽かった。

 ゆっくりと瞼を開ける。セオドアの隣は空っぽになっていた。

 わずかにミューシェの体温が残っているような気がした。しかしそんな夢想にセオドアは首をふる。

 ミューシェの願いが叶ったのだ。喜ばなくては友などではない。

「よかった。本当に、よかった」

 いたはずのミューシェに向かい、セオドアが言葉をかけた。



 年を越し、一か月ほどの時間が流れていった。

 クリスマス前に田舎へ戻ってしまったショーホワイトには結局きちんと礼を言うことができなかった。しかしどうしてかまた会えるような予感がしていた。その時にはあの絵に描かれた罪について意見を聞いてみようなどと考えた。

 街中ではたまにエリオットが郵便局へ遣いを任されているのを見かけるようになった。リアムはより一層勉学に励み、オープン前のブランチェで勉強をする姿が定着していた。そんなリアムに時間と元気をもらったクラリスは以前に増して生き生きと店を切り盛りしている。セドリックといえば、張り合いがなくなったのが寂しいのか、手紙は来ないのかだの戻ってこないのかだのとセオドアにぼやいていた。

 みんながどこか、ミューシェの帰りを待っているようだった。

 セオドアとてみなと同じ気持ちだった。ただ、セオドアだけが真実と顛末を知っていた。

 開けたままのヴァイオリンケースを足元に置く。朝のロンドンの街へ向かいヴァイオリンを構えた。

「今日もあの日のような曇り空だな」

 そんな事を考えながらヴァイオリンを奏でる。

「テオ! 今日の演奏も素晴らしいよ」

「トビーに素晴らしい一日を!」

 いつもの言葉が飛び交う。たとえ大きな変化があったとしても、日常はなくならない。普遍は何にも影響されない。それが幸せでもあり、少し悲しかった。

 曲を弾き終わり、一度ヴァイオリンを肩から外す。足元に差し込んできた光が視界に入った。

「晴れてきたのか」

 そんな平凡なことを考える。

「ねえお兄さん、アヴェ・マリアは弾ける?」

 声を掛けられたかと思うと、足元に射した光の上に人が立つ。曲名を聞いたセオドアが目を細める。

「ああ、その曲は俺が一番好きな曲なんだ。よかったら聴いていって――」

 セオドアがリクエスト客へと顔を上げる。そして偲ぶような目がどんどんと見開かれた。哀愁を帯びた瞳が輝きだす。

 目の前に立っていたのは、ミューシェだった。

「あの、いや、そんなはずはなくて、だけどとても」

 しどろもどろとしたセオドアの言葉につい吹き出す。

「テオ、ただいま」

 その顔は、声は、瞳は、髪は、頬は、たたずまいは、空気は、やはりミューシェだった。

「どうして……夢なのか」

「夢じゃない。僕はここにいる。テオの目の前に」

 ヴァイオリンを持ったままのセオドアの手にそっと触れる。

「天使は務めから解放されると“死”が与えられる。死とは、この世に生きるものにのみ授けられる。生き物は死ぬために生まれ、死ぬために生きる。だから死が与えらえる事とは、この世に生かされる事だった」

「ちょっと手続きに時間がかかっちゃったけど」とミューシェがはにかむ。

 驚いたままのセオドアが添えられた手を握り返す。

「本当に、本当にミューシェなのか?」

 ミューシェが戸惑うセオドアに嬉しそうにする。うずうずとする背中にもう羽は生えない。

「テオは、僕と生きてくれる?」

「もちろんだとも。こんなに光栄なことはない。ミューシェ、君は本当に天使だ」

「もう天使じゃないよ。テオと同じ、人だよ」

 セオドアが優しく首を振る。

「幸せを運んで来てくれる人、そういう人を天使と言うんだ」

 死者を迎えるだけの存在だった。この世から奪っていくことしかできなかった。それが、とセオドアは言った。

「ならばテオも、みんな、出会った人すべてが僕の天使だ」

 雲が割れ光が差し込む。

 天使のはしごがロンドンの街に降り注ぐ。

 今もどこかで誰かが天使と出会っているのかもしれない。

「ミューシェ、おかえり。さあ帰ろう」

 ヴァイオリンケースをミューシェが担ぐ。

 いつも通り、二人はゆっくりとロンドンの街を歩きだした。



 Last painting Fin.

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