「最悪すぎる。最悪すぎる」

 なんとか岩場からは離れた。しかし、フナムシの大群に襲われ、その弾みで祠を壊し、右手は擦り傷から血が滲み、同時に足まで捻って痛々しく腫れている。写真もほぼ撮れていない、レポートの資料など無いも同然だ。

 喜生は泣くユキを背負い、

「とにかく手当てしてもらえる場所を探そう」

 と寺に向かっていた。町の病院は当然のごとく閉鎖されており、電波がギリギリのスマホで病院を探したが、町から車でかなり戻らなければならないことが分かった。

「病院もお店もないとか、どうやって暮らしてんの」

「こういう場所は定期的に購買車とか検診車両とかが来るらしいよ」

「絶対生きてけない」

「だから限界集落なんだよ。残ってんのは、どうしても故郷で最期を迎えたいって人たち」

 遠くからでも一際目立つ寺へ向かう坂をユキを背負って登っていく。

(ここまでしてくれる人が、あたしにはどれだけいるのかな)

 喜生だけではないか。今まで付き合ってきた男や、合コンで出会った男たちに、ここまでしてくれる人間がいたのだろうか。自然と喜生の首に抱きつく腕に力が入る。



 寺に着くと、袈裟を着た僧が門の前に立っていた。夏とはいえ夕方に近くなり、日が陰って相手の顔までは見えない。

「あの、すみません。彼女が怪我をして」

 喜生が声を掛ける。が、僧は無言だ。

「あの」

 喜生が2度目に口を開こうとすると、僧は「いきやしたね」と言葉を被せてきた。

「は?」

 意味を理解できず、素直に疑問の声が出る。

「貴女、祠に行きやしたね」

 祠に行ったのかと尋ねているようだった。まるで時代劇に出てくる役者のような話し方だ。

「駄目だと、ご忠告申し上げたはずでございやす」

 昼間の青年の顔が浮かぶ。

「あの、ごめんなさい。でもレポートにどうしても必要で」

 危険だと言われていたのだ。足元が悪く、虫も出る。祠も古く、いつ壊れてもおかしくない。そして怪我をした。ほら見たことか。そう責められている。

「すみません、謝ります。弁償もどうにかするんで、彼女の手当てだけでも」

 喜生は頭を下げる。ユキはその後頭部を唇を噛みながら見ていた。

 僧は仁王立ちしたまま2人を眺めている。その後ろから、明るい声が聞こえた。

「なにしとん?」

 昼間の青年だった。彼はユキと喜生を見ると全ての状況を理解したようで「こうなりゃしゃあないな」と2人を寺の中へ案内してくれた。

「ごめんなぁ、あの人ぶっきらぼう通り越して石みたいなお人やから。怖かったやろ。せやから、やめとき言うたのに」

 青年は手際よくユキの手当てをしながら笑った。

「ごめんなさい…ありがとう…」

 ユキは消え入りそうな声で謝辞を述べる。きちんと手当てされたユキの手足を見て、喜生はやっと安心したのか、出された麦茶を音を立てて飲み干した。

「自己紹介まだやったね。自分は西入克也にしいりかつや、あの人は渡川蒼冥とがわそうめいさん」

「篠田ユキです。こっちは唐津喜生」

「付き合うてんの?」

「ち、違います!」

 克也はケラケラと笑う。反対に、蒼冥はにこりともしない。真っ直ぐで短く切り揃えられているのに、顔の右側だけ伸ばした髪で隠している。眼光は鋭いが、彼の顔も端正だ。まったく表情を変えず、また目の下に濃い隈があるせいか感情が見えない。髪色が克也と対照的に真っ黒で、顔にとても暗い影が差しているように見える。先程は怒っているのかと思ったが、違うのだろうか。



「さて、俺たちは帰ります」

 喜生が立ち上がる。足と手を交互に氷嚢で冷やすユキを見ながら、克也と蒼冥に言う。

「いや、あかんよ」

 克也が発した言葉に、ユキは正直驚いた。祠のことだろうか。弁償の話などをまったくまとめていないから? しかし、2人のうちどちらも祠の現状を確認に行っていない。

「ユキだけでも病院に連れていきたいんです。俺は後から戻ってきますから」

「よっちゃん……」

 涙が出てくる。自分が優しさにつけ込んで無理なお願いをしたせいで、喜生を面倒事に巻き込んでしまった。

「篠田さんにこそ、こちらに残って頂かないとあっしらが困りやす」

 蒼冥が時代劇のような口調で言う。

「それ、どういう……」

 ユキは疲れていた。ここから先を聞きたくないのに、疑問を口に出してしまう。

「タマゴを外に運ばれたら、困るんで」

 。なんの? このお坊さんは、一体、なんの話を。

「渡川さん、ストレート過ぎや」

「では、どのように説明なさるおつもりで?」

 言われ、克也は天を仰いだ。

「んー。はい。分かりました。忠告が弱かったせいもあるしなぁ」

「ございやせん。聞かなかったあちらが悪いんで」

 克也の反応を見る限り、蒼冥が言うことは、おそらく身も蓋もない正論なのだろう。

 ユキは喜生を見た。いつもならどういうことか問い詰めてくれる、ユキを思って行動してくれる。そんな喜生が、立ったままユキを、ただ眺めている。

「よっちゃん?」

 喜生は動かない。


「あんなぁ、ユキちゃん。大海様ゆうんは、本当は多産様おおうみさまって書くんよ。多く産む、分かる?」

「えっと、豊漁じゃなくて、安産の神様ってことですか?」

「うん、そもそも前提が違うんや。神様っていうのは、人間が勝手に言うてるだけや。アレにそんなつもりは無いわ」

 ユキは混乱していた。なんの話だろうか。どうして大海様の話が出てくるの。

「自分、言うたやろ。祠には繁殖期のフナムシしかおらへんよ、て」

 感触を思い出してゾッとする。目の前にいるのは優しげで整った顔の青年なのに、口から出てくる言葉は優しくも美しくもない。

「あそこは、ながーくながーく生きたムシを封印しとったんよ。昔はデカさとたくさんのタマゴでこの辺の人ら困らせたんや。せやから封印した。ただの虫でも、それだけ生きたら人間にとってはや。封印して、時間かけて、なんとかタマゴ孵す精力を削ってった。けど、君が来た」

 全身から汗が吹き出す。暑いからではない、むしろ寒気がする。擦りむいた手がずくずくと傷む。

「自分で孵せへんなら、托卵すればええ。必要なんは若い精力。フナムシにそんな本能も能力もないけど、まぁ多産様やから。そんで、それをさせへんために忠告したんやけど」

「貴女は聞きやせんでしたね」

 蒼冥の低い声が頭に響く。右手が、痛い。

 喜生は。よっちゃんは。どうして何も言ってくれないの。

「フナムシは、メスがタマゴを抱えて、孵るまで守るんでございやす。貴女はメスで、祠にまで手を出した」

 うそだ。

「ここを選んだのは、何故でございやしょう?」

 それはよっちゃんが。

「祠まで迷わなかったのは、何故で?」

 それも、よっちゃんが。

「途中で諦める選択肢は、ございやせんでたか」

 よっちゃんが、たくさん励ましてくれたから。

「たまにいるんでございやすよ。先祖返りが」

 蒼冥の言葉が合図だったかのように、喜生がダンッと床を鳴らして四つん這いになる。顔に、人間の表情は無い。目があちらこちらへ動く。そのまま、人間には決して出せない速度で寺を走り出ていった。岩場で見たフナムシのように、音などほとんど無く。

 ユキの悲鳴は喉に張り付いたまま出てこない。

「彼の血脈に、むかし外に出たタマゴから孵ったがおったんやろなぁ。ユキちゃん使って、タマゴ運びたかったんやろ」

 なんでもないように、克也が言う。

「た、たすけて……おねがいします、病院に連れてって……」

 理解などしたくない。だが確かに、先ほどから右手の痛みが腕まで広がってきている。

「なりやせん」

 非情な宣告だった。

「禁を破ったのは、貴女です。こちらは忠告しやした。立ち入り禁止の看板も見やしたね。それでも聞かなかったのは、貴女です。託されてしまったタマゴはどうしようも無いんで。せめて、ここで孵ってもらいやす」

「外に出すんだけは阻止せんとなぁ。ここの人らはルール守って祠には近づかへんかったし、このまま終わるはずやったんよ。君が外の病院なんか行ったら、パンデミックになる。それやと意味ないわ。多産様もただ繁殖しただけや、自然の摂理やな」

 禁を犯した者が、規則を守った人たち・知らず関係のない人たちを巻き込むのは、おかしいだろう。



 遠い。音が。薄い。空気が。痛い。腕が。肩が。胸が。胃が。腹が。足が。痛い。痛い。痛い。痛い。

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