忠告
沈丁花
①
車窓を木々が走り抜けていく。高速を降りてからもう1時間はこの景色が続いていた。
「ねぇ、まだ? カーナビちゃん、2キロ以上道なりです以外しゃべんないじゃん」
「カーナビちゃんが2キロ以上道なりです以外話さないならそういうことだよ」
「やーっ、もうこの景色あきたァ!」
「仕方ないだろ。ゼミの課題に限界集落の信仰の現状なんて似合わないもん選ぶから」
「だってさ、
「はいはい、例のイケメンくんな。俺こそ関係無いんだぞ、学部すら違うのに。その遠藤くんと来れば良かっただろ」
「よっちゃんはほら、中学からの付き合いじゃん? それに遠藤くんはもう課題決まってたし」
「はあ。なんでユキと同じ大学選んじゃったかなぁ。腐れ縁すぎる」
盛大なため息を吐く喜生に対し、ユキは「光栄でしょ」とニヤリと笑い、新しいペットボトルのジュースの蓋をひねった。
山を抜け、海が見えるとユキは歓声を上げた。
「見て見てよっちゃん! 海! 見てってば!」
「俺がいま海を見たら課題どころじゃなくなるから、おとなしくはしゃいでて」
大学も敷地の関係で郊外にあるが、海に来るというシチュエーションは特別だ。ユキとしては、もちろん遠藤と来たかった訳だが、今回はゼミの課題のため。だから中学時代から付き合いがある喜生を選んだ。彼はユキの言うことならなんだかんだと聞いてくれるのだ。
実はあたしに気があるでしょ。とユキは思う。
「なんでうちのゼミだけ夏休みに課題レポートなんてあるの」
「熱心な教授だからだろ。倍率高いゼミにいるんだから勉強しなきゃ」
「好きで入った訳じゃないってば。親が大学大学ってうるさかったの。あたしは美容系の専門行きたかったのにさ。ゼミだって適当に希望書いただけなのに」
「抽選落ちたやつらが聞いたら怒髪天だな」
喜生が笑いながら集落へ車を滑り込ませていく。
小さな港町だ。8月ゆえ、見える海は陽光を反射して目が痛いくらいに煌めいている。小さな漁船はいくつか停泊しているが、いわゆるビーチのような砂浜は見当たらない。
「え、なんか思ってたのと違う。ショックなんだけど」
「もしかして海水浴場のイメージだった?」
「海って言ったらそうでしょ!」
「ここ限界集落なんだぞ。あと、今日は課題のためのフィールドワーク。宿なんて無いから日帰り。運転は行き帰り俺。バイト代は今日のメシ代」
「ちゃんと奢るよぉ。朝も食べたでしょ、コンビニのおにぎり。よっちゃん、好き嫌いないから助かりますー」
むくれるユキを見ながら、喜生はペットボトルのお茶を口に含む。カーナビに目をやるが、地図画面は海を表す青が大半で、あとは細々とした道路が映し出されているだけだ。
見える民家もほとんどが住民が居ないようで、名前も知らない雑草が庭や壁を覆っている。中には半壊と言っても差し支えないほど屋根が崩れ落ちているものもある。そして物置小屋や電柱に貼られている、正体が分からない宗教の格言らしき看板。その昔この地区で活躍したのかも知れない政治家の色褪せたポスター。海だとはしゃいでいたユキは早くも静かなものだ。
それらを流し見て、喜生は店名が朽ちて読めない個人商店の駐車場に車を停め「やっぱり昼飯も買い込んで来といて良かった」と笑った。
車中で昼食を済ませたあと、ユキはカバンからコピーした資料を取り出す。
「それ、ちゃんと読んできた?」
「さすがに読んだよ。せっかくよっちゃんがまとめてくれた資料だし」
「感謝して欲しい。バイト代増やして」
「してるしてる。おばあちゃんがここ出身なんでしょ?
「バイト代の話になるとユキの耳が遠くなるのなんで?」
大海様。おおうみさま。豊漁と海での安全を司る神らしい。地名と文字列すら同じなのは、結局ここは台風や地震で海の被害に悩まされたせいだろう。そういう場所には災害にちなんだ文字が地名として使われると授業で習った。しかし現在は「イメージが悪い」と土地の字や名前を改変する動きがある。ゼミでその世情について賛否を話し合ったことがある。ユキとしては、どちらでも良かった。名前はあればいいんじゃないの。ひらがなの地名なんて、間違えようがなく分かりやすくて良い。
資料に視線を落としながらそんなことを考えていると、ユキが座っている助手席側の窓がコンコンと叩かれた。視線をそちらへ向けると、ニコニコと笑う青年と目が合う。同い年くらいだろうか。肩ほどまで伸びた少し癖のある髪は海風になびき、レッドブラウンのキューティクルが日に照らされて艶っぽい。顔もかなり整っている部類だ。
(うわ、イケメン。まつ毛なが。髪、ブリーチもしてんのかな、傷んでないのすごい)
目を奪われていると、喜生がユキをつつく。はっとして窓を開けた。喜生は「違うだろ」とため息を吐く。
「こんにちはー、お姉さん。まさかと思うけど観光?」
青年は目尻の下がった笑顔のまま、開いた窓から話しかけてくる。妙な関西風の訛りが入っていた。
「いえ、あの、大学の課題で。大海様について調べたくて」
大海様、と呟くと青年は「やめといたほうがええよ」と続けた。
「え、」
「若い女の子があかんて」
「どうしてですか? 日帰りしますし」
「つまり祠に行く気ぃやろ? やめときやめとき。あそこガタガタの岩場やし、繁殖期のフナムシしかおらへんよ」
繁殖期のフナムシという単語にユキの喉から小さな悲鳴が出る。水族館でもしっかりと見たことはないが、連想されたのは例の黒い甲虫だった。
「な、やめとき」
言葉に圧を感じた。彼は笑顔を崩していない。目尻の下がった優しい笑顔のまま、なぜかユキに圧迫をかけている。
「すみません、やめてもらえます?」
いつの間に運転席を降りたのか、喜生が青年の横に立っていた。
「ちょっと見て回ったらすぐ帰るんで。俺もついてますし。大丈夫ですから」
青年は喜生の顔をじっと見ると、こらあかんわ、とごちた。
「お姉さん、はよ帰り。見て回るんもオススメせんよ。忠告、したからね」
あくまでユキに言うと、青年は着ているアロハシャツを海風になびかせながら車から離れていく。その背を目で追うと、道路側で彼を待っているらしいもう1人の男がいた。袈裟を着た僧だ。僧は合流を待たずに歩き出し、青年は走って僧に追い付く。
ユキが顔を上げると、高台に古い寺が見える。
「あそこのお坊さんたち、かな」
「坊主にしちゃ軽薄すぎだろ、俺のことガン無視だし。気にするなって。さ、気を取り直して祠見に行こう」
喜生に促され、ユキは青年の言葉に引っかかりを覚えながらも小さく頷いた。
祠は海のすぐ傍の岩場にあった。立ち入り禁止の看板があったが、少しだけ頭を下げて素通りした。
足場が悪く磯も近いため、海藻が腐ったような匂いが鼻を突く。喜生曰く、腐っている訳ではないという。プランクトンがどうとかと説明されたが、磯の匂いと焼けるような暑さでユキはとうに参っていた。
「あのお兄さんの言う通り来なきゃ良かったかも……女子にはキツイ……」
「サンダルなんかで来るから。ほらもうちょいだって、頑張れ。写真とかも要るだろ」
わざわざ岩場が削られ、そこに収まるような形で屹立する古い祠。高さはユキの目線ほどもあり、予想していたより大きかった。扉は閉じられており、小さな錠前まで掛けられていた。しかし手入れはされていないらしく、あちこちにヒビや腐食が見える。そもそも、ここに来るまでに町人にひとりも会っていない。これではレポート資料にならない、ここから離れたら誰かに話を聞かないと。ユキの頭にはあの寺が浮かんでいた。
喜生から資料用にと中古で買ったデジカメを渡され、ユキは祠の近くで写真を数枚撮る。そして全体を撮ろうと下がったとき、足にぞわりとした感触を覚えた。恐る恐る下を見る。
てらてらと光る黒い体、長い2本の触角、一対の尾脚、ゾッとするほど多い足。それらが、ユキの足元をわらわらとひとつの生き物のように動いている。
ユキは叫んだ。その場から離れようと藻掻く。しかしユキが藻掻くほど足元のそれらは活発に動き回る。喜生が「落ち着け!」とユキの体を押さえるが我慢など無理だった。手と足をめちゃくちゃに振る。そしてバキンという音が響き、カメラを握ったままの右手に痛みが走った。
ユキと喜生は音がした方向を見る。ユキの右手はもろくなった祠の錠前と扉を破壊し、その暗い中にはまりこんでいた。
神様を祀るものを壊した、という焦りは、すぐにユキの中から消えた。右手に、足に感じた感触と同じものを覚えたのだ。
さわり、さわり、とそれはユキの腕を伝ってくる。ごく細い、柔らかいブラシで撫でられるような感覚。
中のものを、見たくない。知りたくない。出てこないで。触らないで。
ユキは再び叫んだ。
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