第7話 大団円

「都合のいい免罪符」

 というものを考えた時、

「命は、一つなのか?」

 それとも、

「二つなのか?」

 という発想を抱くのであった。

 前章のように、

「命が二つある」

 と考えた時に、これをドッペルゲンガーに結びつけるとすれば、

「平行線でも、交わることがある」

 という、まるで、

「メビウスの輪」

 のような、

「時空の捻じれ」

 というものを考えるのである。

 それを、二宮は、

「繰り返し」

 という発想に置き換えるような思いがあるのだった。

 命が二つあることが、

「今の世界の理屈に近い考え方で、繰り返しというのは、一種の輪廻転生というような発想」

 ということであり、

「一人の人が死んだ時、その瞬間に生まれた人がいた場合、それが生まれ変わりだということで、考え方としては、死後の世界というものを認めないという考え方」

 だというのである。

 ただ、もう一つの考え方として、前提としては、

「ドッペルゲンガーの存在は絶対だ」

 ということから始まり、

「ドッペルゲンガーであろうがなかろうが、その人の命は一つである」

 という考え方である。

 この考え方は、

「一度死んでしまうと、その時生まれた人は、何も同じ時に死んだ人とは一切のかかわりがない」

 ということであり、ただ、関係があるとすれば、死後の世界で、生まれ変わるために、準備ができたことで、ちょうどその人に生まれ変わったとして、同じ瞬間に死んだ人がいたとすれば、その人が、もし、この世に未練があったとすれば、

「幽霊になるか、この世でさまよう間に、同じ時に生まれた人とかかわりができることで、その人が、ドッペルゲンガーのような存在になる」

 ということだと思ったとすれば、

「ドッペルゲンガーというものは、見れば死んでしまうというのは、死ぬのはドッペルゲンガーであり、実際には死んでいる人間なので、この世にいる時は、他人のドッペルゲンガーとして存在していたが、未練がなくなった時点で、ドッペルゲンガーとして、あの世に召されるのだ」

 と考えると、

「少し強引ではあるが、理屈としては、ありえることではないか?」

 と考えるのであった。

 つまり、

「ドッペルゲンガーというのは、命が一つの時と、二つという複数の時とで、解釈は違ってくるのであるが、その発想は、それぞれに信憑性があるということで、その共通点としては、都合のいい免罪符だ」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、二宮は、再度、一つの言葉で、正反対の意味を感じさせることわざを思い出すのであった。

 それが、

「情けは人のためならず」

 ということであり、

「この言葉にも、都合のいい免罪符という発想が存在しているということで、命といえるものが、一つであったり、複数のものが考えられるということになるのではないだろうか?」

 そんなことを考えると、二宮は、

「命が複数あると考える時は、繰り返しという発想を思い描くものであり、それが、今の世の中に辻褄を合わせるという感覚になる」

 というものであり、ぎゃくに、

「命が一つの時は、フェードアウトしていく命を思い描かせ、そこには辻褄を合わせるというよりも、実際の事実と思われることに、発想を結び付けようとしているというものではないか?」

 と考えるようになったのであった。

 そのことを考えるようになったそもそもの発想が、前述のことわざである、

「情けは人のためならず」

 ということであり、これこそが、人間においての、

「最大の免罪符なのではないか?」

 といえると思うのであった。


                 (  完  )

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都合のいい免罪符 森本 晃次 @kakku

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